謎の古代遺跡

 マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、ペルーのウルバンバ谷に沿う高い山の尾根(標高約2,057m)に位置する、インカ帝国の遺跡である。「マチュ・ピチュ」はケチュア語で「老いた峰」を意味する。山裾からはその存在を確認できず、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと呼ばれる。

 この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。

 行政上クスコと同じ地域に属している。この遺跡の由来には諸説ある。宗教的な施設で、太陽を崇める神官たちが統治した説や、太陽の処女たちが生贄にされたといった説。スペイン人によって追い詰められた最後の砦でだという説。インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘という説…。誰が何のために造ったのか、未だに解明されていない遺跡である。

Machu_Picchu_2009

 いずれにしても、人類の創造的才能を表現する傑作であり、消滅した文明の稀な証拠であり、ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ地域を含む…などの理由から1983年に世界遺産に指定された。また、解明されない謎を多く含むことから、2007年7月、新・世界七不思議の一つに選ばれた。

 コンキスタドールによる侵略

 インカ帝国は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドール(Conquistador) に滅ぼされるまで続いた。

 インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。

 最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。比較的自由に自治を認められた、一種の連邦国家のような体をなしていた。 首都はクスコ。

 アンデス最後の文明インカ帝国を滅ぼした、コンキスタドールとはスペイン語で「征服者」を意味する。とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。ペルーのインカ帝国を侵略したコンキスタドールには、フランシスコ・ピサロがいる。

 1533年にインカ帝国が滅ぼされた後、スペイン人によって激しい搾取が行われるようになり、彼等の征服は先住民の文化・伝統・宗教を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに奴隷の様に使役されるという状況に置かれた。

 従軍した宣教師の中にはバルトロメ・デ・ラス・カサスのように中南米での虐殺・虐待を告発した者も存在したが、小数であり、またカサスのような者は激しい批判を受けた。近代では、インディオの子孫達の社会的立場が向上するにつれ、これらの文化破壊行為は批判的に受け取られている。

 失われたインカ帝国

 マチュピチュを世界的に有名にしたのは、イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガムであろう。彼は、1911年7月24日、この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。マチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。

 この本は、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことでさらに有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

 インカ帝国は最後のアンデス文明とされる。アンデス文明はおそらくBP約9,500年(約紀元前7500年)ころまでに始まったと考えられている。インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。

 平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上となった。

 紀元前後から800年頃には、現在のペルー共和国海岸地帯のナスカ市周辺に、ナスカの地上絵で有名なナスカ文明が栄えた。アンデス文明のうち、灌漑設備が整備され開拓の進んだ前期中間期ないし地方発展期にあたり、同時代のモチェ、カハマルカ、ティアワナコと並ぶ。宗教的中心(巡礼地であるとされる)は、ナスカ川流域のカワチ遺跡とされている。

 ナスカの地上絵は紀元前2世紀から6世紀の間に、「描かれた」と考えられている。1994年12月17日、UNESCOの世界遺産(文化遺産)に登録された。登録名称は『ナスカとフマナ平原の地上絵』である。

 マチュピチュに5つの説

 最近のナショナルグラフィックでは、「マチュピチュ建設の理由、5つの説」という記事が掲載された。
1. インカ最後の都市説: ハイラム・ビンガムは2種類の考えを提示している。1つは“インカ発祥の地”説で、1911年、地元農夫の案内で遺跡を訪れたときに発想したという。後に自説を修正し、伝説の“インカ帝国最後の都市”ビルカバンバでもあると提案した。16世紀、インカ最後の皇帝がスペイン軍と長期にわたる戦闘を繰り広げた場所だ。

2. 神聖な女子修道院説: 「太陽の処女」の寺院と考えたのもビンガムだ。インカの太陽神インティに仕える“選ばれし聖なる女性”というエキゾチックな仮説だ。主な根拠は、現地でビンガム・チームが発見した埋葬状態の多数の遺骨だ。アメリカの骨学者ジョージ・イートンは20世紀初頭、ほぼすべてが女性だったと発表した。

3. 御用邸説: 15世紀の皇帝パチャクテクの“御用邸”だったという有力な説があり、マチュピチュはパチャクテクやその親族集団パナカが保養、狩り、迎賓に利用する場所だったらしい。1980年代に発表された“御用邸”説は、16世紀のスペインの古文書に登場する「ピチュ」という名の王領地を根拠としている。ピチュはマチュピチュと同じ地域にあったという。

4. インカの創造神話を再現説: マチュピチュの建設はもっと宗教性が強かったと推測する学者もいる。イタリア、ミラノ工科大学の天体物理学者ジュリオ・マグリ氏は2009年に調査を実施、マチュピチュはインカの神話を再現した場所だったと発表した。

5. 特別な聖地説: 考古学と人類学を専門とするヨハン・ラインハルト氏は1991年、『Machu Picchu: Exploring an Ancient Sacred Center(マチュピチュ:古代聖地の研究)』を著し、インカの聖地の中でも特別な場所だと発表した。例えば、夏至と冬至、春分と秋分の日にマチュピチュの特定の地点から観測すると、日の出と日の入りが宗教的に重要な山々とぴったり一直線に並ぶという。当時、太陽はインカの祖先と考えられていた。

6. 以上のすべて?: ほとんどの学説は政治面か宗教面を強調しているが、ラインハルト氏など一部の研究者は排他的である必要はないと主張する。ペルーの考古学者ギエルモ・コック氏によると、現代の多くの文化と違い、インカ社会に政教分離の発想はなかったという。二重の目的を持っていても不思議ではない。(National Geographic News)

参考HP Wikipedia マチュピチュ National Geographic マチュピチュ建設の理由、5つの説


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