視覚の複雑な仕組み

 私たちの視覚はどのように光の形や色を感じて認識しているのだろうか?

 私たちの眼の網膜の奥には、光を感じることができる視細胞がある。視細胞には、暗い光にも反応するが色を識別できない桿体細胞(杆体細胞)と、明るい光にしか反応しないが色を識別できる錐体細胞がある。錐体細胞は黄斑部を中心に分布している。

 桿体細胞は錐体細胞よりも数が多く、主に網膜の周辺部にたくさん分布している。眼はこの2種類の視細胞によって、網膜に結んだ物体の像の明暗や色や形をとらえる仕組みになっている。



 光を刺激として受容する化合物(有機分子、蛋白質)や感覚器(光受容細胞、視細胞)を光受容体というが、ロドプシンは光受容体の化合物の1つである。桿体細胞に含まれる視物質はロドプシンであり、オプシンというタンパク質とビタミンAであるレチナールが結びついた構造をしている。

 オプシンと結合しているレチナールは、光を受けると構造がシス型からトランス型に変わる。レチナールの構造が変化すると、レチナールとオプシンの結合が切れる。ロドプシンの構造が光で変化するのは可視光線が分子の電子エネルギー状態を変化させるから。この光によるロドプシンの構造の変化が桿体細胞の刺激で、この刺激が視神経を通って脳に伝わり、その結果、視覚が生じる。

 なお、オプシンと結合が切れたトランス型のレチナールは暗所でシス型のレチナールに戻り、オプシンと再結合する。また、レチナールは食べ物から摂取されるビタミンAから作られる。ビタミンAが不足すると暗所でものがよく見えなくなる(夜盲症)のはロドプシンが合成されにくくなるからである。

 1967年のノーベル賞はこのように複雑な視覚のしくみを、第二次世界大戦の最中も戦火を逃れ、四半世紀に渡って探求し続けた研究者たちに贈られた。


 第二次世界大戦の戦火を逃れて

 ウォルドはニューヨーク大学とコロンビア大学を経て、ドイツとスイスへ留学ビタミンAの研究に専心する。ヒトラーとナチスを嫌いアメリカへ帰国シカゴ大学、ハーバード大学で研究を続ける。このポスドグ時代のウォルドは目の網膜の構成成分にビタミンAがあることを発見した。さらに研究を進め網膜上の視細胞にはビタミンAを含んだ光感受性の高いロドプシン分子があり、光の刺激によるロドプシンの変形が視覚に関連していることを見出した。

 ロドプシンは視紅とも言い、視色素のひとつである。光受容器細胞の形成と光の認識の初期段階ではたらく。ビタミンAはロドプシンの発色団である。ビタミンAは視覚の大きく関与しており、欠乏すると夜盲症や乾燥眼炎を引き起こす。必須物質であるが、過剰摂取は頭痛や催眠障害、食中毒の原因となるほか、催奇形性のリスクを高める。

 ヘルシンキ大学を卒業したグラニトは、研究に集中できる環境を求めて、スウェーデンのストックホルムに拠点を移す。1939年からフィンランドとソビエト連邦の間に勃発した冬戦争、そして継続戦争、その後の第二次世界大戦の影響を受けることなく、研究に専念することができた。スウェーデン滞在中に国籍を取得したが、フィンランドの国籍も所持し、戦後はスウェーデンと、祖国フィンランドの両方を生活の拠点とした。

 グラニトは錐体細胞の働きが、色を認識することを見出した。視細胞には錐体細胞と桿体細胞の2種類があり、それぞれ明るいところと暗いところで機能する。錐体細胞は異なる波長特性を持つ視物質を発現して色覚の基礎となるが、暗所では主役の座を桿体細胞に譲る。桿体細胞はわずかな光でも反応を示すものの色覚には関与しない。暗所では形しかわからないのは、視細胞の分業のためである。

