「自分の映画で初めて泣いた」宮崎監督
 宮崎駿監督(72)の5年ぶりの新作アニメ映画「風立ちぬ」が、7月20日全国で公開された。宮崎監督は、スタジオジブリの作品の中で「自分の映画を見て初めて泣いた」と明かした。私も公開日に家内と2人で見に行ったが、久しぶりに泣いた。夫婦で見に行くとよい映画だと思った。

 それほど声優さん達の演技が素晴らしかった。絵も美しかった、登場人物が懸命に生きていた。

 物語は大正から昭和にかけて活躍した実在のゼロ戦の飛行機技師、堀越二郎の生涯と、堀辰雄の同名の小説「風立ちぬ」をより合わせた作品で、激動の時代を生き抜いた人々を美しく、繊細に描いた。宮崎監督は「困難な時代に力を尽くして生きる人々を描きたかった」と語っている。

 主人公の堀越二郎は、避暑地の軽井沢で菜穂子と恋に落ちる。二人は婚約するが菜穂子は当時は不治の病だった結核を患っていた。飛行機の設計に心血を注ぐ日々を過ごす二郎。自分は長く生きられないと悟った菜穂子は、療養所を抜け出して二郎のもとに駆けつける。そして二人は結婚し、残された時間を共有する。


 大空を印象的に描くのは過去の宮崎作品と共通するが、これまでの作品にはない大人の恋愛を正面から描いている。イタリア飛行機技師、カプローニとの時空を超えた友情も描かれ、監督の空への尽きない憧れを感じさせる。

 当時「結核」は不治の病だった。風立ちぬの作者、堀辰雄自身も、結核でなくなっている。日本も貧しかった。しかし、そんな時代であっても、堀越二郎は当時世界一の飛行機「ゼロ戦」をつくってしまう。

 どんな時代であっても、夢を持って懸命に生きることは美しい。現代は科学技術が発展し、結核も治療可能になり、宇宙旅行の時代になった。何と恵まれていることか。夢の可能性も広がった。さあ、自分の夢に向かって歩こうではないか。


 ゼロ戦の設計者、堀越二郎
 堀越 二郎(1903年6月22日~1982年1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。

 新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。

 群馬県藤岡市出身。藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科をそれぞれ首席で卒業し、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。木村秀政、土井武夫らとは東大で同期であった。

 ゼロ戦の設計者として有名だが、映画では、彼の出世作となった一つ前の、三菱九六式艦上戦闘機の設計を中心に描いている。

 第一次世界大戦で初めて戦闘機が登場。そのときはまだ複葉機だった。1933年~1934年にかけて、複葉機が単葉機に変わる時代の飛行機開発に携わったのが堀越氏であった。

 具体的には、単葉機は機体が金属でしっかりとしてなければならない。しかし、通常の金属では重すぎる。軽くて丈夫な合金「ジュラルミン」が開発され、鳥の骨のように内部を極力削って中空構造にした。さらに空気抵抗を減らすために機体は極力空気抵抗を減らさねばならない。現在の格好いい流線型の飛行機の原型は堀越氏らによってつくられたのである。

 1934年(昭和9年)、三菱航空機と中島飛行機の両社に試作指示が出され、1935年(昭和10年)に試作機が完成。審査の結果、三菱機が採用された。それが、九試単座戦闘機(きゅうしたんざせんとうき)、後の九六式艦上戦闘機である。

 日本海軍初の全金属単葉戦闘機であり、それまでは外国機のコピーの域を出なかった国産機が一躍世界水準を超えることになったエポックメイキングな機体である。九試単座戦闘機では逆ガル翼を採用するなど革新的な設計を行い、のちの九六式艦上戦闘機の開発につながった。

 1937年7月、十二試艦上戦闘機(のちの零式艦上戦闘機)を設計。堀越氏は九六式艦上戦闘機よりも、むしろ零式艦上戦闘機の設計主任として有名である。

 戦前には七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)、戦時中は零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と数は少ないものの、後世に語り伝えられる名機の設計を手掛けた。戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務した。新三菱重工業では参与を務めた。

 新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。1963年から1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めた。65年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」で東大工学博士。1965-69年防衛大学校教授。1972-73年日本大学生産工学部教授。

 1982年1月11日死去。享年78。    (参考Wikipedia:堀越二郎


 九試単座戦闘機
 九試単座戦闘機(きゅうしたんざせんとうき)は、後に九六式艦上戦闘機として採用された単座戦闘機の試作名称。

 1934年(昭和9年)、三菱航空機と中島飛行機の両社に試作指示が出され、1935年(昭和10年)に試作機が完成。審査の結果、三菱機が採用された。日本海軍初の全金属単葉戦闘機であり、それまでは外国機のコピーの域を出なかった国産機が一躍世界水準を超えることになったエポックメイキングな機体である。また三菱機の設計を堀越二郎(後の零式艦上戦闘機設計者)が行った。

 設計主務者である堀越らは、試作にあたっては失敗に終わった七試艦上戦闘機の反省も踏まえて技術革新を促すため、要求は速度や上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点を絞り、山本五十六海軍少将(当時、航空本部部長)の指示でその他の条件は極力緩和するという方針が示され、本機は艦上戦闘機としての性能要求もされなかった(故に試作名称は「単座」戦闘機であり、「艦上」戦闘機ではない)。

 結果的にそれが功を奏し、両社ともに要求を上回る性能であったが、ことに全面的に新設計の機体で臨んだ三菱は陸軍向けのキ11を海軍仕様にしたに過ぎない中島機(1機のみ試作)を大きく上回る高性能を示し、関係者をも驚かせた。横須賀海軍航空隊の士官達は、九試単戦が要求を20ノット上回る243ノットを発揮したことに「各務ヶ原は空気の密度が小さいのだろう」と疑っていた。

