南米の古代文明

 南米の古代文明というと「インカ帝国」が有名である。インカ帝国(Imperio Inca)は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた国。文字を持たない社会そして文明であった。首都はクスコ。

 世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となった。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで約200年間続いた。

 最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。



 もちろん、インカ帝国の成立以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。プレ・インカは、BC3000年頃からAD1300年頃迄の4000年以上にわたる多様な文明を一括総称している。

 プレ・インカの主なものを年代順にあげると、チャビン文化(アンデス全域;1000 B.C. 頃 - 200 B.C. 頃)、ナスカ文化(ペルー南海岸;A.D. 1 頃 - A.D. 600 頃)、ティワナク文化(チチカカ湖畔;A.D. 1 頃 - A.D. 900 頃)、モチェ文化(ペルー北海岸;A.D. 100 頃 - A.D. 700 頃)、ワリ文化(アンデス全域;A.D. 800 頃 - A.D. 1000 頃)、シカン王国(北海岸ヘケテペケ川流域;A.D. 800 頃 - A.D. 1100 頃)、チムー王国(ペルー北海岸;A.D. 1000 頃 - A.D. 1476 頃)などがある。

 最近では、アマゾン川流域にも古代アマゾン文明の遺跡が発見されて話題になっている。16世紀のスペイン人の探検記録にも、巨大な現地人の集落が多数存在しているとの報告があり、また1720年の記録でも、「一日歩けば10-20の村を通り過ぎる」「道路はまっすぐで広く、きれいに管理されていて一枚の落ち葉さえ見当たらない」との報告もある。こうした古い報告は1970年代までなぜか無視されていた。


史上最大規模、子ども140人の集団生贄を発見

 今回、ペルーの北部沿岸地域で、南北アメリカ大陸で(おそらく人類史上でも)最大規模の子どもの集団生贄(いけにえ)の儀式が行われていた証拠が発見された。

 今から550年ほど前、西暦1450年頃、拡大を続けていたチムー王国の首都に近い、太平洋を見下ろす吹きさらしの絶壁で、140人以上の子どもと200頭以上のリャマの子を生贄として捧げる儀式が行われたようだ。

 チムー文明は、先コロンブス期にペルーで栄えた、いまだ謎に包まれている文明。ペルー国立トルヒーヨ大学のガブリエル・プリエト氏と米テュレーン大学のジョン・ヴェラーノ氏は、ナショナル ジオグラフィック協会の支援を受け、多分野にわたる国際チームを率いて科学調査を続けている。

 考古学者たちは1日で12体以上の生贄の遺体を発掘した。遺体は乾燥した砂の中で500年以上保存されていた。子どもたちの死亡時の年齢は8歳~12歳が多かった。

 アステカ、マヤ、インカ文明に、人間を生贄として捧げる風習があったことはスペイン植民地時代の年代記に記録されており、今日の科学的な発掘調査でも詳細に研究されている。しかし、これほどの規模のものは、アメリカ大陸はもとより世界的にもほとんど類例がない。

 「こんなものを発見するとは誰も予想していませんでした」と、この地域で30年以上調査を続けているヴェラーノ氏は言う。研究チームは、今回の発見を論文にまとめ、学術誌に投稿する準備を進めている。


 悲劇的な最期

 生贄の儀式が行われたのはペルー北部のウアンチャコ地方のウアンチャキト・ラス・リャマス遺跡で、海抜約300メートルの絶壁にある。遺跡の周囲には軽量ブロックでできた住宅がどんどん建設されている。遺跡から東に約800メートルのところには、チムー王国の首都でユネスコの世界遺産になっているチャン・チャンがある。その壁の向こうは現代の県都トルヒーヨだ。

 古代チムー王国の首都チャン・チャンは南北アメリカ大陸最大の都市の1つだった。チムーの人々はいつまでこの地に住んでいたのだろうか? 彼らの文明はなぜ滅びたのだろうか?

