メンデル”以後の遺伝学

 遺伝というと「遺伝子」が、全ての生物でDNA上にあり、DNAの塩基配列が遺伝子の正体である…ということは、現在よく知られるようになった。しかし、この考えは一朝一夕にえられたものではない。多くの科学者達の努力で解明したものである。

 遺伝とは世代を超えて形質が伝わっていくことである。遺伝学の開祖であるメンデルは、遺伝を伝える「遺伝子」の存在を予言し、1865年メンデルの法則を発表、この分野の基礎になった。しかし、遺伝学の実質的な進歩は、1900年の「メンデルの法則の再発見」を待たねばならなかった。なぜ35年もの間、歴史の中に埋もれてしまったのだろうか?

 すべての生物が細胞でなりたっていることは、現在ではよく知られている。これを細胞説というが、これがほぼ認められるようになったのが、1870年代になってからだった。メンデルのころは、細胞はまだ一般的なものでなかった。


 そして、細胞の中の核、核の中の染色体は発見されていたものの、その働きは謎だった。ましてや、DNAの働きなど知るよしもなかった。DNAに遺伝子が存在することがわかるのは、さらに50年後の1950年代になってからのことである。

 染色体に遺伝子が存在するのではないか?この説を染色体説というが、染色体説はバッタの染色体を用いた細胞学的観察から、米国の生物学者ウォルター・S・サットンによって1902年によって初めて提唱された。

 サットンはバッタの生殖細胞に、減数分裂が起き、染色体数が半減するのを発見し、これこそメンデルの“分離の法則”に違いないと考えた。しかし、当時はメンデルの法則が再発見されたばかりであり、サットンの提唱した染色体説はすぐに受け入れられなかった。

 仮説であった染色体説を実証に成功したのが、米国の生物学者、トーマス・ハント・モーガンらであった。モーガンらは1910年にショウジョウバエの突然変異体 white (白眼)を発見し、これを用いた交配実験の結果から遺伝子と染色体の関連性を強く示唆する結果を得たのであった。このショウジョウバエを用いた遺伝学的研究により、染色体説は1920年代ごろ確立されることになる。トーマス・ハント・モーガンはこの成果により、1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。


 トーマス・ハント・モーガン

 トーマス・ハント・モーガン(1866年~1945年)はアメリカ合衆国の遺伝学者。ケンタッキー州レキシントンのユダヤ系家系生まれる。1904年~1928年にかけて、コロンビア大学教授。ウッズホール海洋生物学研究所の研究者の一人。

 キイロショウジョウバエを用いた研究で古典的な遺伝学の発展に貢献した。染色体が遺伝子の担体であるとする染色体説を実証し、1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。受賞理由は「遺伝における染色体の役割に関する研究」である。

 モーガンは当初、動物学や発生学を学んだ。1894年には留学した津田梅子の指導にあたり、共同研究を行った成果をまとめ、津田と共著で科学論文「蛙の卵の発生研究」を発表している。津田はその後、日本に帰国後津田塾大学を創設する。

 1900年前後には、プラナリアの再生能力に魅せられ、プラナリアに関する長大な論文を5つほど書いている。その中で、双頭のプラナリアができたことや279分の1の断片からも再生したことを報告している。現代の再生医療の先駆的役割も果たしている。

 1908年からショウジョウバエを用いた遺伝学研究を行った。当時はメンデルの法則が再発見されたばかりであり、遺伝子の実体が DNA であることはもちろん分かっていないばかりか、遺伝子の存在すら疑問視されていた。

 彼はショウジョウバエの突然変異を集め、それらの間で交配実験を行うことで、1913年、染色体地図を作製した(モーガンの弟子の一人であるスターテバントが主に行った)。同時に、それと唾液腺染色体の模様と比較することで染色体上にある遺伝子の位置を特定し、それによって遺伝子が染色体の上にあることを証明した。

彼の研究は、遺伝子を、それまでの架空の存在から、実在する細胞内の部分である染色体に特定することであった。このことで、その物質としての実態を確認し、それを物質として研究する道を開いたことで、遺伝学の方向に重要な道を開いた。

 また、それまで作物や家畜などであった遺伝学の実験材料にショウジョウバエという非実用的な、しかしモデル生物として優れた素材を持ち込んだ点でも意義が大きい。これ以降の遺伝学ではより小さな生物をその実験材料とするようになる。彼の弟子および孫弟子のうち8人が後にノーベル賞を受賞した。


 サットンの“染色体説”

 染色体説とは、遺伝の様式を染色体の性質や挙動によって説明する学説。この学説は遺伝子が染色体上にあることを示しており、現在生物学では当然の前提とされる。メンデルの法則の実証、古典遺伝学の発展、分子遺伝学の基礎形成に深く関連したことで、生物学において重要である。ただしミトコンドリアDNAなど細胞核外の遺伝因子による細胞質遺伝はこれに従わない。

 染色体説はバッタの染色体を用いた細胞学的観察からウォルター・S・サットンによって1902年に提唱され、トーマス・ハント・モーガンらのショウジョウバエを用いた遺伝学的研究により、1920年代ごろ確立された。提唱者の名前をとって「サットン-ボヴェリの染色体説」ともいう。

