鎌倉の大仏とは何か? 

 鎌倉の大仏というと、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院「高徳院」の本尊で、「鎌倉大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)である。像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)。重量約121トン。

 高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。

 のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年~1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。



 大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは、平成12年から13年(2000~2001年)にかけて実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている。『太平記』には、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。

 大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)とする。

 一方、室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている。平成12年から13年(2000~2001年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった。


 鎌倉大仏の化学的組成

 鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、像の内外に残る痕跡からわかる。材質は通常「銅造」とされているが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)である。

 昭和34年から36年(1959~1961年)にかけて行われた修理・耐震補強工事の際、頭部内面から試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われ、本像の金属組成は銅が少なく、鉛の含有量が多いことが判明した。

 採取部位によって差異があるが、平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっている。この成分比率から、本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されている。

 なお、本像の重量(121トン)は、上述の1959年から1961年にかけての耐震補強工事における基礎データ収集の一環として、ジャッキ23台で大仏を55センチ持ち上げ、その下に秤を入れて実際に2度計量された数値の平均である。鉛の比率が高いことから、像表面に鍍金(金メッキ)を行うことは困難であったと推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できる。

 像内は空洞で、人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができる(一度に30人以上は入場できない)。内部から見ると首のくびれに相当する場所が変色しているが、これは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックによるものである。

 2015年7月28日、1959年の昭和の大修理からおよそ半世紀ぶりに、大仏を修理すると発表され、修理にかかる総事業費は約6,500万円を見込む。修理期間の2016年1月~3月は洗浄や異物除去のため、拝観を中止していたが、2016年3月初頭には大修理と並行してエックス線による調査を終了。3月11日、大仏内部含め、拝観を再開した。

 この修理時に、大仏胎内にチューインガムを貼り付けたり、落書きをしたりされているのが見つかり、修復したことが2018年4月22日に鎌倉市で開かれたシンポジウムで報告された。罰当たりなことをする人がいるものである。


 鎌倉大仏のさび 潮風やはとのフンなどが原因

 国宝に指定されている神奈川県鎌倉市の大仏は、詳しい調査の結果、潮風などがさびの原因になっていると考えられるとして、大仏のある寺ではさびなどを防ぐ対策にいかしたいとしている。

 およそ800年前に造られ国宝に指定されている鎌倉市の高徳院の大仏は、汚れやさびが目立ったため、寺はおととし、2か月にわたって拝観を中止して清掃するとともに、汚れやさびの実態や原因を専門家に委ねて調べた。

 その結果がこのほどまとまったもので、人が入れる大仏の内部には100か所以上、ガムがこびりついていたということだ。

 また、さびについては、大仏の金属の成分を分析した結果、海からの潮風やはとのフン、それに汚染された大気が原因と考えられるということである。さらに、飛んでくる砂の影響でさびが進んでいくこともわかったという。

 高徳院の佐藤孝雄住職は「さびや汚れができるメカニズムがわかったので、今後、防ぐ対策の道筋が開けてきたと思います。保存に向けて、ひとつの指針ができたことが大きな成果です」と話していた。


 鎌倉を世界遺産にして、大仏などの歴史遺産を守れ!

 それにしても、鎌倉の大仏の内部のチューンガムのイタズラはショックだ。日本の仏教文化のシンボルを冒涜されたように感じる。

 例えば世界遺産に登録されたら、世界的な評価と価値を認められ、また管理も厳しくなるので、イタズラの抑止力になるのではないだろうか?また、かつて存在した大仏殿を再構築することで、ハトの憤慨や大気汚染、酸性雨などから守ることもできる。

 鎌倉は、日本が世界遺産条約を批准した1992年に、暫定リストに登録された12件(文化遺産10件、自然遺産2件)のうちの一つである。同じ年に登録された古都京都の文化財、日光の社寺、1995年に暫定リストに追加された原爆ドーム、2001年に暫定リストに追加された紀伊山地の霊場と参詣道、平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―などが次々と正式登録されていく中で、鎌倉が世界遺産委員会に推薦されたことはなかった。

 「武家の都」という点は奈良・京都などと差別化を図りうるものではあるが、構成資産が神社、寺院を主体とし、鎌倉幕府の政治的建造物がほとんど残っていない点などを理由として、推薦された場合の苦戦を予想する意見が見られた。

 鎌倉市には2001年に「鎌倉市歴史遺産検討委員会」が設置され、2007年には「神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会」が共同で設置されるなど、世界遺産登録の実現に向けて、市や県のレベルで具体化の動きが進められてきた。

 一方、2007年11月に神奈川県から派遣された鎌倉市職員が世界遺産登録にむけた動きの中で、公文書偽造事件を起こしたこともあった。

 文化審議会に2011年2月に提出された報告書では、2011年9月の推薦を目指すタイムスケジュールも示されており、実際に2013年の登録を目指して富士山とともに推薦されることになった。

 それを踏まえて実際に、2012年1月に推薦書が世界遺産センターに提出され、同年9月24日から27日に諮問機関であるICOMOSの調査団が訪れた。その調査を踏まえた勧告が2013年4月30日に示され、「不登録」と判断された。日本が単独で推薦した資産で「不登録」勧告を受けた例は初めてである(複数国の推薦ではル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―の例がある)。

 ICOMOSが不登録とした理由は、当時の都市計画や経済生活などを示す資産が含まれておらず、完全性の条件が満たされていないため、基準 (3) についても基準 (4) についても、証明ができていないと判定されたことによる。

 この勧告を受けて日本の関係省庁連絡会議では同年6月4日付けで、世界遺産委員会への推薦取り下げを正式決定した。これは、再推薦が不可能になる委員会での「不登録」決議を回避し、抜本的な推薦文書の練り直しを踏まえて再推薦したいとする地元自治体などの意向を踏まえたものである。


参考 NHK news: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180515/k10011438511000.html


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