 チムー王国は、最盛期には太平洋沿岸の約1000キロにわたる範囲と、現在のエクアドルとの国境リマに至る内陸の谷を支配していた。

 ヨーロッパ人がやって来る前、先コロンブス期の南米でチムー王国より大きい帝国を築いたのはインカ帝国だけである。強大なインカ軍がチムー王国を滅ぼしたのは西暦1475年頃のことだった。

 ウアンチャキト・ラス・リャマス(研究者は単に「ラス・リャマス」と呼ぶ)が最初に話題になったのは2011年のことだった。ウアンチャコ出身の考古学者であるプリエト氏のチームが、緊急発掘調査により42人の子どもと76頭のリャマの骨を発見したのだ。きっかけは地元住民の言葉。プリエト氏が3500年前の寺院の発掘調査をしていたところ、浸食された近くの砂丘で人骨が露出していると教えてくれたのだ。


 遺体には心臓を取り出された跡

 2016年にラス・リャマスの発掘が終了したときには、140人以上の子どもと200頭以上のリャマの子の骨が発見されていた。骨と一緒に発見された縄や織物は、放射性炭素を利用した年代測定により西暦1400年~1450年のものであることが明らかになった。

 子どもの骨にもリャマの骨にも胸骨の切断と肋骨の脱臼の痕跡が見られ、胸部を切開して押し広げ、心臓を取り出しやすくしようとしたものではないかと考えられている。

 子どもとリャマの骨の近くからは3人の成人(男性が1人と女性が2人)の遺体も発見された。3人の頭部には鈍器で殴られたような外傷があり、副葬品がないことから、生贄の儀式で何らかの役割を果たした後、すぐに殺害されたと考えられている。

 生贄になった140人の子どもたちの年齢は5歳~14歳で、多くは8歳~12歳だった。ほとんどの子どもが海のある西の方を向いて埋葬されていた。リャマは生後18カ月未満で、多くは東のアンデスの峰々の方を向いて埋葬されていた。 1回の儀式で殺害された。

 研究チームは、広さ700平方メートルほどの遺跡の東側の、当時の状態をよくとどめている箇所で見られる乾燥した泥の層から見つかった証拠に基づき、子どもとリャマはすべて1回の儀式で殺害されたと考えている。儀式が行われたとき、砂丘はこの泥の層に覆われていたが、埋葬のための穴掘りやその後の生贄の儀式の際に層が崩されたようだ。

 考古学者たちは泥の層に、サンダルを履いた成人、犬、素足の子ども、リャマの子の足跡が保存されているのを発見したほか、脚が4本ある生贄が抵抗して足を踏ん張りながら引きずられていった跡と思われる深い線も見つけた。

 足跡の分析から、儀式の進行も再現できた。子どもとリャマの集団は絶壁の北端と南端から連れてこられて、遺跡の真ん中で出会い、そこで殺害されて埋葬されたようだ。一部の子どもとリャマは泥の中に放置された。


空前絶後の儀式?

 考古学者たちの結論が正しいなら、ウアンチャキト・ラス・リャマスは、人類史上、最大規模の子どもの生贄儀式が行われたことの説得力ある科学的な証拠となる。

 これまでに知られている子どもを生贄とする儀式の中で、物質的な証拠が残っている最大のものは、アステカの首都テノチティトラン(現在のメキシコ、メキシコシティ)のテンプロ・マヨール神殿で42人の子どもが殺害・埋葬された儀式である。

 インカ帝国時代に生贄として捧げられたと思われる子どもの遺体が山頂で発見されたときにも、世界の注目を集めた。

 アメリカ大陸以外でも、フェニキア人の古代都市国家カルタゴなどの遺跡で発見された子どもの遺体が生贄として捧げられたものかどうか、もしそうなら生贄の儀式は何十年も何百年も続いていたのかをめぐる議論がある。

 だが、今回ラス・リャマスで見つかったような、意図的な集団生贄の儀式のはっきりとした証拠が発見されるのは、考古学的な観点から非常に貴重だとヴェラーノ氏は強調する。

 ラス・リャマスで発掘された遺体の分析から、子どももリャマも、胸骨を横方向に切断して、確実に効率よく殺害されていることが明らかになった。切り口に躊躇した形跡がないことは、彼らを手にかけた人物が、この行為に熟練していたことを示している。