 ハートラインはジョンズ・ホプキンズ大学で医学を学んだ後、ドイツへ留学する。第二次世界大戦後は母校の教授となり、後にロックフェラー大学で神経生理学の教授になる。この大学は野口英世が研究の場としていたロックフェラー医学研究センターが教育機関になったものであり、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。

 その後全米最古の海洋生物学の研究所、ウッズホール海洋生物学研究所の研究員となった。この研究所は2008年のノーベル化学賞を受賞した下村脩も研究の拠点としていた場所である。

 彼はこの場所で、カブトガニを用いて網膜に関する実験を行った。電極を使い、光刺激に対する視神経の反応を研究し、視細胞の抑制反応の重要性を見出した。眼球の光需要細胞は連携して働き、ある細胞が刺激を受けると他の細胞の活動が低下する。これにより目に見えるものの形が認識されることが実験によって導かれた。視細胞の働きの観察から、彼は視覚の仕組みを解明した。


 ラグナー・グラニト

 ラグナー・アーサー・グラニト(Ragnar Arthur Granit、1900年10月30日 - 1991年3月12日)は、フィンランドのヘルシンキ生まれの科学者で、ハルダン・ケファー・ハートライン、ジョージ・ウォルドとともに1967年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。授賞理由は「視覚の化学的生理学的基礎過程に関する発見」である。

 グラニトは1927年にヘルシンキ大学の医学部を卒業した。そして冬戦争でフィンランドがソビエト連邦から攻められた時には、安心して研究ができる環境を求めてスウェーデンのストックホルムに移住した。1935年からヘルシンキ大学教授、1946年からはカロリンスカ研究所教授を歴任した。

 1940年の夏にグラニトはスウェーデンに帰化し、1945年まで続いたフィンランドでの戦争を気にせずに研究に専念できるようになった。しかし同時にフィンランドの国籍も捨てず、生涯を通じてフィンランドへの愛国心を保った。フィンランドとソビエトの間の戦争が終ると、グラニトはフィンランドとスウェーデンの両方で生活を送った。

 グラニトは、自身の受賞したノーベル賞はフィンランドとスウェーデンで半分ずつだと語っている。


 ハルダン・ケファー・ハートライン

 ハルダン・ケファー・ハートライン(Haldan Keffer Hartline、1903年12月22日 - 1983年3月17日)は、アメリカ合衆国の生理学者で、視覚の神経生理学的メカニズムを研究し、ラグナー・グラニト、ジョージ・ウォルドとともに1967年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 ハートラインはボルティモアのジョンズ・ホプキンス大学で網膜の電気生理学の研究を始め、7年に医学博士号を取得した。交換留学生としてライプツィヒ、ミュンヘンで研究を行った後、1949年にジョンズ・ホプキンス大学の生物物理学の教授となった。この頃の教え子には後のノーベル賞受賞者ポール・グリーンガードらがいる。ハートラインは1953年にニューヨークにあるロックフェラー大学の神経生理学の教授となった。ウッズホール海洋生物学研究所の研究者の一人。

 ハートラインは、節足動物、脊椎動物、軟体動物などの網膜の電気的応答の研究を行った。なぜならこれらの動物の視覚は人間のものよりも単純で、研究しやすいからである。特にカブトガニを用いて、多くの実験を行った。実験には小さな電極を用いて、光によって視神経が刺激を受けると記録されるようにした。彼は、目の中の光受容細胞は連携していて、一つの細胞が刺激を受けると、近辺の細胞の活動電位が低下することによって光源の形がより強調され、形の認識が鋭敏になることを発見した。ハートラインはさらに、個々の光受容細胞と網膜上の視神経繊維の働きの詳細を研究し、視覚の簡単なメカニズムを明らかにした。


 ジョージ・ウォルド

 ジョージ・ウォルド(George Wald 1906年11月18日 - 1997年4月12日)は、アメリカ合衆国の科学者で、網膜の色素の研究で知られる。彼はラグナー・グラニト、ハルダン・ケファー・ハートラインとともに1967年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 ポスドク時代、ウォルドはビタミンAが網膜の構成成分になっていることを発見した。さらに研究を進め、ロドプシンという色素が光の刺激を受けると、オプシンというタンパク質とビタミンAを含んだ補因子を生成することが分かり、ビタミンAはレチナールの機能に必須であると推定された。

