1937年...という時代背景

 1937年、日中戦争が勃発したころ、ヨーロッパでもいよいよ第二次世界大戦へと流れていく。4月、スペイン内戦時にゲルニカが空爆され、5月、パリで万国博覧会が開催されるが、スペイン館には、ピカソの「ゲルニカ」が展示された。

 スペイン内戦の最中の1937年4月26日、スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けた。史上初めての都市無差別空爆と言われる。

 滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを題にこの作品に取り組み、わずか1ヶ月弱、6月4日に完成させる。スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵はロンドンなどを巡回したのちにヨーロッパの戦火を避け、1939年、米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられる。

Gyorgyi Albert

 第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めるが、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」とピカソは拒否した。

 科学の分野ではクエン酸回路が、ドイツの化学者ハンス・クレブスにより、発見されている。彼は、この功績により1953年のノーベル生理学・医学賞を受賞する。

 1937年、この年のノーベル生理学・医学賞もクエン酸回路に関係する研究に送られた。受賞したのはハンガリーの生理学者、セント=ジェルジ・アルベルト。受賞理由は、「生物学的燃焼、特にビタミンCとフマル酸の触媒作用に関する発見」である。生物学的燃焼とはなんだろうか?

 生物学的燃焼とは、生物の細胞呼吸のはたらきをいう。つまり、解糖系やクエン酸回路のこと。フマル酸はクエン酸回路の重要な中間物質であり、ビタミンCやB1,B2は回路を回す重要な潤滑油(補酵素)の働きをする。1937年のノーベル生理学・医学賞は、この年発見されたクエン酸回路の根幹部分の研究といえる。

 セント=ジェルジ・アルベルト

 セント=ジェルジ・アルベルト(Nagyrápolti Szent-Györgyi Albert [ˈsɛnɟørɟi ˌɒlbɛrt]、1893年9月16日ブダペスト - 1986年10月22日ウッズホール)は、ハンガリー出身のセーケイ人でアメリカ合衆国に移住した生理学者。ビタミンCの発見などにより、1937年度ノーベル生理学医学賞を受賞。筋肉の研究などでも知られる。

 初めはブダペスト医科大学で学んだが、母方の祖父とおじがブダペスト大学の解剖学教授だった関係で、叔父の研究室に入り研究を開始した。1914年、第一次世界大戦に召集されたが負傷して復員し、勉学を続けて1917年に学位を取得した。同年、ハンガリー郵政長官令嬢のデメーニ・コルネーリアと結婚。

 戦後、ポジョニュ(ドイツ語名プレスブルク、スロヴァキア語名プレシュポロク:現在のスロバキア・ブラチスラヴァ)で研究を始めた。しかし1919年、当地がチェコスロバキア領となって追放され、いくつかの大学を転々とした後フローニンゲン大学に落ち着き、細胞呼吸の研究を開始した。さらにケンブリッジ大学ロックフェラー基金研究員となり、1927年に副腎由来の還元性物質("hexuronic acid"と呼んだ)の単離により博士号を取得。この物質がビタミンCである。

 1931年にはコロジュヴァールからセゲドに移転した王立フェレンツ・ヨージェフ大学(現在の国立セゲド大学)に職を得、ここで研究員と共に地元特産のパプリカから大量精製した"hexuronic acid"が構造的にはL-アスコルビン酸であること、またこれが以前から知られていた抗壊血病因子であることを明らかにし、ビタミンCと命名した。同時に細胞呼吸の研究を続け、フマル酸などが呼吸反応(のちにTCA回路と呼ばれる)で重要な段階をなすことを発見した。1937年、これらの業績(生物学的燃焼、特にビタミンCとフマル酸の触媒作用に関する発見)によってノーベル医学生理学賞を受けた。

 1938年には筋肉の生物物理学的研究を開始し、研究員のシュトラウブ・ブルノーとともに、2種類のタンパク質・アクチンとミオシンが会合するとATPをエネルギー源として収縮することを発見した。

