マラリア撲滅か環境汚染か?諸刃の剣“DDT”

 1948年のノーベル生理学・医学賞はパウル・ヘルマン・ミュラーに贈られた。受賞理由は「多数の節足動物に対するDDTの接触毒としての強力な作用の発見」である。

 DDTというと、強力な殺虫剤ではあるが、自然界で分解されにくいため、長期間にわたり土壌や水循環に残留し、食物連鎖を通じて人間の体内にも取り込まれ、神経毒として作用するものとされる。またアメリカの野生ワニなどで環境ホルモン作用も疑われた。

 DDTは発がん性があるとされ、また環境ホルモンの可能性もあるため、現在、日本を初め世界の主要国において製造・使用が禁止されている。ところが今なお、マラリア撲滅のための最有力候補でもある。


 経済的にも工業的にも弱体である発展途上国ではDDTに代わる殺虫剤を調達することは困難であり、DDT散布によって一旦は激減したマラリア患者がDDT禁止以降は再び激増した。

 例えばスリランカでは1948年から1962年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数を31人にまで激減させることに成功していたが、DDT禁止後には僅か5年足らずで年間250万に逆戻りしている。

 また、発展途上国ではDDTに代わって、パラチオンなどのDDTよりも毒性が強いことが判明している農薬が使用されている実態もあった(なお、パラチオンは日本を含む主な先進国では使用が禁止されている)。

このため2006年よりWHOは、発展途上国においてマラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回ると考えられる場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認めた。WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる。DDTはいわば諸刃の剣なのだ。


 パウル・ヘルマン・ミュラー

 パウル・ヘルマン・ミュラー(Paul Hermann Müller、1899年1月12日~1965年10月12日)はスイスの化学者。1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。ノーベル賞受賞理由である節足動物に対するDDTの毒作用の発見で知られる。

 スイス北部のゾロトゥルン州オルテンで生まれる。父親は国鉄の管理職だった。1916年から製薬業の中心都市であるバーゼルの化学工業研究所で実験技師として勤務する。1918年、高等学校に入学、1919年に卒業後、1920年にはバーゼル大学に入学し、1925年、「不斉メタキシリジンと誘導体の化学的、電気化学的酸化の研究」により博士号を取得、卒業する。1925年からはガイギー社(現ノバルティス)の染料研究所において皮なめしに使う薬品の研究を始める。

 1935年、衣服などの織物を蛾などの食害から防ぐ物質を探る。目標は接触毒として働く殺虫剤を合成することだった。1939年、目的通りに働くDDTを発見した。DDTは蛾だけでなく、多数の節足動物(昆虫)に有効であることが分かる。

 おりしも第二次世界大戦が始まり、蚊が媒介するマラリア、シラミが媒介する発疹チフスの流行を抑えた。1948年、DDTの発見によりノーベル医学・生理学賞を受賞。

 1962年、ギリシャのテッサロニキ大学から名誉博士号を授与される。理由は地中海沿岸の疫学的問題を解決したというものあった。ガイギー社の副社長も務めた。1965年、バーゼルで死去。


 DDT発見と効果

 ミュラーが殺虫剤の研究に至った理由は、最初に取り組んだ問題が、毛皮や毛糸の保護だったからだ。当時、イガによる毛糸の食害が問題となっており、殺虫剤の方法論を考案する。従来の殺虫剤はガによる経口摂取に頼っていたが、この方法では効率が悪い。そこで、接触性の殺虫剤の可能性を探った。昆虫の体表(付属肢)はキチン質で覆われており、水溶性の物質は浸透しない。そこで疎水性物質に着目した。

 最初によい結果が得られたのは合成経路が単純なクロロベンゼンの誘導体である。有機塩素系化合物の可能性を探るうち、DDTを見出す。DDT自体は1874年にドイツで合成されていたが、強力な殺虫効果があることを見出したのはミュラーである。さらに、昆虫をはじめとする節足動物にのみ毒性を発揮し、ヒトや家畜、農作物に対して無害であることが魅力的だった。安定で無臭であり、散布にも適していた。

 1942年にはゲザロールという名称で市販される。昆虫を介する伝染病に対する散布薬として利用された。DDTの効果がはっきりしたのが1943年の連合軍によるイタリア南部の中心都市ナポリの占領である。当時、イタリア戦線では発疹チフスが流行しており、これを抑えることができなければ、戦線の行方を左右しかねなかった。

