核兵器廃絶に必要なこと
 今日、核兵器ほど忌まわしいものはない。1度ならず2度までも使われてしまった、我が国に対する公式な謝罪はなく、核兵器を使用して、戦争は終わったが、残念ながら世界平和にはまだほど遠い状態だ。

 現在も核兵器を所持する隣国に一方的に脅されている日本は、それほど悪い国なのか?

 日本国憲法前文にあるように、世界平和を実現するなら、日本だけが戦争を放棄するのではなく、あらゆる面で積極的に、世界平和への提案を続けることが正しい姿勢だろう。日本だけが集団的自衛権まで放棄しても意味はない。日本がなくなってしまっては、世界平和への貢献も何もできなくなるからだ。

 1944年のノーベル化学賞は原子爆弾の原理「原子核分裂」を発見した、ドイツの化学者・物理学者オットー・ハーンに贈られた。この「原子核分裂」の発見には女性研究者、リーゼ・マイトナーの協力によるところが大きいといわれている。この2人がいなかったら、発見が遅れ、広島や長崎に原爆は落ちなかったかもしれない。


 多くの日本人にとって2人は、憎むべき原爆製作者と考えるかもしれない。だが、彼らは「核分裂の原理」を発見しただけで、核兵器開発に反対、ナチス政府には協力しなかった。

 むしろ核分裂のエネルギーを原子力発電など、有益なものに利用しようと考えた。実際に原爆をつくったのは米国のマンハッタン計画に参加した科学者達である。

 その証拠に、第2次世界大戦後、ハーンは連合軍捕虜となりイギリスに抑留され、そこで広島・長崎の原爆投下による惨状を知り強い衝撃を受ける。ドイツ帰還後、ドイツ科学再建に尽力するとともに、ドイツの核武装に反対し、核戦争防止のために、マイナウ宣言やゲッティンゲン宣言などの中心メンバーとして活躍している。

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されると、マイトナーの元には取材が殺到した。当時、アメリカやドイツの原爆開発者とは連絡を取ることができなかったため、マイトナーに注目が集まったのだ。マイトナー自身は実際に投下されるまで原爆についてまったく知らなかった。「ハーンも私も、原爆の開発にいささかなりともかかわっていません」と繰り返した。


 核分裂反応とは何か?
 核分裂反応(nuclear fission)とは、不安定核(重い原子核や陽子過剰核、中性子過剰核など)が分裂してより軽い元素を二つ以上作る反応のことを指す。

 オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンらが天然ウランに低速中性子(slow neutron)を照射し、反応生成物にバリウムの同位体を見出したことにより発見され、リーゼ・マイトナーとオットー・ロベルト・フリッシュらが核分裂反応であると解釈し、fission(核分裂)と命名した。

 不安定核は主に次の3つの過程を経て別の原子核に変わる。

 1.電子もしくは陽電子を放出して僅かに軽い核になる。
 2.He核(アルファ粒子)を放出して少し軽い核になる。
 3.He核より重い大きな核(重荷電粒子線)を一つ以上放出してかなり軽い核になる。

 このうち 1, 2 は一般には原子核崩壊(それぞれベータ崩壊、アルファ崩壊)といい、この核崩壊を起こす原子核は放射線を出す能力を持つ(放射能)。

 原子核分裂というと 2, 3 になるが、一般的には 3 の事を指す事が多い。核分裂性物質の原子核が中性子を吸収すると、一定の割合で 3 の過程で核分裂を起こし、合わせて中性子を放出する。

 この中性子が別の核分裂性物質の原子核に吸収されれば連鎖反応が起こる。また、この崩壊過程は発熱反応である。この連鎖反応と発熱反応の性質を利用して一度に大量の熱を生成する事が出来る。これが原子力発電や原爆の基本原理である。(Wikipedia)


 オットー・ハーン
 オットー・ハーン(Otto Hahn, 1879年3月8日~1968年7月28日)はドイツの化学者・物理学者。主に放射線の研究を行い、原子核分裂を発見。1944年にノーベル化学賞を受賞。

 1879年3月8日フランクフルト・アム・マインに生まれる。マールブルク大学のチンケ(Theodor Zincke 1843―1928)に化学を学び学位取得(1901)。兵役に従事したのち、チンケ研究室に戻り有機化学の研究を行った。1904年ロンドンのユニバーシティ・カレッジのラムゼーのもとでラジオ・トリウムを発見、翌1905年カナダのマックギル大学のラザフォードのもとでトリウムCとラジオ・アクチニウムを発見した。1906年ドイツに戻り、ベルリン大学フィッシャー化学研究所でメゾトリウムを発見。こうして放射能研究者としての基礎を確立した。

