虐殺を目的とした空襲東京大空襲

 3月10日、広島、長崎、そして沖縄と並ぶ犠牲者を出した東京大空襲から、74年が経つ。1945年(昭和20年)3月10日の未明、約300機のB29爆撃機が、無差別爆撃を決行した。現在の江東区や墨田区など木造建築が連なった下町を中心に、33万発もの焼夷弾を投下。

 一夜にして東京の街は火の海と化し、10万人もの一般市民が亡くなった。被害家屋は約27万戸、焼き出されるなどした人は推計で100万人に上る。犠牲者を慰霊している「東京都慰霊堂」(墨田区)を参拝したことがあるが、言葉に尽くせない思いだった。

 これは、アメリカによる明白な戦争犯罪であり虐殺行為だった。当初アメリカは、日本の軍施設や軍需工場に対象を限定した、高高度からの精密爆撃を行っていた。しかし、成果が上がらず、指揮官は更迭。後を継いだカーチス・E・ルメイ将軍が、大量の焼夷弾で都市を焼き払う戦術に切り替えた。欧米と違い、当時の日本ではほとんどの建造物が木造だったため、焼夷弾攻撃は致命的なほどに有効だ。

 つまり、計画段階において、都市のせん滅とそこに住む一般市民の虐殺を目的としていた。非戦闘員である一般市民を殺すことは、戦争犯罪である。また、東京大空襲は、一般市民を対象とした「無差別爆撃」だが、国際法に違反する戦争犯罪であった。

 「無差別爆撃」に近い言葉として、「絨毯(じゅうたん)爆撃」というものがある。敵国民の士気の喪失を目的とした戦略爆撃で、大編隊を組んだ大型爆撃機が絨毯を敷くように、一帯を爆撃しながら通過するというもの。

 しかし、東京大空襲は、単なる絨毯爆撃を超える残虐さ。まず、地域一体を外部から焼夷弾で包囲して、住民を火の海で囲い込む。そして、袋小路に追い込まれた住民を狙って焼夷弾を落とした。これは、戦場で一部兵士が残虐行為をするといったようなものではない。国家が行う軍事作戦として、敵国の都市を破壊しつくし、非戦闘員である市民の皆殺しを企てた。

 特に、大東亜戦争のような国家総力戦では、青壮年の男性は戦闘員として戦場にいる。都市への爆撃で命を奪われるのは、女性やお年寄り、子供たちである。有色人種への差別観が、人を人とも思わない残虐行為の前提にあったのだと思う。

 「虐殺」を正当化した米国

 人種差別は現在も進行中である。「かつての日本は、軍国主義の悪い国であった。アジアを侵略して我が物とするために、侵略戦争を仕掛けて、何千万人ものアジアの人たちを殺害した」そのように、私たちは教えられてきた。

 「無謀な侵略戦争を行ったことによって、日本は悲惨な敗戦を迎えた。そして、その敗北の過程で本土が空襲を受けた。科学技術と物量で全く日本は欧米に歯が立たず、空襲は阻止できなかった。多くの市民が犠牲となったが、これは日本の軍国主義と侵略戦争に対する当然の報いである」

 このように受けとめてきた方も多い。実は、こうした「自虐史観」は、米国が、自国の虐殺行為を正当化するため、日本人に植え付けたものである。

 米国は戦後、あらゆる手段を用いて日本人を「洗脳」してきた。それを大々的におこなったのが、GHQ、連合国総司令部。彼らが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれる洗脳工作によって、日本人を骨抜きにした。

 具体的にどのようなことをしたかと言うと、例えば、東京裁判でありもしない南京大虐殺をでっちあげ「広島・長崎・東京大空襲」のジェノサイドを当然の報いであると決めつけた。

 そして、大戦が終結した1945年(昭和二十年)の12月には、当時不足していた新聞用紙を新聞社に特別配給し、ありもしない日本軍の残虐性を強調した「太平洋戦史」を連載させた。

 新聞社もすべてGHQの手先と成り下がる。当時は、新聞や雑誌用の紙自体が手に入りにくい状態。紙の供給を止めると脅されれば、新聞社は手も足も出ない。かくして、GHQによる新聞や雑誌への検閲が徹底された。戦前にも検閲も言論統制があったではないか、という反論もあるだろう。しかし、GHQの検閲は、想像を絶する規模、徹底ぶりのものだった。

 GHQが行った検閲では全部を書き直させるため、痕跡が残らない。そして検閲をしていること自体を秘匿していたため、国民は自分たちが言論統制されていることすら認識できなかった。こうしたアメリカの徹底的な洗脳工作によって、今なお多くの日本人が、「原爆も空襲もされて仕方がない国だったのだ」と思っている。

