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 優れた動物観察力
 ダーウィンというと、NHKの動物番組「ダーウィンが来た!」を思い出す。この番組は動物の生活に密着して取材、映像を記録し、これまで知られていなかった情報をわかりやすく紹介して、好評を得ている番組だ。このアプローチの仕方は、ダーウィンが「種の起源」でくわしく述べている動物観察の方法を思い出させる。

 ダーウィンの著書「種の起源」では、ガラパゴス諸島の固有種の動物観察が有名だ。特にゾウガメ、イグアナ、フィンチなどの観察の記述は見事である。同じフィンチでも、さまざまな形のくちばしを持ったフィンチの変化した理由を、食べ物や生活の仕方で説明し、環境に応じで適応していったとする、見事な進化論を展開する。

 ダーウィンが世界を旅行したのは、30歳前後の血気さかんな時だ。まだ誰も目にしたことのない、世界中の生物を見てまわりたいという冒険心には共感を覚える。熱帯で感染症になりながらも冒険を続けるダーウィン。5年の航海が終わった後、いろいろな自然科学者の協力や、教会からの非難を受けながらも進化論を構築し、時代の寵児になっていく。

Charles Robert Darwin

 面白いのは彼が、最初から科学者を目指していなかったことだ。医者を志したが挫折、次に英国国教会の牧師になるべくキリスト教大学のケンブリッジに入学し、1831年には神学の学士号取った。その後、自然科学者に転身、教会では「生物はすべて、神が造ったもの」とされていた理論に対抗し、「進化論」という新しい理論を発表し、多くの人に指示される。ダーウィンとはどんな人だったのだろう?

 チャールズ・R・ダーウィン
 チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809年2月12日 - 1882年4月19日)はイギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築。

 全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、彼が自然選択と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにした。進化の事実は存命中に科学界と一般大衆に受け入れられた一方で、自然選択の理論が進化の主要な原動力と見なされるようになったのは1930年代であり、自然選択説は現在でも進化生物学の基盤の一つである。また彼の科学的な発見は修正を施されながら生物多様性に一貫した理論的説明を与え、現代生物学の基盤をなしている。

 進化論の提唱の功績から今日では生物学者と一般的に見なされる傾向にあるが、自身は存命中に地質学者を名乗っており、現代の学会でも地質学者であるという認識が確立している。

 エジンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学でキリスト教神学を学んでいるときに自然史への興味を育んだ。5年にわたるビーグル号での航海は彼をチャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持した著名な地理学者として確立した。またその航海記は人気作家としての地位を固めた。ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導いた。そして1838年に自然選択説を思いついた。そのアイディアは親しい数人の博物学者と議論されたが、より広範な研究に時間をかける必要があると考えた。

 理論を書き上げようとしていた1858年にアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取った。二人の小論は即座に共同発表された。1859年の著書「種の起源」は自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立した。「人間の由来と性に関連した選択」、続く「人及び動物の表情について」では人類の進化と性選択について論じた。植物に関する研究は一連の書籍として出版され、最後の研究はミミズが土壌に与える影響について論じている。

 ダーウィンの卓越性はみとめられ、19世紀において王族以外で国葬が執り行われた五人のうちの一人となった。ウェストミンスター寺院でジョン・ハーシェルとアイザック・ニュートンの隣に埋葬されている。2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第4位となった。

 種の起源とは?
 「種の起源」( "On the Origin of Species")とはチャールズ・ダーウィンにより1859年11月24日に出版された進化論についての著作である。

 ダーウィンは、「種の起源」の中で、evolution ではなく、Descent with modification という単語を使っている。これは Evolution という語が進歩や前進を意味しており、ダーウィンは進化にそのような意味を込めていなかったからである。

 彼は自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じると主張した。そしてこの過程を生存競争、適者生存などのフレーズを用いて説明した。

 自然選択とは、「(1)生物がもつ性質は個体間に違いがあり、(2)その一部は親から子に伝えられ、(3)環境収容力が繁殖力よりも小さいため生まれた子の一部しか生存・繁殖できない。性質の違いに応じて次世代に子を残す平均的能力に差が生じるので、有利な個体が持つ性質が維持・拡散するというメカニズム」である。

