世界遺産登録へ「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」

 長崎におけるキリスト教の伝来と繁栄、激しい弾圧と250年もの潜伏、そして奇跡の復活という、世界に類を見ない布教の歴史を物語る資産として、ユネスコの世界遺産暫定リストに掲載された。

 近世のキリスト教弾圧の中で信仰を継続した潜伏キリシタン。その歴史を示す長崎・熊本両県の12資産が、ユネスコの世界文化遺産に登録される見通しとなった。

 12資産のうち、長崎県は11資産を占める。長崎県内外の民間有識者でつくる「禁教期のキリシタン研究会」世話人の柿森和年さん(71)は「長かったような、短かったような……。色んな人に助けていただいて、ここまで来た」と喜ぶ。



 長崎市職員として文化財行政に長く携わった経験を生かし、2001年に「長崎の教会群を世界遺産にする会」を立ち上げるなど、20年近く世界遺産登録に尽力してきた。祖父は、長崎県の五島列島・奈留(なる)島の「かくれキリシタン」の役職者。柿森さんは10年ほど前に奈留島に移り住み、本格的な研究や保存活動に取り組んできた。島には、世界遺産の構成資産のひとつ、江上(えがみ)集落(江上天主堂とその周辺)がある。

 教会という建物だけでなく、250年にわたって信仰をつないできた信者の歴史にこそ、普遍的な価値があると語る。「世界遺産には、お互いの文化を認め合い、平和な世界をつくろうという考え方が根底にある。弾圧の中でも、暴力に訴えることなく信仰を守ったキリシタンの歴史は世界に誇れるし、大いに発信していくべき価値がある」

 一方で、「世界遺産は登録されて終わりではなく、登録されてからがスタート」とも。観光に限らず、勉強会や交流会、お祭りを開くなどして、一般市民も参加できる資産になることが大事だと考える。「主役は市民。色んな分野の人が関わってこそ波及効果が生まれ、世界遺産としての広がりも生まれる」(朝日新聞)


 沖縄奄美なぜ登録延期? IUCN「生物多様性は評価」

 一方、国内5例目の世界自然遺産を目指す「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」(鹿児島、沖縄両県)は、今年の登録が厳しい状況になった。

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)世界遺産委員会の諮問機関・国際自然保護連合(IUCN)が「登録延期」の勧告を出したためだ。なぜ、価値が認められなかったのだろうか?

 5月4日未明に開かれた環境省の記者会見。奥田直久・自然環境計画課長は「自信をもって推薦したが、どこにギャップがあったのか勧告を分析したい」と話した。

 「奄美・沖縄」は九州南端から台湾の間の約1200キロに点在する琉球列島のうち、鹿児島県の奄美大島と徳之島、沖縄県の沖縄本島北部と西表島の4島が対象だ。

 政府は、アジア大陸から切り離された後に取り残された生物が独自の進化を遂げた「生態系」、西表島だけにすむイリオモテヤマネコなど希少な生きものの宝庫としての「生物多様性」の2点で普遍的価値があるとして推薦したが、IUCNはその価値に疑義を示した。

 環境省によると、IUCNは「生態系」について、推薦された約3万8千ヘクタールの地域が24区域に分断されていることに懸念を示した。奄美大島や沖縄本島北部では対象地域が飛び地状に点在していたり、100ヘクタール以下の小さな区域が全体の半数以上を占めていたりすることで、生態系の「持続可能性に重大な懸念がある」と評価した。

 一方、「生物多様性」については絶滅危惧種や固有種が多いことを評価した。沖縄本島北部で米軍北部訓練場の返還部分を対象に加えるなど全体的な区域の見直しや再構成をすれば、「評価基準に合致する可能性がある」とした。

 最終的な登録の可否は、6月24日からバーレーンである世界遺産委員会で決まる。文化遺産では2007年に「登録延期」を勧告された石見銀山(島根県)が一転登録された例もある。(朝日新聞)


 「潜伏キリシタン関連遺産」12の資産とは?