 「殺害は、儀式の流れの中で、整然と行われたのです」とヴェラーノ氏は言う。

 人間を生贄とする儀式は、あらゆる時代に、地球上のほとんどすべての場所で行われてきた。科学者たちは、そうした儀式が、社会の成層化とエリート階級による支配を通じた複雑な社会の形成に一役買ってきたと考えている。

 しかし、英オックスフォード大学とドイツ、マックス・プランク人類史学研究所の博士研究員であるジョゼフ・ワッツ氏は、人間を生贄とする社会モデルのほとんどは儀式の中で成人を殺害する行為を前提としていると指摘する。

 「子どもを生贄とする儀式を説明するのは非常に困難です」と彼は言う。「個人的にもね」


 超自然的な力との取引

 ラス・リャマスで行われたような、子どもとリャマの子だけを大量に生贄として捧げる儀式は、考古学の世界でこれまで知られていなかったため、すぐに疑問の声が上がった。「チムー王国の人々はなぜ、そんな儀式をしようと考えたのだろう?」

 プリエト氏がラス・リャマスでの研究について科学者仲間や地元の人々に報告すると、しばしば同じことを言われるという。

 「この地で起きたこととその規模を知ると、人々は必ず『なんのためにそんなことを?』と言うのです」

 研究チームは、発掘の際に見つかった泥の層が手がかりになるかもしれないと考えている。泥の層は、激しい雨が降り、洪水が起きたことによりできたものだろう。ペルーの海岸地域は基本的に乾燥しているが、おそらく、生贄の儀式が行われた当時、この地域はエルニーニョによる異常気象に見舞われていたのだ。

 エルニーニョ・南方振動(ENSO)は、赤道太平洋の海水温が上昇したり低下したりする気候パターンである。海水温が上昇すると、表面温度が高い範囲(赤で示す)が赤道をまたいで広がり、激しい雨をもたらして、近海漁業は大打撃を受ける。研究者たちは、ラス・リャマスの集団生贄は、西暦1400年~1450年にかけて発生した大規模なENSOの影響を和らげてほしいと神々に祈願するために行われたのではないかと考えている。(NOAA)

 海水温の上昇により、近海では魚が獲れなくなっていただろう。王国中に張りめぐらされていた農業用の運河も、海岸地域の洪水により破壊されてしまっただろう。

 チムー王国は、ラス・リャマスの集団生贄の儀式からわずか数十年後にインカ帝国に屈服した。

 米ジョージ・メイソン大学の人類学教授ハーゲン・クラウス氏は、ウアンチャコの北のランバイエケ谷にある10世紀~12世紀のセロ・セリージョス遺跡での発掘調査で、子どもを生贄とする儀式が行われていた証拠を発見している。この地域で最古のものだ。クラウス氏はラス・リャマスの発掘プロジェクトには関与していないが、ペルー北部の海岸地域の社会が、成人を生贄として捧げてもエルニーニョにより繰り返し起こる混乱が終息しないのを見て、子どもを生贄にすることを考えるようになったのかもしれないと言う。

 「人は、自分が最も価値があると思うものを生贄として捧げます。成人の生贄を捧げても雨がやまなかったので、新しいタイプの生贄を捧げなければならないと考えたのではないでしょうか」

 クラウス氏は、「タイムマシンでも使わないかぎり、答えを知ることは不可能です」と言い、ラス・リャマスでの発見は、アンデスにおける儀式的な暴力と人間を生贄とする儀式の多様性に関する知識を増やしてくれる点で重要だと付け加える。

 「儀式的な殺人は契約であり、超自然的な神から何かを得るために行われるという考え方があります。けれども実際には、超自然的な力をもつ存在と交渉し、それを操ろうとする、極めて複雑な試みなのです」

 ナショナル ジオグラフィック協会のエクスプローラーである考古学者のガブリエル・プリエト氏(左から2人目)は、今から500年以上前に生贄の儀式が行われたペルーの北部沿岸地域の発掘調査を進めている。彼は、地元の学生たちを指導して、ウアンチャコの歴史を解き明かす次世代の科学者に育て上げようとしている。