 三菱の試作機は都合6機製作されたが、最初の試作一号機は逆ガル型の主翼を持ち、続く試作機や量産された九六式艦上戦闘機とはかなり印象が異なる機体であった。実質的に九六艦戦の原型となったのは逆ガル翼を廃した試作二号機である。日本で初めて全面的に沈頭鋲を採用した機体でもある。

 1935年(昭和10年)6月に試作二号機のテストをおこなった源田実海軍大尉(横須賀航空隊)は上昇力・速力に問題はないとしつつ、射撃性能・着艦性能は「特に勝れているとも感ぜられなかった」とし、さらに舵の効きも問題視して格闘性能に疑問があるとした。

 その後の採用会議で源田は単葉機の旋回性能の悪さを指摘、「複葉機の九五式艦上戦闘機の方が優秀ではないかとした。大西瀧治郎横須賀空教頭もそれを支持し「中央当局は単に机上の空論に頼ることなく、もっと実際に身をもって飛ぶ人の披見を尊重して方針を定められたい」とした。 そのため翌日模擬空戦が行われ、源田らの判定に任されたが九試が格闘性能にも優れていることが分かり、源田は自身の不明を詫びた。その後は堀越の熱心な支持者となっている。

 ただ高性能を示したものの、着陸時のバルーニング、大迎え角時のピッチングなどの問題解決や発動機の選定に手間取り、部隊配備までには試作開始から丸3年という日時を要することとなったが、逆に開発に時間をかけたこともあって制式後には大きな不具合は発生していない。

 なお、本機系列の陸軍向け試作機であるキ18、キ33の競争試作参加を通して陸軍の同世代機である九七式戦闘機にも大きな影響を与えている。


 要求性能
 最高速度: 高度3000 m付近で190 kt (352 km/h)以上
 上昇力: 高度5000 mまで6分30秒以内
 燃料搭載量: 200 L以上
 兵装: 7.7 mm機銃×2 無線機は受信機のみ
 寸法制限: 幅11 m以内 長さ8 m以内

 実測性能値
 最高速度: 243.5 kt (451 km/h)
上昇力: 高度5000 mまで5分54秒               (参考Wikipedia:九六式艦上戦闘機


 零式艦上戦闘機
 零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機。零戦(ゼロ戦)の略称で知られている。海軍の艦上戦闘機としては実質的に最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終戦まで前線で運用された。太平洋戦争初期、2200kmに達する長大な航続距離、優れた格闘性能を生かして米英の戦闘機に圧勝し、太平洋戦線の占領地域拡大に寄与した。このため零戦は米英パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。

 零戦の開発は1937年(昭和12年)9月に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。三菱では、前作である九六式艦上戦闘機に続いて堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものであり、ライバルの中島飛行機が途中で辞退した。このような経緯から、零戦は三菱単独での開発となった。1939年(昭和14年)4月に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行、翌1940年(昭和15年)7月に制式採用された。


 要求性能 
 零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている。以下にその内容を示す。

 機種 艦上戦闘機 使用別 航空母艦(基地) 用途 1. 敵攻撃機の阻止撃攘 2. 敵観測機の掃討 座席数 1 特性 速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること 航続力 正規満載時全力1時間 機銃 20mm1~2。1の場合は7.7mm 2を追加。弾薬包は20mm 1につき60、7.7mm 1につき300 通信力 電信300浬、電話30浬

 実用高度 3,000m乃至5,000m  1. 離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内 2. 増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること 3. 促進可能なること 4. 必要により30kg爆弾2個携行し得ること


 ここで目を引くのは、航続力が距離ではなく滞空時間で示されていること、目的はあくまでも「敵攻撃機の阻止撃攘」と「敵観測機の掃討」とされ、特性においても「速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適」する事が第一であることである。

 対戦闘機戦闘については「戦闘機との空戦に優越すること」と記載されるのみであり、具体的方法については触れられていない。

 また、一般に言われているような「長距離進攻する(陸上)攻撃機の護衛」や「格闘戦における旋回性能が九六式艦上戦闘機に優越」、「速度と旋回性能の両立」などは一切書かれていない。ただし「昭和十一年度 航空機種及性能標準」に記述がないだけで零戦の仕様書、発注書には書かれていた可能性は否定できない。

 実際に1938年(昭和13年)1月17日、十二試艦戦計画要求に関する官民研究会では、第二連合航空隊航空参謀の源田実は九六式艦戦や九五式艦戦の実戦を説明し、格闘性能、航続距離の必要を強調している。堀越二郎は要求性能を落とすことを要望するが断られている。

 同年4月13日、十二試艦戦計画説明審議会が開かれ、堀越二郎は格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望した。源田は日中戦争の実戦体験から「どれも基準を満たしてもらわなければ困るがあえて挙げるなら格闘力、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」と答えた。

 しかし航空廠実験部の柴田武雄も実地経験から「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘力は搭乗員の腕で補う」と答えた。両者正論の平行線で、堀越二郎は真剣な両者の期待に答えることにした。大戦後期に直線的空戦主体となったため、柴田の考えが支持されることもあるが、趣味の違いでしかないともされる。(参考Wikipedia:零式艦上戦闘機


零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)
クリエーター情報なし
角川書店(角川グループパブリッシング)
大空のサムライ(上) 死闘の果てに悔いなし (講談社プラスアルファ文庫)
クリエーター情報なし
講談社

 ブログランキング・にほんブログ村へ 人気ブログランキングへ   ←One Click please