ウイルソンの霧箱を改良
 1948年のノーベル物理学賞は、パトリック・ブラケットに贈られた。受賞理由は「ウィルソンの霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見」である。

 ウィルソンの霧箱とは何だろうか?霧箱とは、電子や陽子などの荷電粒子の飛跡を調べる装置。容器内の過飽和蒸気を荷電粒子が通過すると霧滴が生じる。英国の物理学者ウィルソン(1927年ノーベル物理学賞受賞)が考案した。

 1925年、ブラケットは霧箱を用いて粒子の飛跡の写真写真を2万枚以上撮り約40万例の飛翔を記録。そのうちの8例に核反応が見られた。これによって、宇宙線はそのまま地表に到達するのではなく、大気中の元素に衝突し、さまざまな種類の粒子に分裂することがわかった。これを二次宇宙線という。

 1932年ブラケットはこの装置に改良を加え、オッキアリーニとともに宇宙線粒子が核反応を起こすべく進入してくると、自動的にカメラのシャッターが作動する霧箱を考案。このシャッターを作動させるものは、霧箱に取り付けられた2本のガイガー計数管の宇宙線が通過する際に発生する電流だった。


 さらに、γ線からは電子~陽電子シャワーの発生を発見。これはアインシュタインの特殊相対性理論の中の予言「物質がエネルギーから形成される」ことの証拠といえた。また、1933年には、アンダーソンの予言した「陽電子」を確認。この業績により、アンダーソンは1936年のノーベル物理学賞を受賞する。

 また、ブラケットの発見した二次宇宙線の中には湯川秀樹の予言した中間子も含まれており、セシル・パウエルの率いるチームが、1947年に二次宇宙線の中から電荷を持つパイ中間子を発見。これにより、日本人初のノーベル賞受賞者が誕生する。

 当時はまだ中間子を生み出せる加速器がなく、核反応は霧箱による宇宙線の観測にたよるしかなかった。そういった意味でブラケットの業績は、大変重要なものであった。


 パトリック・ブラケット
 パトリック・ブラケットについて調べると、霧箱を使い宇宙線の飛翔を40万例も撮影、その中のわずか8例から核反応を発見するなど、根気強さ粘り強さを感じる。また、第二次世界大戦中は、オペレーションズリサーチの研究に従事。対Uボート戦争の分析研究をしたり、イギリスの原子爆弾計画に関わるMAUD委員会にも所属した。

 彼は幅広いものの見方ができ、国のために多方面で活躍した。政治的には彼は社会主義者であり、労働党支持者であったのもわかる気がする。個人的には、やはり科学者は科学技術でもって人類全体に貢献したいと思う。あまりにも政治に関わりすぎたのではないだろうか?

 パトリック・ブラケット(Patrick Maynard Stuart Blackett, 1897年11月18日~1974年7月13日)は、イギリス人の実験物理学者。メリット勲章勲爵士(OM)、コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章(英語版)勲爵士(CH)、王立協会フェロー(FRS)。霧箱、宇宙線、古地磁気学の研究で知られる。

 ブラケットはイギリス海軍への長い仕官の後、1921年にケンブリッジ大学を卒業し、1933年にロンドンに引っ越してマンチェスター大学に勤めるまで10年間をキャヴェンディッシュ研究所で過ごした。

 ブラケットはメリット勲章とコンパニオン・オブ・オナー勲章を受勲し、1948年には霧箱を使った宇宙線の研究や陽電子の存在の確認、陽電子/電子対の生成の飛跡による確認法の考案などの功績に対してノーベル物理学賞が贈られた。これらの研究によって、彼は反物質の研究の第一人者になった。


 第二次世界大戦中の活躍
 第二次世界大戦中、彼はオペレーションズリサーチの研究に従事し、護送船団の生還や勝算について貢献した。戦争中はオペレーションズリサーチの計算結果を示して戦略爆撃の作戦に声高に反対した。そのため首脳部と摩擦を生じ疎外されたが、戦後、司令部はブラケットの正当性を認めた。1940年から1941年にかけて、彼はイギリスの原子爆弾計画に関わるMAUD委員会にも所属した。

 1940年代後半、「イギリスは核爆弾を持つべきではなくインドなどの植民地に対して科学・技術を進行する義務を負っている」等という急進的な政治的発言で知られるようになった。政治的には彼は社会主義者であり、労働党支持者であった。