 さまざまな民族や地域から連れてこられた

 ラス・リャマスの生贄を調べている科学者チームは、現在、生贄の生活史(彼らがどんな人で、どこから来たかなど)を解明するという困難な仕事に取り組んでいる。

 子どもの骨格から性別を決定するのは難しいが、予備的なDNA分析から、生贄には少年も少女もいたことが示唆されている。また、同位体分析の結果は、すべての生贄がこの地域から出されたわけではなく、おそらくチムー王国中のさまざまな民族や地域から連れてこられたことを示している。

 遺体のなかには、当時、高地で行われていた人工頭蓋変形の痕跡があるものもあり、チムー王国が支配していた遠隔地の子どもも生贄として沿岸部に連れてこられたことを示している。

 ラス・リャマスでの発見後、研究チームはウアンチャコでも子どもとリャマが生贄として捧げられた同時代の集団生贄の跡を発見し、ナショナル ジオグラフィック協会から支援を受けて調査を進めている。

 「ラス・リャマスは世界に例を見ない遺跡です。この地域に同様の遺跡があといくつあり、今後の研究を待っているのだろうかと思うとワクワクします」とプリエト氏は言う。

 「この遺跡は氷山の一角かもしれないのです」


プレ・インカの一つ「チムー王国」

 チムー王国(Chimú)は, ペルー北部の沿岸部でチムー文化を担った王国で、850年頃から1470年頃まで存在した。後期中間期(プレ・インカ)最大の王国で、1000kmの海岸線とアンデスの人口の2/3を含んだ。現存する最大の遺跡はチャン・チャン。

 チムー王国はモチェ文化の遺民によって興された。最初の谷々が喜んで武力を合わせていたようだったが、シカンを征服した。カハマルカ文化とワリ文化の影響を大きく受けていた。伝説によれば、首都チャン・チャンは海からやってきたタカイナモという人物によって創られたという。

 チムーはインカ帝国を止めるチャンスがあった最後の王国だった。しかしトゥパック・インカによるインカの侵攻が1470年代に始まり、タカイナモの子孫である国王ミンチャンカマンは敗れ、ワイナ・カパックの即位した1493年には侵略はほぼ終了していた。

 チムーの陶器は漆黒だった。また、精巧複雑な金工でも知られ、先コロンブス期で最先端技術の一つだった。チムー文化(Chimú culture)は、ペルー北西岸に栄えた文化。その都は現在のトルヒーリョ近郊のモチェ谷にあるチャン・チャンであった。

 西暦900年頃に始まったとされる。インカ帝国の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキは、スペインの進出が始まる50年前の西暦1470年頃にチムー征服に乗り出した。

 チムー人は月を信仰していたことが知られ、月は太陽よりも強力であると考えていた。チムー文化は、白黒の壺、銅、金、銀、青銅などの精巧な金属加工物で知られている。


 プレ・インカの1つ「シカン文明」

 シカン文明(Sicán)はペルー北部沿岸で750年~1350年頃のプレ・インカ時代に栄えた文明。南イリノイ大学人類学科教授の島田泉により名づけられた。「シカン」とは「月の神殿」を意味する。地名からランバイエケ文化とも呼ばれるが、これらが別々の文明なのかどうかは論争の的となっている。文化的変動に基づき、前期・中期・後期の3つの時代に分かれる。

 前期シカン時代はおよそ750年に始まり、900年に終わった。シカンはおそらくモチェ文化(800年頃滅亡)の末裔であり、遺物の文様に共通性を持つ。他の類似したグループにカハマルカ、ワリ、パチャカマックがある。遺物からは、シカン文化の人々がエクアドルからウミギクガイやイモガイなどの大型貝類、北のコロンビアからエメラルドと琥珀、南のチリから青石、東のマラニョン川流域の金の交易網を保持していたことが分かる(ランバイエケ文化はこれらの人々の一部であった)。

