界面化学の開拓者

 1932年のノーベル化学賞は、アーヴィング・ラングミュア(1881年~1957年)である。アーヴィング・ラングミュアは、アメリカ合衆国の化学者、物理学者である。1932年に界面化学の分野への貢献でノーベル化学賞を受賞した。受賞理由は「界面化学の研究」である。アメリカ人として2人目の受賞者であった。

 界面化学というと、洗剤などの界面活性剤を思い出すが、これは水と油など性質の違う液体どうしを結びつける性質を持つものである。しかし、界面化学は何も、液体の場合だけではない。液体と固体、固体と気体、液体と固体、あるいは固体どうしなど、2つの物質が接する境界に生じる現象を幅広く扱う、化学の一分野である。

 例えば、有名な洗剤による水と油の乳化に始まり、接着剤に見られる、固体と固体の接着、または固体と液体の浸透、ぬれ、腐食、あるいは水素吸収合金などに見られる、固体と気体の吸着など…界面化学は今日多様であり、さまざまな分野で応用されている。

Irving_Langmuir

 アーヴィング・ラングミュアは「界面化学」の開拓者の一人であり、彼自身も実に様々な「界面化学」の実験を行っている。その成果の一部を見てみよう。

・不活性ガス封入によるタングステン電球寿命の延長(1913年)
・ラングミュアの吸着式の提出
・水素プラズマの研究→プラズマの命名(1928年)、静電探針を考案
・高真空水銀ポンプの発明
・ラングミュアの真空計の発明
・ルイス-ラングミュアの原子価理論(1919年)→オクテット則
・白金の触媒作用の研究
・単分子膜(ラングミュア・ブロジェット膜:LB膜)の研究(1934年) キャサリン・ブロジェットとの共同研究
・人工降雨の実験(1946年) (Wikipedia)

 これだけでも、研究は自然科学全般に及ぶ、すごい人だということがわかる。ゲッティンゲン博士論文(1906)に始まり、未発表の「ヨウ化銀の種まきによる天候の広範な制御」(1955)までの50年間に及ぶ科学研究は、既刊223報。研究は迅速に発表し、年間平均5報。強い実用的傾向があり、取得した特許は63件。比較的小人数の助手・共同研究者を指導して研究し、大人数の研究陣を指揮しなかった。

 つねにノートブックを手にしていた。野外でも寝台車の中でもノートした。理論、データ、計算などが克明に書きこまれた54冊のノートブック(各冊330頁)が遺された。晩年、ラングミュアは既刊論文の約1/ 10に当たる20篇を選んで、論文集、Phenomena, Atoms and Molecules(1950)を出版している。

 アーヴィング・ラングミュア
 スコットランドではLangとMuirは珍しくない名前だが、Langmuirはかなり珍しいという。アーヴィングの祖父はグラスゴーからカナダへ移住し、さらにアーヴィングの父、チャールズは20歳代でアメリカに来て、ジョージア出身の医者の娘、サディー・カミングと結婚し、4人兄弟を生んだ。父は14歳で働き始め、35歳でかなりな財産を築いたが、4男が生まれたころ鉱山企業に手を出して全財産を失った。のちに長男アーサーは企業の化学者、次男チャールズ・ハーバートは生命保険会社の副社長、四男ディーンは投資ブローカーとなった。アーヴィングは三男である。

 父は生涯の最後の6年間、ニューヨーク保険会社のヨーロッパ代理店の支配人となり、家族を伴ってパリに駐在した。両親には何でも詳しく記録する癖があった。父チャールズは若いときから日記と金銭出納簿をつけ、毎日の出入を複式記入し、1ペニーの新聞の購入までつけた。母もそれに劣らず記録好きで、経験と観察を詳しく記録する習慣を子どもたちに植付けた。

 アーヴィングはニューヨーク市ブルックリン生まれだが、父のパリ転勤に伴い、3年間パリ郊外の寄宿学校で学んだ。フランス流の厳しい詰め込み教科からは免除された。教師の一人が対数の使い方や、三角術の問題の解き方を教えてくれたが、そういう課外活動を喜んだ。「14歳まで学校が嫌いで、成績は悪かった。」フィラデルフィアへ戻って初めて学校嫌いが止んだ。

 科学に興味をもつようになったのは、ハイデルベルク大学で化学を専攻した、兄アーサーの影響と激励が少年時代から続いていたからである。1898年、コロンビア大学鉱山学部冶金学科に入学した。しかし冶金には興味はなく、そこを選んだ理由は、「そこが化学に強く、しかも化学科よりも物理が多く、物理学科よりも数学が多かったからで、自分はその三つとも欲しかったから」という。1903年6月、平均点94点で卒業した。