 1947年、ブラケットは電磁気力と重力を統一に向けた地球の磁場に関する理論を発表した。彼は自身の理論を証明するための磁気計の開発に何年も費やしたが、効果がないことを悟った。しかしこのことにより彼は地球物理学に興味を持ち、古地磁気学のデータから大陸移動説の証拠を見つけるのに関わった。

 1948年には、ノーベル物理学賞を受賞、受賞理由は「ウィルソンの霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見」である。

 ブラケットは1953年にインペリアル・カレッジ・ロンドンの物理学部の責任者になり、1963年7月に退任した。現在のインペリアル・カレッジ・ロンドンの物理学部の建物は彼にちなんでブラケット研究所と名づけられている。1933年に王立協会のフェローに選出され、1940年にロイヤル・メダル、1956年にコプリ・メダルをそれぞれ受賞、1965年には王立協会の会長に就任した。1969年に一代貴族として「大ロンドンにおけるチェルシーのブラケット男爵」に叙された。


 エネルギーから物質は形成される
 1919年ラザフォードは窒素原子にα線粒子を衝突させる実験にもとづいた元素の変換理論を発表。ブラケットは霧箱を用いて粒子の飛跡の写真写真を2万枚以上撮り約40万例の飛翔を記録。

 そのうちの8例に核反応が見られた。1925年のことである。その後32年、オッキアリーニとともに宇宙線粒子が核反応を起こすべく進入してくると、自動的にカメラのシャッターが作動する霧箱を考案。これにより観測の効率が上がる。このシャッターを作動させるものは、霧箱に取り付けられた2本のガイガー計数管の宇宙線が通過する際に発生する電流である。

 そして、γ線からは電子~陽電子シャワーの発生を発見。これはアインシュタインの特殊相対性理論の中の予言「物質がエネルギーから形成される」ことの証拠といえた。また、アンダーソンの陽電子を33年に確認。その後も宇宙線の研究を続けた。

 彼が率いたマンチェスター大学の研究室では、ロチェスターとバトラーが奇妙粒子を初めて発見。彼らはそれを荷電粒子と1個の中性子と同定。1948年ブラケットは、宇宙線・原子核の研究により、ノーベル物理学賞を受賞。主著に「原子量の軍事的・政治的意義(48年)」「戦争研究(62年)」がある。


 宇宙線が生成する「空気シャワー」
 1912年ヘス(1936年ノーベル物理学賞)によって発見された宇宙線は、さらに調べていくうちに無作為に降り注ぐのではないこともわかってきます。数台の放射線検出器を、距離をおいて設置し宇宙線を検出すると、一度に大量の宇宙線が地表に到達している様子が観測されたのです。

 また1936年には、高度が上がるにつれ急増する宇宙線の線量は、高度およそ15キロメートルでピークとなり、その後急速に減少するという測定がされました。つまり、これまでに地表で検出されていた宇宙線は、宇宙で発生し地球に到来した高エネルギーの宇宙線が大気と反応することで生成された、二次的な宇宙線であることがわかったのです。宇宙に起源する宇宙線を一次宇宙線、大気と反応して生成する大量の粒子を二次宇宙線と呼びます。

 地球大気に猪突する一次宇宙線は、空気中の酸素分子や窒素分子と反応を起こすと、その高エネルギーに依り原子核を破壊し、中間子と呼ばれる新たな粒子を多数生成します。生成された中間子もまた高速で周りの原子核に衝突しさらに多数の中間子を生成し、粒子の数をねずみ算的に増幅しながらエネルギーを落としていきます。

 このうち寿命が短いものはすぐに「崩壊」し、最終的には、1,000億個もの比較的エネルギーが低いミューオン、ニュートリノ、中性子、ガンマ線や電子・陽電子となって数百平方メートルの地上に降り注ぐのです。

 この二次宇宙線のシャワーを「空気シャワー」と呼びます。ミューオンや中間子、陽電子は、空気シャワーの観測により発見された粒子であり、宇宙線研究は素粒子物理学の発展に大きな貢献をしてきました。(東京大学宇宙線研究所)


参考 東京大学宇宙線研究所:宇宙線が生成する「宇宙シャワー」 Wikipedia:パトリック・ブラケット


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