 このようにシカン文化の優れた品質の土器やナイペと呼ばれる通貨を貝や鉱物等と交換し、周辺の異文化との交易が盛んであったと考えられている。 800年頃、ラ・レチェ渓谷のバタン・グランデ(Batán Grande)にポマ(Poma)という都市が作られた。

 中期シカン時代は900年~1100年の間続いた。バタン・グランデは政治・宗教的中心地としてこの時代栄えた。バタン・グランデには多くの熟練した金工職人がいた。バタン・グランデの支配者の墓には金銀の大杯、エメラルド、真珠、そして半貴石と貝殻と羽で飾られた黄金のマスクを付けたミイラが納められた。その他に粘土、貝殻をちりばめた木、そして織物が海鳥、魚、水中のウミギクガイを描いた。これらの貝殻は北のエクアドルで集められた。

 また型を使った土器製作が盛んで、黒くて光沢のあるのが特徴。ある程度の大量生産が可能で、金属製品と共に交易品として使われた。加えて、発掘された墓にあった遺体の生物学的調査や、土器に表された人物の造形から、異なる文化的・民族的背景を持つ人々が暮らしていたと考えられている。

 スペイン人がこの地にたどり着いた時の記録によると、最高位の役人は支配者が歩く場所にウミギクガイの粉を撒いて丁重に歓迎する役目だった。ランバイエケ渓谷の織物は、特徴的な目と三日月の頭飾り、海のモチーフ、スリットの入ったタペストリといったモチェとワリと現地の要素が組み合わさっている。

 後期シカン時代は1100年頃始まって1375年頃のチムー王国による征服で終わった。1100年頃、バタン・グランデの地は放棄され、焼かれた。新たな中心地はトゥクメに移った。これは30年以上続いた旱魃のせいとされている。シカン文化の人々は黄金で装飾された儀礼用のナイフ、トゥミを使用していた。最初期のトゥミが発見されたのはこの時代からだった。(Wikipedia)


 アステカ・インカの生贄

 生贄というと、メキシコのアステカ文明の儀式が有名だ。胸を裂き、心臓を取り出して神に捧げる。アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。ほかに豊穣、雨乞いを祈願して、捧げられることもあった。しかしその一方では、これら生贄に捧げられる事が社会的にも名誉であると考えられていたとされ、球技によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在った模様である。

 生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま黒曜石のナイフで心臓をえぐり取られたとされる。生贄の多くは戦争捕虜で、生贄獲得のための花戦争も行われた。選ばれた者が生贄になることもあり、稚児が神に捧げられることがあった。ただ、一説によればアステカはこのような儀式を毎月おこなったために生産力が慢性的に低下し、社会が弱体化、衰退したとも言われている。

 インカでも、同種の太陽信仰に絡む人身御供を行う風習があったが、これらの生贄は社会制度によって各村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられていたという。なおこれらの人々は旱魃(かんばつ)や飢饉などの際には供物として装飾品に身を包んで泉に投げ込まれるなりして殺された訳だが、そのような問題が無い場合には生き延び、一定年齢に達して一般の社会に戻った人も在ったという。

 ちなみにマヤ文明の遺跡で有名なククルカンの神殿と聖なる泉は、干ばつになった時の生け贄の儀式と関係があった。日照りは雨の神ユムチャクの怒りによるものだと考えられていたため、14歳の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、儀式の後、聖なる泉に生け贄を護衛するための若者が飛び込み、その後貢物も投げ込まれていた。

 その一方で、アステカ同様に稚児が捧げられる事もあった。この場合には、やはり特別に募集され育てられていた稚児は、より神に近いとされる高山にまで連れて行き、コカの葉を与えて眠らせた後に、頭を砕いて山頂に埋められた。特にこれらの生贄では、装飾された衣服に包まれたミイラも発見されている。(Wikipedia)


参考 National Geographic news: http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/042800176/


ナスカ砂の王国―地上絵の謎を追ったマリア・ライヘの生涯 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
マヤ・アステカ・インカ文化数学ミステリー―生贄と暦と記数法の謎 (世界数学遺産ミステリー)
クリエーター情報なし
黎明書房

ブログランキング・にほんブログ村へ人気ブログランキングへ  ←One Click please