 ゲッティンゲン大学
 卒業すると直ちに大学院課程を受けるためドイツへ行った。ゲッティンゲン大学かライプツィッヒ大学を考えたが、ライプツィッヒには自然科学関係の講義はゲッティンゲンの1/ 3しかなかった。オストヴァルトの研究室はドイツ人より外国人のほうが多かった。しかもオストヴァルトはもはや講義は全くせず、実質的に引退して本を書いていた。

 ゲッティンゲンのネルンストの講義は、ゆっくりしゃべって分かりやすかった。ゲッティンゲンには第一次大戦後まで自転車の姿さえなく、学問の聖域にふさわしい静けさがあった。博士論文指導教授としてネルンストに師事した。同時に、ガウスの後継者である大数学者フェリックス・クラインの指導も受けた。

 当時の数学は完全に実用とは無縁で、とくにゲッティンゲンは典型的だったが、数学の応用と、理論的科学と工学の相関関係に関心をもっていたクラインは、他の数学者とは異なり、抽象的でなく、実用的で、分かりやすい教材を選んだ。ラングミュアはかれから数学以上のものを学んだ。テクノロジーから科学へのフィードバックの原理をつかんだことが、ラングミュアがゲッティンゲンで得た最も重要なものだった。

 ネルンストは科学者としてのみならず、発明家やビジネスマンの才能も自負しており、大いに稼いで、好きなことを研究していた。それはラングミュアにとって大きな教訓となったはずだ。ネルンストは研究指導では、無数のアイデアを出してきた。その多くは必ずしも好くなかったが、あるものは極めて好いアイデアだった。ラングミュアは、ネルンストが物事を常識の見地から見るのに感銘を受けた。ネルンストのつよい原子論的見解に影響された。ネルンスト研究室の実験装置が簡素なのに魅了され、生涯にわたって装置の簡素さにこだわることになる。

 1906年、「白熱白金フィラメントの近傍での水蒸気と二酸化炭素の解離」でPh.D.を取得した。このテーマが生涯のライトモティーフとなった。ゲッティンゲンの3年間に、研究者になるか、産業化学者になるか迷ったが、兄の勧めもあって大学の教職を選んだ。ニュージャージー州、ホボーケンにあるスティーヴンズ工科大学の講師となった。

 しかし授業時間は多く、研究の雰囲気はなく、満たされない思いだった。在職3年間に発表した論文は1報、実験結果を含まないものだった。

 ある夏休み1909年、夏休みの2ヶ月間研究をさせてもらうことになり、初めてGE研究所を訪れた。所長ホイットニーは、ただちに仕事をあてがわず、何日かかけて研究所を見て回った上で、一番やりたいことを決めるようにといった。研究所ではクーリッジ
が開発したばかりのタングステン電球が、徐々に黒ずんで、寿命が短くなるのが大問題になっていた。ラングミュアはタングステン・フィラメント中に不純物が気体状で吸収されているのが原因ではないかと考えた。そこでさまざまな線を真空中で加熱して気体の量を測定したいとホイットニーに申し出た。研究所の真空装置は大学のよりはるかに良かった。

 フィラメントの体積の7, 000倍という驚くべき大量の気体が放出された。この気体がどこから出たかを調べるのに夏の大半を過ごした。分かったことは、ガラス表面から徐々に水蒸気が出て、それがタングステン・フィラメントと反応して水素を発生すること、また電球の接合部分から真空中に炭化水素が放出されて、水素と一酸化炭素を生じることだった。

 この夏休みの研究が面白かったので、単調な教職に戻る気になれず、GE研究所で研究を続けてはというホイットニーの申し出を喜んで受けた。その秋入社し、生涯そこで過ごした。この夏休みがかれの研究人生の出発点となった。

 GE研究所
 ジェネラル・エレクトリック社(GEと略記する) の研究所は、1900年12月15日、マサチュセッツ工科大学(MITと略記する)助教授ウィリス・W・ホイットニーが、MITのポストはそのままで、週2日、スケネクタディに来て研究を始めたのが実質的な始まりである。

 1902年、副社長W. ライスが、オリジナル研究だけをおこなう研究所を設立すると述べたのは、これを公式に発表したことになる。企業の研究所といえば、メンロ・パークのエディソンの研究所が最初であるが、エディソンの焦点が発明にあったのに対して、ホイットニーが創りだしたのは、1900年以前にはなかった、発明家でもエンジニアでもない、研究の自由を与えられた「企業の研究者」だった。