 第二次世界大戦以降

 ファシストがハンガリーで権力を握ると、セント=ジェルジはユダヤ系の友人を逃がす活動を始めた。さらに第二次大戦末期には首相に依頼され、連合国との和平交渉の密命を帯びて(表向きは講義のため)イスタンブルへ赴いた。この計画はドイツに知られ、アドルフ・ヒトラーが逮捕命令を出したため、彼は終戦まで逃亡生活を送る。

 この経歴から戦後は英雄視され、ソ連が認めれば大統領にもなるかと言われた。ブダペスト大学に生化学科を創立し、国会議員に選ばれ、科学アカデミーの再建にも尽力した。しかし1947年にスイスに滞在中に本国で友人である作家のジラヒ・ラヨシュ (Zilahy Lajos) の報を受け、亡命を決意、最終的にアメリカ合衆国に移住した。

 ハンガリー人実業家の援助を得てマサチューセッツ州のウッズホール海洋生物学研究所に研究室を設けた。がその後の数年間、アメリカ国籍のないことや以前の共産政権との関係により、財政的に苦労が続く。1948年にアメリカ国立衛生研究所(メリーランド州ベセスダ)と兼任した。1950年には民間の援助を得て、海洋生物学研究所内に筋肉研究所を設立した。

 1950年代には電子顕微鏡を用いてサブユニットレベルで筋肉の研究を行い、1954年度ラスカー賞を受賞した。1955年にアメリカへ帰化し(ハンガリー国籍は離脱していないため、二重国籍となる)、翌年アメリカ科学アカデミー会員となった。

 1950年代以降、がんの研究にも関心を持ち、これに関して量子力学を生化学に応用する分子下生物学(量子生物学)を提唱した。

 2011年9月16日 Googleのロゴ

 2011年9月16日のグーグルロゴがまた奇妙な表示になっていた。どうやら、この日が生誕118周年を迎えたノーベル賞受賞者の「セント ジェルジ アルベルト」の功績をたたえている。ではロゴのオレンジと彼の関係とは?

 1893年の今日、つまり9月16日生まれの「セント ジェルジ アルベルト」は、ハンガリー出身者で、後に米国に移住して生物学を続け、L-アスコルビン酸つまりビタミンCなどの発見によって、1937年にノーベル生理学医学賞を受賞した。

 ビタミンCといば、野菜や果物に含まれる栄養素だが、その欠乏は歴史を通じて長期の航海で多くの船乗りたちなどがが壊血病にかかり命を失うこと結果になっていたことが知られている。

 そのビタミンCが体の健康に及ぼす影響を解明したのが、今日のグーグルのロゴとポップアップ表示された「セント ジェルジ アルベルト」であり、その生誕118年周年を記念していたわけだ。

 そこでgoogleロゴの周辺にビタミンCがたっぷりのオレンジやリンゴなどの果物のイラストが描かれていたと思われる。彼の人生は決して順風満帆ではなく、波乱に富んでいた。ドイツのアドルフヒトラーのユダヤ人迫害で苦しめられるユダヤ人の友人の逃亡を手助けしたことで自らナチの矢面にたたされ逃亡生活を余儀なくされた。

 しかし結局は米国に亡命することで、研究を続け人類の医学の進歩に大きく貢献することができた。命を大切にする素晴らしい学者「セント ジェルジ アルベルト」が118年前の9月16日に生まれたのである。(Webと人のアマモ場

参考HP Wikipedia:セント=ジェルジ・アルベルト


ビタミンCの研究 New実験キット (NEW実験キットシリーズ)
クリエーター情報なし
学研マーケティング
ビタミンCの大量摂取がカゼを防ぎ、がんに効く (講談社プラスアルファ)
生田 哲
講談社

ブログランキング・にほんブログ村へ 人気ブログランキングへ ←One Click please