1945年終戦の年のノーベル物理学賞
 1945年のノーベル物理学賞の受賞者はスイスの物理学者ヴォルフガング・パウリ。受賞理由は、「パウリの原理とも呼ばれる排他原理の発見」である。

 パウリの排他原理とは、量子力学の法則の一つ。ウォルフガング・パウリが発見した排他律なのでこう呼ばれる。排他原理を簡単に言うと、原子の中の2つの電子が同時に同じ量子状態(エネルギー状態)を占めることができない…ということ。

 大雑把なアナロジーで説明すると、電子は原子核の周囲を回る決まった席にしか座れず、一つの席には一つの電子しか座れない、ということ。なお、素粒子のうち、この排他原理に従うものフェルミオンと呼び、従わないのはボソンと呼んで区別する。



 1945年というと第二次世界大戦の終わった年である。1945年3月10日、東京大空襲により、死者は約10万人。3月26日硫黄島玉砕、ベルリンの戦いでは、4月30日にナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは総統地下壕で自殺。5月8日にドイツは全面降伏した。

 日本では、6月23日沖縄戦終結。周知のように8月6日広島、8月9日長崎に原爆投下。私の父はこの時、佐世保の海軍にいたが、長崎に落下した新型爆弾については見えなかったし、何も知らされなかったという。

 8月15日には終戦を迎えた。しかし、悲劇はそれだけではなかった。8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州へ侵攻開始した。11日には樺太侵攻。避難民となった民間人に悲劇が起きていたことは忘れてはいけない。

 8月12日麻山事件。日本の哈達河開拓団が避難中に攻撃され、集団自決により421人が死亡。8月13日小山克事件。武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され100人以上が集団自決した。8月14日葛根廟事件。満州国興安総省の葛根廟において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人暴民によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された(日本人避難民最大のジェノサイド事件)。

 8月22日三船殉難事件。樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、1,708名以上が犠牲となった。

 これが戦争だ。こんな悲劇を二度と起こしたくない。それには、現在のようにお笑い中心で、戦争を忘れる教育をするのではなく、戦争の悲劇をしっかり記憶しながら、積極的に平和を造り出す教育をしなければならないと思う。


 パウリの排他律とは何か?
 パウリの排他原理(Pauli exclusion principle)とは、1925年にヴォルフガング・パウリが提出したフェルミ粒子に関する仮定である。パウリの定理、パウリの排他律、パウリの禁制などとも呼ばれる。 内容を要約すると、一つの原子軌道に属する二つの電子は、量子状態を決める四つの量子数の全部を共通には持ち得ない、というものである。

 パウリの排他原理の起源は、N個の電子から構成される多電子系の波動関数、つまりN行N列のスレイター行列式にある。N行N列のスレイター行列式において同値の行か列が二つ存在する場合、N個の電子の内の二つが同一となるため、解が0となってしまう。このため、多電子系におけるパウリの排他原理の成立を、背理的に証明することができる。

 ただし、パウリの排他原理はすべてのフェルミ粒子に対して適用される一方、ボース粒子はパウリの排他原理の拘束を受けない点に注意が必要である。

 言い方を変えると、「二つ以上のフェルミ粒子が、全く同一の量子状態を持つことはできない」ということである。このことは複数のフェルミ粒子からなる系の波動関数が、粒子の交換に対し反対称となり、つまり負の符号が出ることから説明できる。

 また、スピンの方向が違う粒子の場合は、異なる量子状態に属する。例えば、スピンが1/2の電子は、スピンの方向としてある方向(↑)と逆方向(↓)をとり得る。よって、一つの軌道には、上向きと下向きをペアにすることで、最大二つの電子まで入ることができる。 周期表の上のほうにある原子の電子配置は、水素原子の波動関数とパウリの排他原理を使って、おおよそ説明がつく。


 ヴォルフガング・エルンスト・パウリ
 ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(Wolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日~1958年12月15日)はオーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。

 アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。

 パウリはオーストリアのウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。

 パウリはウィーンのドブリンガー・ギムナジウムに入学し、1918年に優秀な成績で卒業した。卒業わずか2ヵ月後に18歳の彼はアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論に関する人生最初の論文を発表した。彼はミュンヘン大学に入学し、アルノルト・ゾンマーフェルトの下で研究を行なった。1921年7月に彼は水素分子イオンの量子論に関する学位論文で博士号を取得した。

 ゾンマーフェルトはパウリに、ドイツ語の百科事典 Encyklopaedie der mathematischen Wissenschaften(『数理科学百科事典』)の相対性理論の記事を執筆するよう依頼した。パウリは博士号取得の2ヵ月後にこの記事を完成させた。完成した記事は237ページに及ぶものだった。この記事はアインシュタインに称賛され、モノグラフとして出版された。この本は今日でもこの分野の標準的参考書となっている。

 パウリはゲッティンゲン大学でマックス・ボルンの助手として1年間過ごし、翌年にはコペンハーゲン大学の理論物理学研究所(後のニールス・ボーア研究所)に滞在した。その後1923年から1928年まで、彼はハンブルク大学の講師を務めた。この時期のパウリの研究は量子力学の現代的理論の構築に寄与した。特に彼は排他律や非相対論的スピン理論の定式化を行なった。

 1929年5月、パウリはローマ・カトリック教会を脱退し、12月にケーテ・マルガレーテ・デプナーと結婚した。この結婚は長く続かず、1930年に離婚している。

 離婚後間もない1931年初め、ニュートリノの仮説を提唱する直前にパウリは深刻な精神的不調に悩まされた。彼は精神科医・心理学者でパウリと同じくチューリッヒ近郊に住んでいたカール・グスタフ・ユングの診察を受けた。パウリはすぐに自分の「元型夢」の解釈を始めるようになり、難解な心理学者ユングの最高の生徒となった。

 間もなく彼はユング理論の認識論について科学的な批評を行なうようになり、ユングの思想、特にシンクロニシティの概念についての説明を与えた。これらについて二人が行なった議論はパウリ=ユング書簡として記録されており、Atom and Archetype(『原子と元型』)というタイトルで出版されている。

 1928年、パウリはスイスのチューリッヒ連邦工科大学の理論物理学の教授に任命された。1931年にはミシガン大学の客員教授として渡米し、1935年にはプリンストン高等研究所に滞在した。

 1934年に彼はフランカ・バートラムと再婚した。この結婚生活は生涯続いたが彼らの間には子供は生まれなかった。

 1938年のドイツによるオーストリア併合によってパウリはドイツ市民となったが、このことは翌1939年の第二次世界大戦勃発とともにユダヤ系であった彼の身を危うくすることとなった。

 パウリは1940年にアメリカへ移住し、プリンストン大学の理論物理学の教授となった。戦争が終わった1946年に彼はアメリカ合衆国に帰化したが、その後チューリッヒに戻り、その後の生涯の大半をここで過ごした。

 1958年、膵臓癌を発病した。パウリの最後の助手を務めたチャールズ・エンツがチューリッヒのロートクロイツ病院に入院していたパウリを見舞った時、パウリは彼に「部屋の番号を見たかね?」と尋ねた。彼の病室の番号は 137 だった。彼は生涯を通じて、微細構造定数が 1/137 に近い値を持つのは何故か、という疑問を考え続けていた。1958年12月15日、パウリはこの病室で没した。


 若い頃のヴォルフガング・パウリ
 パウリは物理学者として、特に量子力学の分野で数多くの重要な業績を残した。彼はほとんど論文を執筆せず、同僚(特に親しかったニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクなど)との間で長い手紙をやり取りするのを好んだ。

 彼のアイデアや成果の多くは論文としては発表されず書簡にのみ残され、手紙を受け取った人物によってコピーされたり回覧されたりすることが多かった。それゆえパウリは自分の研究成果が彼の名前で紹介されないことになっても気にしなかったようである。以下に挙げる成果はパウリの業績として名前が残されているもののうち最も重要な仕事である。