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は12の資産で構成されている。12の資産とは何か、紹介する。

 原城跡

 長崎県南島原市にある「原城跡」は、江戸時代初期の1604年にキリシタン大名の有馬氏が築城した原城の跡地。

 1637年には、天草四郎率いる潜伏キリシタンたちが立てこもって幕府軍と戦い、2万数千人が命を落としたとされる「島原・天草一揆」の舞台になった。この一揆によって幕府は、キリスト教を脅威とみなして鎖国政策をとり、外国からの宣教師を失った潜伏キリシタンたちが、自分たちだけで独自の信仰の形を続けることにつながった。

「原城跡」は昭和13年に国の史跡に指定されている。

 平戸の聖地と集落(1)

 長崎県平戸市にある「春日集落と安満岳」、それに沖合の「中江ノ島」の2つの構成資産は、合わせて「平戸の聖地と集落」と呼ばれている。

 このうち「春日集落と安満岳」は、平戸島にあり、「春日集落」では、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に入ってからも、信者たちはキリシタンの組織を維持してひそかに信仰を続けた。

 古くから仏教や神道で山岳信仰の対象とされてきた「安満岳」への崇拝を続けるなど潜伏キリシタンの独特の信仰の形が育まれた。

 平戸の聖地と集落(2)

 「中江ノ島」は、平戸島からおよそ2キロ沖合にあり、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に信者が処刑された殉教地として崇拝の対象になった。

 禁教令が撤廃されたあとも、カトリック信者に戻らずに当時の信仰の形を継承する「かくれキリシタン」が、現在も、洗礼などに使う聖水を採るために上陸している。島を所有する団体は、信者以外の上陸について自粛を求めている。

 天草の崎津集落

 「天草の崎津集落」は、熊本県天草諸島の下島の西部にある漁村で、熊本県唯一の構成資産。

 江戸時代にキリスト教が禁じられ島原半島や天草諸島のキリスト教徒などが参加した「島原・天草一揆」以降、取り締まりが厳しくなる中で、信者たちは仏教徒を装いながら信仰を続け、アワビの貝殻など身近な物を代用して崇拝するなど独自の信仰のかたちが生まれた。

 集落にある崎津教会は、当時、キリシタンを取り調べる「絵踏」が行われていた「吉田庄屋役宅」の跡地に建てられている。

 外海の出津集落

 「外海の出津集落」は長崎市北部にあり、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期には、表向きは仏教の寺院に所属しながら、組織的にキリスト教の信仰を続けた。

 集落からは聖母マリアをかたどった大型のメダルや、日本人が描いた聖ミカエルの聖画などが見つかっていて、ひそかに信仰用具を継承しながら信仰を続けたとされている。

 集落の墓地からは、潜伏キリシタンの埋葬方法と同じ方法で埋葬された当時の信者のものとみられる人の骨も見つかっている。出津集落は、石積みの建物による独特の景観から、国の重要文化的景観にも選定されている。

 外海の大野集落

 長崎市北部にある「外海の大野集落」は、もう1つの構成資産の「外海の出津集落」からおよそ3キロ北の、山から海岸に向かって広がる斜面地にある。

 外国人宣教師の駐在所が置かれるなどしてキリスト教が広まり、信仰が禁じられた禁教期には、信者たちは、神社の氏子になって、神社をキリスト教信仰の場として利用するとともに、古くからの自然信仰に基づく山の神も崇拝する、独特の信仰の形をつくった。

 大野集落は出津集落とともに、「長崎市外海の石積集落景観」として、国の重要文化的景観に選定されている。

 黒島の集落

 「黒島の集落」は、長崎県佐世保市の沖合およそ12キロの人口およそ400人の離島にある。

 キリスト教の信仰が禁じられていた19世紀に、牧場の跡地の再開発のため当時の平戸藩が開拓者の誘致を行い、現在の長崎市外海地区などから弾圧を逃れた多くの潜伏キリシタンが移住した。

 信者たちは寺に所属して仏教徒を装いながら、ひそかにマリア観音を拝んで信仰を続けたという。

 黒島は、江戸時代の、石垣に根を張った防風林が広がる景観が、国の重要文化的景観に選定されているほか、ことし全国で公開された映画の舞台にもなった。

 野崎島の集落跡

 「野崎島の集落跡」は、長崎県の離島の五島列島の北東部に位置する小値賀町の無人島にある。

 島は、神道の神聖な土地として神職を除く一般の人が住むことはできまなかったが、19世紀中ごろから現在の長崎市の外海地区から弾圧を逃れてきた多くの潜伏キリシタンが移住した。