 1907年フィッシャー研究所で、M・プランクに理論物理学を学ぶためにきていたL・マイトナーと共同研究を開始、β(ベータ)線研究を通して「放射線放出時の反跳現象」の確認、トリウムDの発見などを行い、原子核崩壊の際のβ線、γ(ガンマ)線の役割を解明した。

 第一次世界大戦中、毒ガスの軍事使用に関する技術的研究・開発に従事した。この間、野戦病院のレントゲン技師として従事していたマイトナーと91番元素プロトアクチニウムを発見(1918)。

 戦後、彼女との共同研究をさらに進め、アイソマー(異性核)を発見(1921)、シュトラスマンとともにフェルミ実験の追試を行い、超ウラン元素生成を確認(1936)、さらにこの超ウラン元素はバリウムであることをつきとめ、中性子によるウランの核分裂を発見した(1938)。

 この発見は、ストックホルムに亡命中のマイトナーを通してボーアによってアメリカに伝えられ、フェルミの連鎖反応の発見と結び付き、核エネルギーの解放への道を開くものとなった。

 第二次世界大戦後、連合軍捕虜となりイギリスに抑留された。そこで広島・長崎の原爆投下による惨状を知り強い衝撃を受け、ドイツ帰還後、ドイツ科学再建に尽力するとともに、ドイツの核武装に反対し、核戦争防止のために、マイナウ宣言やゲッティンゲン宣言などの中心メンバーとして活躍した。

 1944年原子核分裂反応の発見によりノーベル化学賞を受賞。1928~1944年カイザー・ウィルヘルム協会(現、マックス・プランク協会)化学研究所長、1946年からマックス・プランク協会(カイザー・ウィルヘルム協会の改称)総裁などを務めた。今日、彼の業績を記念して、ハーン‐マイトナー研究所、原子力商船オットー・ハーン号、105番元素ハーニウムに名前が残されている。

 1946年までカイザー・ヴィルヘルム協会最後の会長を務め、1948年から1960年までマックス・プランク協会会長を務めた。
 1904年 - 放射性トリウムを発見
 1912年 - カイザー・ヴィルヘルム化学研究部長
 1917年 - プロトアクチニウムを発見
 1921年 - ウランの核異性体ウラニウムZを発見
 1928年 - カイザー・ヴィルヘルム化学研究所(1956年からベルリン自由大学のオットー・ハーン記念ビル)の所長となる
 1938年 - 原子核分裂を発見
 1944年 - ノーベル化学賞受賞。受賞理由は「原子核分裂の発見」


 マイトナーとの関係
 30年以上、一緒に研究を行ってきたが1938年、ナチスの迫害を避けるために、リーゼ・マイトナーはスウェーデンに移らざるをえなくなったが、連絡を取り合っていた。

 同年、ハーンはマイトナーに「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるラジウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を送った。

 この話を聞いたマイトナーはハーンに対し、ラジウムでは物理的に説明がつかないため、この実験をより厳密に行うよう求めた。

 その後、マイトナーはハーンから、この放射性物質はラジウムではなくバリウムではないかという手紙を受け取った。ウランがバリウム(原子番号56)のような小さな原子番号の元素に変化するということは当時ほとんどの科学者は考えていなかった。

 マイトナーはこの実験結果について考え、そして、原子核は水滴に似ているというボーアの理論を適用すれば説明がつくことに気付いた。つまり、原子核に中性子の衝突という力が加わることで、水滴が2つに分かれるように原子核が2つのかたまりに分かれることもあり得る。

 しかも、水滴の場合は表面張力が分割に対する抵抗力となるが、原子核の場合は陽子による電荷があるため、それが表面張力に打ち勝つ力を持っている。

 さらに計算の結果、このような形で原子核が分裂するときには、200MeVという大きなエネルギーが発生することが分かった。一方で、ウランが分裂してできた2つの原子核の質量は、合計すると、元のウランの質量よりも陽子の5分の1だけ軽いという計算結果も得られた。この質量を、相対性理論から導き出される式「E= mc2に当てはめると、ちょうど200MeVとなる。こうして、核分裂の理論は生み出された。その後この理論はボーアらにより、アメリカをはじめとしてたちまち世界中に広まっていった。

 こうしたマイトナーの貢献にもかかわらず、ハーンはナチスの圧力に負けユダヤ人であるマイトナーを外した為、彼女はノーベル化学賞の受賞を逸している。受賞のスピーチでもハーンは、マイトナーの功績についてほとんど触れず、その後も核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主張し続けた。

 マイトナーが導いた「核分裂の発見」は、共同研究者だったオットー・ハーン独りの業績になった。ノーベル賞に輝いたハーンが彼女の貢献に口を閉ざしたとき、控えめな彼女にしては珍しく「これはフェア?」と声を上げたという。