 彼は全ての生物は一種あるいはほんの数種の祖先的な生物から分岐して誕生したのだと述べたが、実際にはタイトルに反して、どのように個々の種が誕生するか(種分化)はほとんど説明しなかった。生物の地理的分布や性淘汰についてもわずかに言及している。当時は DNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異や遺伝の仕組みについてはうまく説明できなかった。また進化を進歩とは違うものだと認識し、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとした。ダーウィンは進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのである。

 本書は非専門家向けに読みやすく書かれており、幅広い関心を集めた。当時の生物学の根本をなす宗教的信念を否定したために、科学的だけでなく、宗教的、哲学的論争も引き起こした。ダーウィンの貢献以来、中立進化説の確立など進化理論は急速に発展した。しかし自然選択説は適応進化の要因として現在も科学的に認められたモデルである。

 ビーグル号航海
 若き日のダーウィン。航海から帰国後、30歳前後と見られる。1831年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア2世の取りなしで参加を認めた。専任の博物学者は他におり、ロバート・フィッツロイ艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍の規則にそれほど縛られることはなかった。しかし幾度か艦長と意見の対立があり、のちに「軍艦の中では、艦長に通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねなかった」と述べている。

 ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航した。南米に向かう途中にカーボヴェルデに寄港した。ダーウィンはここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めている。そのあと南米東岸を南下しバイーアを経てリオデジャネイロに立ち寄ると、正式な艦の博物学者だった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながらダーウィンがその後任を務めることになった。ビーグル号が海岸の測量を行っている間に、内陸へ長期の調査旅行をたびたび行っている。

 モンテビデオを経て出航からおよそ1年後の1832年12月1日にはティエラ・デル・フエゴ島についた。ビーグル号はこの島から若い男女を連れ帰り、宣教師として教育し連れ帰ってきていたが、ダーウィンはフエゴ島民と宣教師となった元島民の違いにショックを受けた。フエゴ島民は地面に穴を掘ったようなところに住み、まるで獣のようだと書き記している。東岸の調査を続けながら1834年3月にフォークランド諸島に立ち寄ったとき、ヘンズローから激励と標本の受け取りを知らせる手紙を受け取った。

 ガラパゴス諸島
 1834年6月にマゼラン海峡を通過し、7月に南米西岸のバルパライソに寄港した。ここでダーウィンは病に倒れ、1月ほど療養した。ガラパゴス諸島のチャタム島(現サンクリストバル島)に到着したのは1835年9月15日であり、10月20日まで滞在した。当時のガラパゴス諸島は囚人流刑地だった。ダーウィンは諸島が地質学的にそう古いものとは思えなかったため(現在ではおよそ500万年と考えられている)、最初ゾウガメは海賊たちが食料代わりに連れてきたものだと考えていたが、ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づいた。なお、この時、ダーウィンがガラパゴス諸島から持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは175歳まで生き、2006年6月22日に心臓発作のため他界している。

 一般にはガラパゴス諸島でダーウィンフィンチの多様性から進化論のヒントを得たと言われているが、ダーウィンの足跡を研究したフランク・サロウェイによれば、ダーウィンはガラパゴス諸島滞在時にはゾウガメやイグアナ(ガラパゴスリクイグアナおよびウミイグアナ)、マネシツグミにより強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味だった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず(ムシクイなど別の鳥の亜種だと考えていた)、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドだった。

 1835年12月30日にニュージーランドへ寄港し、1836年1月にはオーストラリアのシドニーへ到着した。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後6月にケープタウンへ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされた。セントヘレナ島ではナポレオンの墓所を散策している。8月に南米バイーアに再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、アゾレス諸島を経て1836年10月2日にファルマス港に帰着した。航海は当初3年の予定だったが、ほぼ5年が経過していた。

参考HP Wikipedia チャールズ・ダーウィン

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)
クリエーター情報なし
光文社
ダーウィン進化論―生誕200周年、『種の起源』150周年 (NEWTONムック)
クリエーター情報なし
ニュートンプレス

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