 信者たちは、野首集落と舟森集落の2つの集落をつくり、神道の信仰を装ってひそかにキリスト教の信仰を続けた。

 頭ヶ島の集落

 「頭ヶ島の集落」がある長崎県新上五島町の頭ヶ島は、五島列島の人口およそ15人の島。

 病人の療養地としてあまり人が近づかない場所だったことから、現在の長崎市の外海地区から弾圧を逃れた多くの潜伏キリシタンが移住し、仏教徒を装いながらひそかに信仰を続けた。

 禁教が解かれたあと、信者たちは周辺で豊富に採れる「五島石」と呼ばれる石を使って石造りの教会「頭ヶ島天主堂」を建設した。天主堂は国の重要文化財に指定されている。

 久賀島の集落

 長崎県五島市の久賀島は、五島列島の中ほどにある人口およそ300人の島。キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に、弾圧を逃れて、現在の長崎市の外海地区から潜伏キリシタンが移住し、ひそかに信仰を続けた。

 禁教期の末期には、大規模なキリシタンの摘発が行われ、信仰を明かしたおよそ200人の信者が狭いろう屋に閉じ込められ、拷問の末42人が亡くなった「牢屋の窄事件」も起きた。

 奈留島の江上集落

 長崎県五島市の奈留島は五島列島の中ほどに位置する人口およそ2200人の島。

 島の「江上集落」は、キリスト教の信仰が禁じられた禁教期に、現在の長崎市の外海地域から弾圧を逃れて移住してきた潜伏キリシタンの集落である。

 禁教が解かれたあと、信者たちは集落に、木造の「江上天主堂」を建設した。天主堂は国の重要文化財に指定されている。

 大浦天主堂

 長崎市南山手町にある「大浦天主堂」は、幕末の1864年、キリスト教の信仰が禁じられていた禁教期に、外国人のための教会として建てられ、国内に残る最古の教会として国宝に指定されている。

 建設翌年の1865年、潜伏キリシタンがフランス人神父にみずからの信仰を打ち明け、およそ250年にわたる禁教期の間も、キリスト教の信仰が続いていたことがわかった「信徒発見」の舞台になった。

 これをきっかけに各地の潜伏キリシタンたちが相次いで信仰を打ち明け、厳しい弾圧が加えられたが、諸外国から抗議を受け、政府は1873年に禁教を解いた。

 大浦天主堂には、神父や伝道師を養成する学校が設けられるなど、日本で再びキリスト教を布教する拠点になり、おととしローマ法王庁から由緒ある重要な教会に与えられる称号「小バジリカ」を国内の教会として初めて与えられた。


「禁教期」に焦点当てた「潜伏キリシタン」

 長崎県や専門家などによると、「潜伏キリシタン」というのは一般的に言われている、漢字で書く「隠れキリシタン」とほぼ同じ内容を指す。ただ、学術的には、「“隠れ”キリシタン」と「“かくれ”キリシタン」と漢字とひらがなの表記では意味合いが異なる。

 「潜伏キリシタン」、つまり、一般的に「隠れキリシタン」と呼ばれているのは教会を建てることも禁じられた禁教期に、表向きは仏教徒などを装いながら信仰を守り抜いた人たちのこと。

 禁教期とは、江戸幕府が17世紀はじめに、カトリックの信仰を禁じてから明治政府が19世紀にキリスト教を解禁するまで250年余りの期間を一般的には指す。

 これに対して、ひらがなの「かくれキリシタン」は禁教期が終わったあともカトリックにならずにそのままの信仰の形を続けた人たち。

 つまり「禁教期」の後の話である。もともと、長崎県などは、キリスト教が伝来した450年前からこの禁教期を経て信仰が復活した150年前までについて世界遺産に値するとして登録を目指した。

 しかし、登録に大きな影響を持つユネスコの諮問機関イコモスから2年前に、「禁教期に焦点を当てるべきだ」と見直しを求められた。

 理由は、日本独自の「秘匿」や「潜伏」の方法で信仰を守りながら処刑や拷問をかいくぐって禁教期を生き抜いた人たちの存在が世界的に見ても貴重だと判断したとみられる。今回、イコモスの求めに応じて禁教期に焦点を当てた「潜伏キリシタン関連遺産」に絞ったことで勧告に結びついた。


参考 NHK news: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180504/k10011427061000.html


潜伏キリシタンは何を信じていたのか
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