 そこで、1944年1月、ナポリ市民全員にDDTを散布、シラミが全滅したことにより発疹チフスの流行は収束した。発疹チフスは毎年冬季になると流行していたが、薬物によって流行を抑えたのはこれが最初のことである。当時、イタリア中部をはさみナチス・ドイツと連合軍の戦闘が継続しているさなかであった。

 第二次世界大戦後、DDTは農薬としても利用されるようになった。すぐに薬剤に耐性のある昆虫との戦いも始まった。しかし、DDTは安定で環境に残留し、脂溶性であるため食物連鎖によって生物濃縮されることが問題視され、各国で相次いで製造、使用が禁止される。日本においても1970年に使用禁止となった。ただし、DDTの禁止により伝染病、とくにマラリアを媒介するハマダラカに対する強力な武器を失い、マラリアの蔓延に十分に対抗できなくなってしまった。


 革なめし剤から始まった研究

 学生時代ミュラーは「不斉メタキシリジン並びにその誘導体の化学的・電気化学的酸化の研究」を行って博士号を取得した。ガイギー社に入ると、初めに革なめし剤の研究を行い、いくつかの良質な合成革なめし剤を開発。次に毛皮の保護や、毛糸をイガから守る研究をした。

 その後、対象を織物に移し、蛾による食害を防ぐ物質の研究を開始。その過程で従来の経口性殺虫剤に対し、接触性殺虫剤の必要性を感じ、その研究に取り組んだ。

 接触毒は昆虫の足から中枢神経に至る経路をとると考え、このことから疎水性の物質が適していると判断。クロロホルム型クロロベンゼン誘導体に殺虫効果を認め、ついにDDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)を発見した。

 DDTは1874年ドイツの化学者O.ツァイドラによって発見されていたが、殺虫性のあることは知られていなかった。

 これ以前に殺虫剤として用いられていた砒素系殺虫剤は、土壌汚染や残留農薬が問題化していた。DDTは昆虫のみ毒性を発揮する農薬として、1942年に商品名ゲザロールとして、大量生産が開始され、農薬物の害虫の防除の他、マラリア、黄熱病の病原体を運ぶ蚊にも威力を発揮。第二次世界大戦をはさんで、発見後20年にわたり、世界の保健衛生に大きく貢献した。戦後日本でも発疹チフスを媒介するシラミの駆除に用いられている。

 1948年DDTの効用が認められ、ノーベル生理学医学賞が贈られた。その後1970年代になるとDDTは安定した化合物故に壊れにくく、動物の体内残留、環境中に蓄積されていき、動植物の正常な連鎖が妨げられることなどが社会問題化して、新しい合成殺虫剤に置きかえられていった。


 DDTとは何か?

 DDTとはDichloro-diphenyl-trichloroethane(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の略であり、かつて使われていた有機塩素系の殺虫剤、農薬である。日本では1971年5月に農薬登録が失効した。なお、上記の名称は化学的には正確ではなく、4,4'-(2,2,2-トリクロロエタン-1,1-ジイル)ビス(クロロベンゼン)が正確な化学名である。

 1873年に初めてオーストリアの化学者オトマール・ツァイドラー(Othmar Zeidler)によって合成された化合物。発見以来長きに渡って放置された化合物であったが、1939年にスイスの科学者(染料会社であるガイギー社の技師。ガイギー社は、のちのチバガイギー、現ノバルティス)パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された。

 彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。その後、第二次世界大戦によって日本の除虫菊の供給が途絶えたアメリカによって実用化された。非常に安価に大量生産が出来る上に少量で効果があり人間や家畜に無害であるように見えたため爆発的に広まった。アメリカ軍は1944年9月-10月のペリリューの戦いで戦死体や排泄物にわくハエ退治のためにDDTを初めて戦場に散布した。だが激戦のペリリュー島では死体が多すぎ、効果は限定的だった。


 戦後日本の発疹チフス対策の決定版

 日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に薬剤(粉状)を浴びせる防除風景は、ニュース映像として配信された。また、衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用されていた。

 1945年10月には、京都大学工学部化学科の宍戸教授の手によって実験室での合成には成功していたが、工業的合成は難しかった。製造特許を持つガイギー社は、製品の海外輸出を禁じていた。アメリカから日本に輸出されたものは、連合軍からの援助として特別に許されたものであった。そのため、日本の農薬会社の関心は、次第にBHC(ベンゼンヘキサクロリド)に向けられていったのである。

 2007年現在で主に製造している国は中国とインドで、主に発展途上国に輸出されマラリア対策に使われている。農薬としても一部では使用されており、残留農薬となったDDTが問題になることもある。