 ホイットニーはライプツィッヒのオストヴァルトの許で博士号を取得。週に2日、所長としてスケネクタディーで過ごすだけで、大学なら教授に相当する年俸$2, 400を与えられた。8ヶ月後、正式に入社し、1932年まで所長を勤めた。20世紀に出現した、企業における研究所のあり方を創始した人物である。かれの科学への興味は全般的なもので、特定の問題の専門家ではなかった。かれには人を見る眼があり、他人の研究に刺激を与える点で、稀に見る才能があった。

 MITでの元の教え子で、ライプツィッヒ大学の物理学のPh. D.のW. D. クーリッジをGE研究所へ招いたのもかれである(1905)。クーリッジはタングステンを線引きすることに成功した。電灯産業ではエディソン以来の発明だった。1916年にはGE研究所はGE社内ですでに揺るぎない地位を築いていた。スタッフは十数名のPh. D.級の科学者、約50人のエンジニア、熟練助手、テクニシャン、そして100人以上の、ガラス吹き職人、金工、その他の工員からなっていた。1930年には、これらはそれぞれ倍になった。

 高温低圧での化学反応
 ラングミュアが入社した当時、白熱灯は高真空にすればするほど、寿命が長くなると考えられていた。ラングミュアは逆に白熱灯に気体を入れてその悪影響を調べたいと考えた。企業の研究所にいながら3年間は応用を全く念頭におかず、自分の好みのままに研究した。寛容な所長ホイットニーは、かれの好きなようにやらせた。

 電球に入れた気体はそれぞれ異なる行動をした。最も特異な現象は水素を入れたとき起こった。点灯すると封入した水素が消えてなくなった。ガラス球の内壁に活性水素として吸着していることが分かった。フィラメントからの異常な量の熱損失から、ラングミュアは水素分子が高温フィラメント上で原子状水素に解離したと判断した(1912)。

 この発見の後、水素分子の解離、原子状水素とフィラメント表面との相互作用、分子への再結合など、水素に集中して多くの実験を数年にわたっておこなった。タングステンは3, 370℃の高融点をもつので、高温の実験には打ってつけである。GEのお手のもののタングステン・フィラメントと高真空の二つを、見事に活用した実験だった。この研究はラザフォード、ボーア、G. N. ルイスら多くの物理学者と化学者から高く評価された。

 水素、酸素、窒素、一酸化炭素を封入しても、いずれも電球の黒化を生じなかったが、少量の水蒸気が存在するときだけひどい黒化が生じ、電球の寿命が短くなった。水蒸気分子が白熱フィラメントに接触すると、タングステンは酸化物となって蒸発し、水素は解離して原子状水素となる。球面に吸着した酸化タングステンは水素で還元されて金属状態になり、そこで発生した水蒸気はまたフィラメントへと戻る。

 この反応の循環で原子状水素が重要な役割を果たす。こうしてタングステンの蒸発が黒化の原因であることを明らかにした。低圧で高温タングステン・フィラメントと接触する水素、酸素、窒素、一酸化炭素の相互作用、およびそれらとフィラメントとの相互作用の研究は、極低圧での気体と固体表面の反応の古典的研究となった。いわばその副産物のような形で、ラングミュアの最大の実用的発明である、窒素ガス入り電球、高速高真空の水銀凝結ポンプ、溶接用の活性水素トーチランプなどが創り出された。

 研究所に入って3年後に結婚した。アーヴィング30歳、マリオン・マースロー28歳。7年後、子供がなかったので、2歳児ケネスを養子とした。さらに2年後、バーバラを養女とした。子供好きのラングミュアは、アメリカのボーイスカウトの結成以来のスカウトマスターであり、ボーイスカウトの少年たちに科学を教えるのを楽しみとした。やがて息子にも科学を教えこもうとしたが、息子はこれを嫌がり、結局、息子は科学に向いていないと知って大きな失望を味わった。

 界面化学
 タングステン灯の研究は、固体表面と気体の反応の研究であり、不均一触媒の含みもある。それはまた界面化学の先駆的な研究でもあった。触媒反応は、固体表面の吸着気体の、厚い層でおこるという従来の説を斥けて、反応がおこるのは単原子層または単分子層という新しい吸着説を提起した(1915)。また吸着は各分子に特有の配向でおこなわれるとした。

 たとえば一酸化炭素分子では炭素原子は固体表面に付着し、酸素原子は表面層となる。単分子層での吸着量を表す「ラングミュア吸着等温式」を導いた。固体と液体のそれぞれについての2篇の記念碑的な論文がノーベル賞受賞の基礎となる研究である。

