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 新形式の原子理論の確立
 量子力学とは、原子や分子、電子、素粒子などが、どのように振る舞うかを理解するための学問分野である。
 原子や分子、電子などは、粒子の位置と運動量を、同時に両方、正確に測定することはできない(不確定性原理)。また、原子や電子は粒子としての特徴をもつと同時に波としての特徴をもつ(物質波の概念)ことが知られている。一方、光や電波のような電磁波もまた、波としての性質を持つと同時に粒子としての特徴をもつ(光量子仮説)ことが現在知られている。
 しかし、このことは今でも理解しにくい問題だ。「いったい電子はどのように振る舞い、存在するのか?」1927年の第5回ソルベー会議から、1930年の第6回ソルベー会議にかけて、世界中の著名な物理学者が集まって議論した。
 その会議の中心にいたのが、ニールス・ボーアとアインシュタインだった。電子は、粒子の位置と運動量を、同時に両方、正確に測定することができない...という、ハイデンベルクの「不確定性原理」は本当なのか?アインシュタインは「そんなはずはない。神はサイコロ振るようなあやふやな存在をつくらない」 一方、ボーアは言った「アインシュタインの言うことが本当ならば、もう物理学はおしまいだ」

Schrodinger_Dirac
 こうして、量子論をめぐって、科学史に残る、有名で白熱した議論が繰り広げられた。しかし、同じ会議の席中にすでに、“その先”のことを考えている、物理学者が2人もいたことは驚くべきことであった。一人はシュレーディンガー、もう一人はディラックである。この2人の解釈でもって、現代量子論は一応の決着を見ることになる。
 シュレーディンガーは、すでに電子の動きを「波動方程式」で定義してしていた。その式は電子の波としての振る舞いを、みごとに表した。一方、ディラックは、シュレーディンガー方程式と、アインシュタインの相対性理論の両方を説明する、新しいディラック方程式をつくることを考えていた。おどろいたことに2人とも、ニールス・ボーアとアインシュタインの議論には興味がないようだった。

 エルヴィン・シュレーディンガー

 エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(1887年~1961年)は、オーストリアの理論物理学者。波動形式の量子力学である「波動力学」を構築した。量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式やシュレーディンガーの猫などにより一般にも広く知られている。1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。
 シュレーディンガーの人生は放浪そのものだった。オーストリアのウィーンに生まれ育ち、ウィーン大学で学んだが、スイス、ドイツ、イギリス、オーストリア、アイルランド、オーストリアと各地を転々とした。時代は第一次世界大戦~第二次世界大戦。戦火を逃れるためでもあったが、それだけではなく、彼自身の問題もあった。結婚していながら、多くの愛人を持った。そして、ロリタリーコンプレックスでもあった。
 後にノーベル賞を受賞する、シュレーディンガー方程式で、電子の波動性をみごとに表しながら、量子論に懐疑的でもあった。シュレーディンガーの猫は、電子の振る舞いが確率論で決まることへの痛烈な批判だった。彼の“心”も放浪していたのだ。生涯、東洋のヒンドゥー教のヴェーダーンタ哲学に傾倒した。複雑な性格の持ち主だった。ある作家は彼のことを「彼の心は厳格な理論に捧げられていながら、その気性はプリマドンナのように移り気だった」と評した。

