太平洋戦争の始まり
 12月8日は、太平洋戦争の始まった日である。1941年12月8日未明、日本海軍の真珠湾攻撃(Attack on Pearl Harbor)により太平洋戦争は始まった。

 1941年11月26日、アメリカ合衆国から提示された、ハル・ノート(Hull note)は、日本側が提案した甲案・乙案をまるで無視した、戦争する前に無条件降伏せよといった内容であり、とうてい受け入れられるものではなかった。

 当時日本は、経済封鎖されアメリカから石油などの資源が供給されず、南方に進出するしかなかった。エネルギーや資源のない日本は、よく戦ったといえる。戦争は多くの犠牲者を出した。こんな悲劇は繰り返したくない。


 戦争はよくないことだが、戦艦“大和”や“ゼロ戦”などのように、優れたテクノロジーが開花した面もあった。当時の日本の技術力には驚くべきものがある。あまり知られていないが、世界最大の戦艦“大和”の他に、世界最大の空母“信濃”、世界最大の潜水艦“伊400 ”なども日本が造っている。

 今回、第二次世界大戦中に旧日本海軍が建造した巨大潜水艦が発見された。この伊号第四〇〇潜水艦(伊400)は、1945年にハワイ州オアフ島南岸沖に沈んだものだ。 


 伊四〇〇型潜水艦発見
 全長46メートルの巨大格納庫に水上攻撃機「晴嵐」を3機搭載できる同艦は、旧日本軍が戦争のために建造した伊四〇〇型(または潜特型)潜水艦と呼ばれる潜水空母のひとつで、3隻あった同型艦の一番艦だ。

 伊四〇〇型潜水艦は、1960年代に弾道ミサイル搭載原子力潜水艦が登場するまで、世界最大の規模を誇った。

 「連合国側は、日本が降伏するまで、これら潜水艦の存在さえ知らなかった」と、今回の引き揚げ作業を手がけたホノルルにあるハワイ大学の運用担当責任者、テリー・カービー(Terry Kerby)氏は述べる。

 アメリカ海軍は、これら3隻の潜特型潜水艦と2隻の攻撃型潜水艦を接収し、5隻すべてをハワイに持ち帰った。

 「(しかし)当時、冷戦が過熱し始め」、アメリカ軍はソ連に潜水艦技術が渡ることを恐れたと、カービー氏は述べる。

 そこでアメリカ軍は、全長122メートルの潜水空母と、同78メートルの攻撃型潜水艦、計5隻すべてを1945年にハワイ州オアフ島南部のバーバーズ岬沖に沈めた。

 ハワイ大学の研究チームは、潜特型潜水艦のうち2隻を既に発見していたが、最後の1つ、伊400がこれまで見つかっていなかった。(Jane J. Lee, National Geographic News December 5, 2013)


 伊四〇〇型潜水艦とは?
 伊四〇〇型潜水艦は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。正式には伊號第四百型潜水艦(いごうだいよんひゃくがたせんすいかん)。別名潜特型とも呼ばれる。なお、本型の計画縮小の補填として、巡潜甲型を改造した伊一三型潜水艦があり外形がきわめて似ている。

 3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母とも俗称される。第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大であり、全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る。理論的には、地球を一周半航行可能という長大な航続距離を誇り、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。

 スミソニアン航空宇宙博物館の近代軍用機担当学芸員ディック・ダーソは、「アメリカ東海岸を隠密裏に攻撃するよう特殊設計されており、おそらくワシントンD.C.やニューヨーク市を標的としていたものと考えられる」としている。

 アメリカ本土を生物兵器(主にペスト菌、炭疽菌などの細菌兵器で、陸軍登戸研究所、731部隊が実験・開発)で攻撃する作戦が考案されたが、非人道的であるとの理由から梅津美治郎により中止された。

 また、大西洋岸から移動する艦艇の経由地となるパナマ運河を搭載機で攻撃するという作戦が考案されたが、本艦の完成時には、日本海軍は本土周辺の制海権、制空権ともに失っており、主要艦艇が太平洋にあったうえ、ドイツが降伏したことにより、パナマ運河を攻撃する時期を逸した。

 同型艦3隻が就航したが、いずれも具体的な戦果をあげる前に終戦を迎え、連合国は日本の降伏までその存在さえ知らなかった。終戦直後にアメリカ軍が接収する際、その大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。アメリカ軍による調査の後、冷戦による当時のソ連への情報漏洩を恐れたため海没処分となった。処分の後、その詳しい位置は記録されていなかったが、2005年3月に伊四〇一が、2013年8月に伊四〇〇が海底から発見された。

 米海洋大気局の専門家によれば、伊四〇〇型潜水艦はそれまで対艦兵器としかみなされていなかった潜水艦の用途を一変させ、第二次大戦後の潜水艦の設計・運用姿勢に大きな影響を与えた結果、核の時代の弾道ミサイル発射能力を持った米軍潜水艦に行き着いたという。実際、戦後に米軍が浮上後の潜水艦からパルスジェットミサイルの発射実験を行った潜水艦が酷似した形をしていた。


 開発の経緯
 日本海軍の漸減作戦として「潜水艦による敵艦隊攻撃」というのがあり、その一つに、アメリカ西海岸まで進行してアメリカ艦隊を攻撃可能な航続距離の長い艦(巡洋潜水艦伊一型潜水艦など)が構想された。その後、1942年に建造が検討されることになる本艦に「アメリカの要所であるパナマ運河を攻撃するために、攻撃機を搭載可能な艦」というのが盛り込まれることになるが、それが誰によって、いつ発案されたかは不明である(有力な説は山本五十六によるというもの。彼はこれでアメリカ東海岸を攻撃できないかと考えていたとも言われる)。

 海軍は、本艦以前にも航空機を搭載可能な潜水艦を建造していたが(伊号第五潜水艦、伊号第一二潜水艦)、これらに搭載する機体は、「零式小型水上偵察機」という、攻撃機として使うことが不可能な機体のため、新たに水上攻撃機晴嵐が開発された。設計当初、伊四〇〇型はセイル部と一体化した格納筒内に飛行機を2機搭載する予定であった。

 1942年(昭和17年)の改マル5計画で18隻の建造が計画(設計番号S50)されたが、戦局の移行と共に計画は5隻に縮小され、最終的に3隻が完成した。建造計画の縮小を補う為、1隻当たりの搭載機数が3機に増加され、また、建造途中の甲型潜水艦を晴嵐2機搭載可能な潜水空母に改造した(伊一三型潜水艦:伊一三、伊一四)。

 なお「潜水空母」はあくまでも俗称であり、また空母とはゼロ戦の様な「艦上機を運用できる軍艦」の事であり、伊四〇〇型その他の水上機を運用する潜水艦は、正確には「潜水水上機母艦」的な艦である事には留意が必要である。さらに搭載機数も同時代の通常の巡洋艦並みに過ぎず、その点では本格的な潜水水上機母艦とも言い難い。

 もっとも搭載機の晴嵐は、実戦ではフロートを装着せず非水上機として運用される予定であったが、その場合は当然ながら機体の回収が不可能になり、使い捨てとなる。ちなみに、多数の航空機を運用可能な戦艦・巡洋艦は、(これもいわば俗称であるが)「航空戦艦」「航空巡洋艦」と称されるのが常であり、「戦艦空母」「巡洋空母」といった呼び方はしない。(Wikipedia)


伊四〇〇と晴嵐全記録 (WWセレクションピクトリアル)
クリエーター情報なし
学習研究社
1/350特型潜水艦伊-400用甲板塗装マスキングシート
クリエーター情報なし
WingShipArt

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