 マイトナーはハーンへの手紙で40年間の友情を裏切られた思いと吐露している。今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確立者であるとされている。


 リーゼ・マイトナー
 オーストリア人リーゼ・マイトナー(Lise Meitner  1878~1974)と、ポーランド人マリー・キュリーには共通点がある。2人とも外国に留学し、手ひどい性差別を受けながら優秀な物理学者になった。

 だが伴侶ピエールとともにノーベル賞を受賞し、晩年には押しも押されぬフランスの英雄になったキュリー夫人と異なり、マイトナーは第2の故郷ドイツを追われ、彼女が導いた「核分裂の発見」は、共同研究者だったドイツ人オットー・ハーン(1879~1968)独りの業績になった。ノーベル賞に輝いたハーンが彼女の貢献に口を閉ざしたとき、控えめな彼女にしては珍しく「これはフェア?」と声を上げたという。

 リーゼの父は、ウィーンで名高いユダヤ系の弁護士だった。啓蒙を信じ、子供8人をプロテスタントで洗礼、学問の重要性を叩き込む。だが当時、オーストリアは大学を女性に解放していなかった。そのため彼女はまずフランス語教師の資格を取り、教育の男女平等が成った1901年、23歳でウィーン大学に入学する。

 専攻は、放射線の発見に沸きたつ物理。5年後、彼女はオーストリアで2番目の女性博士になると、量子力学で注目を集める理論物理学者マックス・プランクの講義を聴くため、1907年にベルリン大学(現フンボルト)へ足を向けた。

 ドイツがまだ女性に大学を解放していないことを、彼女は知らなかったらしい。しかしプランクはリーゼの異才を見抜き、彼女をプライベート待遇で受け入れる。すると化学部の研究員オットー・ハーンが、彼女に放射能の共同研究をもちかけてきた。

 ただ問題はハーンのボスだった。 女性の登場を嫌う化学部の教授は、共同研究を認める条件として、リーゼが地下の実験室以外に姿を現わさないことを求める。彼女はそのため裏口から地下へ降り、トイレには近くのカフェへ急いだという。

 こうして誕生したハーン=マイトナー組は、互いを補足する強力な研究ペアになった。彼らは1909年に「アルファ線スペクトル」、翌年に「ベータ線スペクトル」を検出し、ハーンはヴィルヘルム皇帝協会(現マックス・プランク協会)へ引き抜かれる。ところがリーゼは相変わらず無給の研究員である。

 すると大学の物理学部から救いが来た。教え子のことを心配していたプランクが、折よくドイツも女性に大学入学を認めたのを幸いと、リーゼをドイツ初の女性助手に抜擢したのだ。彼女はこれをバネに1922年、女性で初めて教授資格を取り、同26年には助教授のポストを得る。

 一方、共同研究ではハーンが外部に対して主役を演じる傾向が目立ってきていた。たとえば第1次大戦末期、毒ガス開発チームに詰めていたハーンは、リーゼが主力となってプロトアクチニウム(原子番号91)を発見したにも関わらず、当然のごとく研究代表の顔をし、彼女もそれに反論を加えなかった。

 頭脳集団内での勝負にもセールス感覚が必要だということを、リーゼは理解できなかったのだ。また婦人運動や政治への関心も薄かった。 1933年にヒトラー政権が非アーリア人への弾圧を始めても、彼女は超ウラン元素の共同研究に没頭し、同1938年にオーストリアが併合されて初めて、差し迫る危険に気づく有様だった。

 彼女がスウェーデンへ亡命した直後、ハーンがウラン重量の軽減に気づいたのは運命としか言いようがない。彼から手紙で理由を問われた彼女は、一緒に亡命した甥(物理学者オットー・フリッシュ)と核分裂を想定し、誠実な返事を書いた。後日、ハーンがその発見を独りの名で発表したとき、彼女は自分の甘さを思い知らされたに違いない。

 皮肉にも戦後、リーゼは原子爆弾の国アメリカで「核分裂の発見者」として有名になり、1946年の年間最優秀女性に選ばれた。一方、ドイツではハーンがリーゼの名を極力避けたことで、女性物理学者の存在は忘れられ、彼女もドイツには戻らなかった。

 科学史の再評価が進んだ現在、リーゼ・マイトナーの名は、ドイツが1994年に合成した化学元素(原子109番)に見られる。その名は「マイトネリウム」。命名が彼女「独り」に表された敬意であることは言うまでもない。


参考 Wikipedia: オットー・ハーン リーゼ・マイトナ- 原子核分裂


リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者
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オットー・ハーン―科学者の義務と責任とは (World Physics Selection:Biography)
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