 1950年代、ウォルドらは化学的な手法で網膜から色素を抽出し、分光光度計を用いて色素の吸収波長を求めた。網膜色素の光の吸収波長は、視細胞の最も活性化する波長と一致するため、この実験により目が最も捉えやすい波長を知ることができる。

 しかし網膜の大部分を桿体細胞が占めているため、ワルドらが測定した値はロドプシンの吸収波長であるに過ぎなかった。後に顕微分光測光法という技術によって、彼は抽出した色素の、ではなく細胞そのものの吸収波長を直接測定できるようになった。この実験によって、錐体細胞に含まれる色素の吸収波長が明らかとなった。

 ウォルドはニューヨークで、ユダヤ人の移民であるアイザック・ワルドとアーネスティン・ローゼンマンの間の子として生まれた。1922年にニューヨークにあるブルックリン技術高校の第一期卒業生となり、1927年にニューヨーク大学から学士号を、1932年にコロンビア大学から動物学の博士号を取得した。卒業後、ワルドは奨学金を得て、ドイツのオットー・ワールブルクの元へ留学し、網膜中のビタミンAを同定した。

 ウォルドは次にチューリッヒの、ビタミンAの発見者であるパウル・カラーの元に留学した。その後、ハイデルベルクのオットー・マイヤーホフの元に短期間滞在した後、アドルフ・ヒトラーの台頭を嫌って1933年にシカゴ大学に戻った。1934年にはハーバード大学へ移り、講師、後に教授となった。その後1950年に全米科学アカデミーの会員に選ばれた。

 ウォルドは政治や社会情勢についても積極的にコメントを発し、ノーベル賞受賞者という知名度から、国内的、国際的な関心を集めた。特にベトナム戦争や核兵器に関して反対論者だった。1980年のイラン人質危機の際には代表団の一員としてラムゼイ・クラークらとともにイランを訪れた。

 数人の他のノーベル賞受賞者とともに、彼は1986年にモスクワを訪れ、ミハイル・ゴルバチョフに環境問題に関する説明を行った。そこで彼は、ノーベル平和賞受賞者であるアンドレイ・サハロフの妻、エレーナ・ボンネルの逮捕、ニジニ・ノヴゴロドへの拘禁と亡命について質した。ウォルドは、ゴルバチョフはその件について一切知らなかったと述べている。ボンネルとサハロフはその後すぐ1986年12月に解放された。

 ウォルドはマサチューセッツ州ケンブリッジで1997年に死去した。


 四半世紀にわたるウォルドの研究

 ウォルドは1930年代の初期に視覚の化学的研究を始めた。網膜の桿体細胞は薄暗い光で作用し、ロドプシン(視紅)と呼ばれる色素を含んでいる。33年に彼はこの物質は体内で体内でビタミンAから生成されるレチネンとオプシンというたんぱく質が結合したものであることを発見した。

 ロドプシン(視紅)は光が当たるとこの二つの分子に分かれ、暗くなると再び結合する。ウォルドと共同研究者たちは四半世紀をこの反応の精密な研究に費やした。この反応は一定の時間の後にレチネンが消費される。この不足分は体に蓄えられたビタミンAからつくられるので、食物からビタミンAの摂取が不足すると夜盲症になることがわかった。

 ウォルドはさらに研究を進め、この生化学的変化が網膜神経や視神経の電気的興奮の引き金を引くのかを研究。1950年代には赤色光と黄緑色光、続いて青色光を検知する網膜の色素を発見した。これらの色素はすべてビタミンAに関連していた。1960年代にはこれらの色素が1つでもないと色盲になることを明らかにした。これらの成果に対して1967年にノーベル生理学医学賞が贈られた。


参考 Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・ウォルド


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