 放浪の求道者、シュレーディンガー

 1887年オーストリア、ウィーン生まれる。1906年にウィーン大学に入学して物理学を学んだ。第一次世界大戦のためにイェーナ大学、シュトゥットガルト大学、ブレスラウ大学の教職を経て、1921年にスイス、チューリッヒ大学教授に就任。
 ド・ブロイの物質波の概念を元にして、1926年にシュレーディンガーの波動方程式を導出して波動力学を展開。ついで、波動力学がハイゼンベルクらの行列力学と数学的に同等であることを証明して、量子力学の確立に大いに貢献した。また、シュレーディンガー方程式を解くことが、ボーアの量子論の結果を完璧なものにした。
1927年にベルリン大学教授。1933年にノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は「新形式の原子理論の発見」であった。同年、ナチス・ドイツの台頭とともにドイツを去って、オックスフォード大学教授、1936年からグラーツ大学教授を歴任、最終的にはアイルランドのダブリンへ亡命した。
 量子力学の確率解釈にはシュレーディンガーの猫などを提出して反対した。戦時中からさらに広い領域に活動を進め、1944年「生命とは何か」によって分子生物学への道を開く。第二次世界大戦後は、1956年に母校であるウィーン大学の教授に就任。1958年には「精神と物質」によって人間の精神世界の解明にまでとりくんだ。

 ポール・ディラック

 ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック(1902年~1984年)はイギリスの理論物理学者。量子力学及び量子電磁気学の基礎づけについて多くの貢献をした。1933年にシュレーディンガーと共にノーベル物理学賞を受賞している。
 ディラックは1902年に, イギリスのブリストルで, スイスからの移民の父チャールズとイギリス人の母のもとに生まれた。 ブリストル大学で電気工学と数学を学んだ。ここの工学教室で「数学とは違い、工学では多少の誤差があってよい」と学んだことが、自身の進路を決定する大きなきっかけとなった。1923年からはケンブリッジ大学で物理学を学んだ。
 ディラックは、ここでハイゼンベルグの量子論「行列力学(マトリックス力学)」に独自に解釈を加えて、マックス・ボルンに注目される。1926年からは、ボーア研究所に移る。ここで生涯の友、オッペンハイマーと出会う。1928年、ディラック方程式を発表する。これは、シュレーディンガー方程式とハイゼンベルグの行列力学、アインシュタインの相対性理論を結びつけた方程式として、高く評価された。
 シュレーディンガー方程式は、電子の波動性をよく表していたが、電子が光速に近づくと一致しなくなる矛盾が存在した。ディラック方程式はこの矛盾を解決するものであった。この方程式はまた、電子と正反対の反粒子、陽電子の存在を予言するものであった。真空にエネルギーを集中させると、無から電子と陽電子が生じる。これが方程式の解である。
 その後、1932年にアンダーソンが宇宙から飛来する“宇宙線”の中に「陽電子」を発見。これがきっかけとなり、1933年ノーベル物理学賞を受賞する。受賞理由は「原子の理論における新しい生産的な理論形式の発見」であった。

 純粋な物理学信奉者、ディラック

 ディラックは1937年に、ユージン・ウィグナー(第63回ノーベル物理学賞)の妹、 Margitと結婚した。 結婚当時、Margitには2人の連れ子がおり、またディラック自身は彼女との間に2人の娘をもうけた。
 物理学以外の事柄には余り関心を持たなかったと言われ、友人であったオッペンハイマーが詩を愛好するのを批判して、「誰も知らない事を誰でもわかる言葉で語るのが物理学だ。誰もが知る事を誰にもわからない言葉で語るのが詩だ。」と言った事がある。
 また、有名になる事を極度に嫌っていたと言われ、ノーベル賞が決まった際には、有名に成る事を恐れて、ノーベル賞を辞退しようとした。その際、師であるラザフォードが、「もし、ノーベル賞を断ったら、君は、ノーベル賞をもらった場合より、もっと有名に成る。」と言って説得した結果、渋々、ノーベル賞を受けたと伝えられる。1972年からはフロリダ州立大学に移り、その後の14年間で、60もの論文を残した。
 1984年10月20日死去。コペンハーゲンでともに研究したニールス・ボーアは、ディラックについて、「あらゆる物理学者の中でもっとも純粋な心を持った人間」と評した。食べ物や娯楽には興味がなく、アルコールも煙草も手を出さなかった。ディラックの唯一の趣味が散歩と登山であった。彼は「もっとも良い着想は、一生懸命取り組むときよりもむしろ、散歩しながらリラックスしたときに浮かんでくるものだ」と述べている。
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