 DDTの分解物のDDE、DDAは非常に安定しており分解しにくく環境中に長く留まり影響を与える可能性があり、また食物連鎖を通じて生体濃縮されることがわかった。

 1981年に化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律の第一種特定化学物質に指定され製造と輸入が禁止されている。2001年に採択されたストックホルム条約において、残留性有機汚染物質(POPs)に指定された。
マラリア対策として、2006年9月15日にWHO(世界保健機関)からDDTの室内残留性噴霧を奨励する方針が出された。


 環境汚染物質として

 自然界で分解されにくいため、長期間にわたり土壌や水循環に残留し、食物連鎖を通じて人間の体内にも取り込まれ、神経毒として作用する。またアメリカの野生ワニなどで環境ホルモン作用も疑われた。このため、現在、日本国内において製造・使用が禁止されている(ただし一部の発展途上国においてはマラリア予防のために使用されている)。

 化学物質としての危険性については、1960年代に出版されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」により取り上げられ認識が広まった。

 現在でも、危険性の高さを印象づける名称として、プロレスの技(DDT (プロレス技)参照)、グループ名、諸団体の名称などに当て字で使われることが多い。又ソフトウェアのバグ(虫)退治の意でCP/MのデバッガにDDT.COMというものがある。

 一時期、極めて危険な発癌物質であると評価されたために各国で使用が禁止された。現在、国際がん研究機関発がん性評価ではグループ2Bの「人に対して発がん性が有るかもしれない物質」に分類されている。


 発展途上国におけるマラリアの蔓延

 先述の通り、DDTは発がん性があるとされ、また環境ホルモンとして機能することが判明したため、世界各国で全面的に使用が禁止されたが、経済的にも工業的にも弱体である発展途上国ではDDTに代わる殺虫剤を調達することは困難であり、DDT散布によって一旦は激減したマラリア患者がDDT禁止以降は再び激増した。

 例えばスリランカでは1948年から1962年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数を31人にまで激減させることに成功していたが、DDT禁止後には僅か5年足らずで年間250万に逆戻りしている。

 また、発展途上国ではDDTに代わって、パラチオンなどのDDTよりも毒性が強いことが判明している農薬が使用されている実態もあった(なお、パラチオンは日本を含む主な先進国では使用が禁止されている)。このため2006年よりWHOは、発展途上国においてマラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回ると考えられる場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認めた。WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる。

 DDTを禁止した結果、多数のマラリア被害者とDDTよりも危険な農薬による多くの被害が発展途上国で発生し、アメリカなどではカーソンを非難する声が今も続いている。その一方、既にカーソンが「沈黙の春」内で述べている通り、DDTに対する耐性を獲得したマラリア蚊もDDT散布後数年以内に多数報告されており、DDTの散布だけでは直接の解決策には成り得るものではないといえる。

 なお、日本を含む主な先進国では根絶活動の成果および生活環境の変化によって、DDTの使用を考慮せざるを得ないほどのマラリア蚊の蔓延は既に見られなくなっている。


 イタリアにおけるマラリア根絶

 DDTがマラリア根絶に絶大な効果を発揮した例として、イタリアにおけるDDT屋内残留噴霧が挙げられる。

 第2次世界大戦終了頃まで、イタリアの大多数の地方に土着マラリアが蔓延していた。イタリアの人口10万人当り、1905年(明治38年)では974.0人、1945年(昭和20年)では900.6人のマラリア患者がいた。中には土着の熱帯熱マラリアが蔓延する地方さえあった。

 当時、イタリアでマラリアを媒介していたハマダラカは、主にAnopheles labranchiae・A. sacharovi・A. superpictusの三種である。A. labranchiaeは、イタリア中央部・イタリア南部の海岸地方・シチリア島およびサルジニア島の海抜1000m以下の地域に分布し、A. sacharoviは、海岸地方の大半・サルジニア島・アドリア海沿岸の北東の地方に分布し、A. superpictusは、イタリア中央部・南部・シチリア島に分布し、それぞれ猛威を振るっていた。

 1947年(昭和22年)にマラリア根絶を目的としたDDT屋内残留噴霧が大々的に始まると、これらのハマダラカは激減し、1950年(昭和25年)にはマラリア患者もイタリアの人口10万人当り7.5人にまで激減した。1970年(昭和45年)11月17日、ついにWHOはイタリアからのマラリア根絶を宣言した。

 それ以来イタリアでは土着マラリアは蔓延していない。(Wikipedia)


参考 Wikipedia: パウル・ヘルマン・ミュラー DDT ノーベル賞受賞者業績辞典 日外アソシエーツ

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