 1924年、パウリは分子線スペクトルの観測結果と当時発展しつつあった量子力学との間にあった矛盾を解決するために、新たな量子自由度のモデルを提案した。おそらく彼の仕事の中で最も重要なパウリの排他原理である。この原理は同じ量子状態には2個以上の電子が存在できないというものであった。その後スピンのアイデアがラルフ・クローニッヒによって考案され、翌年にジョージ・ウーレンベックとサミュエル・ゴーズミットによってパウリの提唱したこの自由度が電子のスピンに相当することが明らかとなった。

 1926年、ハイゼンベルクが現代的な量子力学の理論である行列力学を発表した後でパウリはこの理論を用いて水素原子のスペクトルを理論的に導いた。この成果はハイゼンベルクの理論の信頼性を保証した点で重要な結果だった。

 1927年、パウリはスピン演算子の基底としてパウリ行列を導入し、これによってスピンの非相対論的理論に解を与えた。この成果はポール・ディラックに影響を与え、後にディラックは相対論的電子を記述するディラック方程式を発見した。

 1930年、パウリは放射性同位元素の原子核崩壊の観測を行った。"Liebe radioaktive Damen und Herren"(親愛なる放射性紳士淑女の皆様)と題してリーゼ・マイトナー他宛に送られた12月4日の書簡で彼は、ベータ崩壊で放出される粒子のエネルギースペクトルの連続性を説明するために、それまで知られていない中性で質量の小さな(陽子質量の1%未満の)粒子の存在を提唱した。

 1934年にエンリコ・フェルミが、パウリの提唱した中性粒子にニュートリノと命名して自分の放射性壊変の理論に組み込んだ。ニュートリノは1959年になって初めて実験的に観測された。

 1940年、パウリは量子場の理論にとって重要な成果となるスピン統計定理の証明を行ない、半整数のスピンを持つ粒子はフェルミオンであり、整数スピンを持つ粒子はボソンであることを示した。


 実験装置が壊れる?パウリ効果
 パウリは実験が下手であり、よく実験装置を壊していた。その噂が広がるとパウリが実験装置の近くにいるだけで装置が壊れるという伝説が広がり、彼のこの奇妙な能力に対してパウリ効果という名称が付けられていた。パウリ自身もこの評判を知っており、パウリ効果が現れるたびに喜んだ。

 物理学に関してはパウリは完全主義者として有名だった。この性格は彼自身の研究だけでなく同僚の仕事に対しても発揮された。結果的にパウリは「物理学の良心」として物理学のコミュニティの中に知られるようになり、彼の批評を受けた同僚は彼の疑問に答える義務を負うこととなった。

 パウリは自分が欠点を見つけた理論はどんなものでも ganz falsch(完全な間違い)とレッテルを貼って酷評することもあった。かつて自分が誤りを見つけたある論文に対して彼が「"Das ist nicht nur nicht richtig, es ist nicht einmal falsch!"(この論文は間違ってすらいない)」と述べた言葉は有名である。また、逆に自分の仕事をパウリに認めてもらうことを彼らは「パウリのご裁可(sanction)を得る」と言っていたという。

 物理学界でのパウリに関する有名なジョークとして次のようなものがある。「パウリは死後、天国で神への拝謁を許される機会を得た。パウリは神に、なぜ微細構造定数は 1/137.036... という値をとるのかと尋ねた。神はうなずいて黒板に向かい、すさまじい勢いで数式を書き殴り始めた。パウリは非常に満足げに神の様子を眺めていたが、しばらくして突然頭を激しく振り始めた…。」(Wikipedia)


参考 Wikipedia:ヴォルフガング・パウリ パウリの排他原理 1945年 正確なボーア模型でヘリウムの基底状態エネルギーの正確な計算に成功
物理学と哲学に関する随筆集
クリエーター情報なし
シュプリンガー・フェアラーク東京
137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯
クリエーター情報なし
草思社

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