 第一の論文(1916)では、吸着、触媒、原子と分子の蒸発と凝結の理論をさらに拡張した。その普遍性を追究した第二の論文(1917)では、液体表面での吸着も単分子膜となり、分子は配向され、吸着膜の性質は配向に依存すること、また分子の形と大きさを簡単な道具で決められることを示した。

 1920年代には、八隅子説とよばれる原子価理論を発表したほか、熱電子放出と真空中の表面という二つの、基礎的にも実用的にも重大な研究をおこなった。トリウム酸化物を添加したタングステン・フィラメントの表面のトリウムの単原子層が、莫大な熱電子を放出することを発見した。

 最初の高真空電子管と最初の高放出電子管陰極を世に送り、のちに電子産業の核心となった。15年にわたって断続的におこなわれたタングステン表面のセシウム吸着の古典的研究も、技術上重要なものだった。

 1932年、「界面化学の分野における優れた諸発見と諸発明」によってノーベル化学賞を受賞した。アメリカ人では2番目、企業の研究者としては最初である。受賞後まもなく液体表面の単分子膜の研究を再開した。キャサリン・ブロジェットとヴィンセント・シェファーの協力で、脂肪酸、ステロール、タンパクなど、有機化合物の水面上の単分子膜の広範な研究をおこなった。ブロジェットは水面上の単分子膜を固体表面に移しとり、任意の枚数だけ重ねた多分子膜(累積膜)を作る方法を案出した(1934)。

 天候の制御
 ラングミュアは12歳でスイスで登山を始め、22歳でスキーを始めた。健脚で1日に104キロ歩いたこともある。49歳から10年間ほど個人飛行をし、操縦の腕は確かだった。当然のことながら天候、気温、風速、波、湖の結氷や解氷など気象関連の現象には深い関心を持ち、生涯を通じて観察と測定を続けた。荒天であればあるほど喜んだので、ノーベル賞受賞のためニューヨークを出港する前日の壮行会では、荒天の航海を祈るといって送りだされた。

 気象学研究を本格的に始めたのは、第二次大戦中の二つの軍事研究からである。一つは煙幕の製造である。レイリの散乱法則によって粒子の最適の大きさを計算し、好みの大きさの油の微細粒子からなる白い煙の発生器を開発した。従来の粗い粒子の黒い煙幕の数千倍の遮蔽効果があり、それに取って替わって広く軍に用いられた。

 今ひとつは飛行機の防氷の研究である。シェファーがドライアイスの粒子を播いて、過冷却された雲の中に氷の結晶の核とする研究をおこない、実験室で、また大気中で人工雪の生成に成功した(1946)(図5)。適当な核を播くことによって人工的に降雪、降雨をおこすことができるという結論に達し、65歳のラングミュアは天候の制御に着手した。協力者ヴォネガットが蒸発しやすいドライアイスに替わり、氷と同じく六方晶系で、蒸発しないヨウ化銀を探し出して、ヨウ化銀の微細粒子の発生器を開発した。

 1946年の冬、ラングミュアのスケネクタディ近辺での降雪実験で豪雪を生じ、交通は渋滞し、事故が多発し、デパートの売上が落ちた。この事件でGE社はかれの実験で損害訴訟のターゲットにされかねないと恐れた。ハリケーンの進路を逸らす試みも行われた。1947年、陸軍がシラス計画で降雨作戦に乗り出して、ラングミュアとシェファーを顧問としたとき、GE社は降雨実験と無関係になったと安堵した。ラングミュアは住民が雨を渇望しているニューメキシコを実験地とし、1949年、7月、数百グラムのヨウ化銀を播いたところ、2度の強雨がヨウ化銀散布の軌道上で発生した。ラングミュアは実験の成功を確信したが、気象局や気象専門家たちは認めようとせず、激しい論争を引き起こした。

 ラングミュアはさらにアメリカ南西部での7日ごとの種まきによる、全米の天候の7日周期性にも注意を喚起した。科学的にも社会的にも大きな関心を呼び起こしたが、かれの成果は生前に立証されるにいたらなかった。

 天候は予言するより制御するほうが易しい、とはいえないまでも、ラングミュアが天候に積極的に何かをした最初の人であることは確かである。(和光純薬時報2007.11)

参考HP Wikipedia アーヴィング・ラングミュア 和光純薬時報vol.75 アーヴィング・ラングミュア

界面化学 (基礎化学コース)
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現代界面コロイド化学の基礎 原理・応用・測定ソリューション 第3版
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