 遺伝の染色体説を明確に提唱したのはウォルター・S・サットンの1902年の論文が最初である。彼はバッタの一種 Brachystola magna を用いて減数分裂の細胞学的な研究を行い、配偶子形成における染色体の挙動がメンデルの法則に従うことを見いだした。メンデルの法則が再発見されて間もない頃である。

 サットンはこの昆虫では染色体が大きくはっきりと観察できる利点を利用し、配偶子形成における染色体の観察を行った。1902年の論文「Brachystola magna における染色体群の形態について」において、配偶子形成時の細胞分裂では相同な染色体(相同染色体)どうしが対を作っており、これらが配偶子に一つずつ分配され、染色体数の半減、すなわち減数分裂が起こることを示した。

 配偶子形成における染色体の減数と分配が明らかになったことで、それまで推測の域を出なかった染色体説に対して最初の明示的な証拠が提出された。この論文の最後の段落でサットンは「この現象がメンデルの法則に従っており、これが遺伝の物理的基盤である可能性を示唆し、この主題について場を改めてすぐに紹介したい」と述べている。そして翌年の論文『遺伝における染色体』では、この仮説をより発展させ、それぞれの染色分体がランダムに分配されることから、メンデルの法則を説明した (Sutton, 1903) 。

 配偶子がもつ染色体の組み合わせは、体細胞の相同染色体対の累乗であり、次世代における染色体の組み合わせはさらに累乗する。つまり2組の相同染色体をもつ場合、配偶子は 22=4、次世代は 42=16 通り生じる。これはメンデルが交配実験で得た結果と合致する(具体例はメンデルの法則を参照)。さらに、この論文では一つの染色体には多数の遺伝形質が存在することを予言し、またそれらは不分離だろうと述べている(実際には組換えが起こる)。

 ここにおいて25歳の大学院生だったサットンによって細胞学から遺伝現象へと手が差し伸べられたのである。後に遺伝学的手法により染色体説を実証したモーガンやスターティヴァントは「サットンの仮説で染色体説は既に完成していた」と著書や講演の中で述べている。


 モーガンの“染色体説”の実証実験

 ほぼ完成した仮説であったにも関わらず、サットンの染色体説はすぐには受け入れられなかった。理由はいくつかある。まず当時はメンデルの法則が再発見されて間もないころであり、遺伝子の存在に対してすら懐疑的な学者も多くいたことは留意する必要がある。

 染色体説を実証したモーガンも粒子遺伝をすぐには受け入れなかったし、自らが証明することになる染色体説に対しても確証する結果が得られるまで長らく懐疑的だった。また染色体の数は遺伝子の数に比べて圧倒的に少なく、しかも線状であるため、粒子状の遺伝因子のイメージと相容れないものがあった。

 もう一つ大きな理由は、サットンの仮説が観察のみに基づくものであり、実証がなされなかったことである。他の研究者を納得させるには、実験による実証を必要とした。しかし、バッタを用いていたサットンはこれを可能にする遺伝学的な術を持たなかったし、他の多くの研究者も同様だった。「遺伝学 Genetics 」という言葉が作られるのは1906年のことであり、遺伝学はまだ揺籃期にあった。実証はモーガンらによる遺伝学の発展を待たねばならなかった。

 染色体が遺伝子の担体であることを実証したのはトーマス・ハント・モーガンと彼の研究室が輩出した、いわゆるモーガン学派の研究者達である。彼らは飼育が容易で世代交代の速いショウジョウバエを用いて遺伝学を発展させ、変異体の交配による遺伝学的解析と染色体の観察から、染色体説を実証していく。古典遺伝学の発展と染色体説の実証は、彼らの研究成果の表裏であると言うこともできる。

 1904年、ウィルソンの招請によりジョンズ・ホプキンズ大学からコロンビア大学に移ったモーガンは、発生学から転向し、1907年ごろからショウジョウバエを用いた遺伝学研究を始める。染色体説を提唱したサットンを輩出した細胞学の大家ウィルソンとの交流は、モーガン学派による染色体説の発展を促進した。

 モーガンは1910年に最初の突然変異体 white (白眼)を発見し、これを用いた交配実験の結果から遺伝子と染色体の関連性を強く示唆する結果を得た。ショウジョウバエのX染色体は1908年にウィルソン研究室のネティ・スティーブンズによって発見されており、メスはX染色体を2本、オスは1本もっていることがわかっていた。

 純系赤眼のメスと白眼のオスを交配させると、次世代ではオスメスともに赤眼の個体が得られた。これは赤眼が白眼に対して優性なためである。ここで得られたメスと赤眼のオスを交配すると、次世代においてメスは全て赤眼だったが、オスでは赤眼と白眼が半分ずつ生まれた。白眼の変異がX染色体上にあり、伴性遺伝するためと考えると、この現象をうまく説明できる。この結果をより普遍化すると、染色体と遺伝との関連性が明確に示唆されていると言える。


参考HP Wikipedia  トーマス・ハント・モーガン 染色体説 ウオルター・S・サットン


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