 しかし、今こそ、こうした「呪縛」から解き放たれ、日本人としての誇りを取り戻すべきだろう。日本人だけが戦争を放棄しても世界平和にはならないことが、この戦後74年であきらかになっている。今なお、北朝鮮は核軍備を手放したがらない。核軍備が大きな後ろ盾になっていることがハッキリしているからである。

 日本だけが戦争放棄して、世界平和の構築を米国頼みにしてきた報いを受ける時期が近付いている。だいたい、現在も人種差別の残っている米国が、日本のために命がけで日本を守るわけがない。世界平和を構築できるわけがない。このままでは、中国だけでなく北朝鮮や韓国にも相手にされない国家の危機が迫っている。

米大陸での先住民の大量虐殺が、気候変動を引き起こした可能性

 英国の最近の研究で、アメリカ大陸を植民地化した欧州の移民が、先住民を大量虐殺したことが1600年代の気候変動を起こした原因だった...という説を発表した。

 発表したのは英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)。南米と中米、北米大陸を植民地化した欧州からの移民は、100年あまりの間におよそ5600万人の先住民を殺害した。そのために広大な農地が放棄され、森林に戻ったという。

 研究チームの推定によると、これによって増えた森林地帯は、フランスの国土面積に匹敵する。結果として大気中の二酸化炭素(CO2)が激減したことにより、1610年までに地球の寒冷化が進んだ。コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは1492年だった。

 UCLのマーク・マスリン教授は、「この時までCO2と気候は比較的安定していた」「地球の温室効果ガスが大きく変動したのはこの時が初めてだった」と解説する。

 小氷河期と呼ばれる1600年代の寒冷期は、自然現象に起因するとの説も発表されている。しかしUCLの研究チームは考古学的証拠や歴史上の統計、南極の氷に含まれる炭素の分析などにより、欧州からの植民を原因とする森林の増大が、地球寒冷化の決定的な要因だったと結論付けた。

 マスリン教授はCNNの取材に対し、「あれほどの規模の小氷河期は、何千万人もの大量殺戮(ジェノサイド)に起因するとしか考えられない」と話している。先住民が大量殺戮された影響は気候変動にとどまらず、欧州経済の繁栄にもつながったと研究チームは指摘している。

 欧米人による、血塗られた人種差別、ジェノサイドの歴史

 日本人だけが戦争放棄していればいいと考え、世界の平和どころか自国の平和をすっかり米国頼りにしてしまっている日本人には、想像できない大量殺戮(ジェノサイド)の歴史が、太平洋戦争以前にもあった。

 腹立たしいのは、植民地化した土地にキリスト教の宣教師達が、教化しにやってきたことである。キリストは大量殺戮を認めていないし、人種差別も認めていない。しかし、植民地の拡大とともにキリスト教は世界に広がった。植民地で現地の人たちは不当な差別を受けた。キリスト教は植民地主義者達の都合のいい道具でしかなかった。

 過去に起きた欧州人の手によるジェノサイドや人種差別にはどんなものがあるのであろうか?考えるだけでも嫌になるが、事実は事実として知っておかねばならない。

 それはコロンブスが新大陸を発見し、植民地をつくるようになってから始まった。その後、南北アメリカ大陸で起きた大量虐殺があった。それは、インドの植民地でも起きた。中国のアヘン戦争というものもあった。ナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺、そして、米国による日本に対する無差別殺戮、広島・長崎の原子爆弾投下、東京大空襲。ソビエト共産党政府による大量粛清、中国共産党政府による大量粛清...。

  謎の古代遺跡

 マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、ペルーのウルバンバ谷に沿う高い山の尾根(標高約2,057m)に位置する、インカ帝国の遺跡である。「マチュ・ピチュ」はケチュア語で「老いた峰」を意味する。山裾からはその存在を確認できず、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと呼ばれる。

 この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。

 行政上クスコと同じ地域に属している。この遺跡の由来には諸説ある。宗教的な施設で、太陽を崇める神官たちが統治した説や、太陽の処女たちが生贄にされたといった説。スペイン人によって追い詰められた最後の砦でだという説。インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘という説…。誰が何のために造ったのか、未だに解明されていない遺跡である。

 いずれにしても、人類の創造的才能を表現する傑作であり、消滅した文明の稀な証拠であり、ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ地域を含む…などの理由から1983年に世界遺産に指定された。また、解明されない謎を多く含むことから、2007年7月、新・世界七不思議の一つに選ばれた。

 コンキスタドールによる侵略

 インカ帝国は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドール(Conquistador) に滅ぼされるまで続いた。

 インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。

 最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。比較的自由に自治を認められた、一種の連邦国家のような体をなしていた。 首都はクスコ。

 アンデス最後の文明インカ帝国を滅ぼした、コンキスタドールとはスペイン語で「征服者」を意味する。とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。ペルーのインカ帝国を侵略したコンキスタドールには、フランシスコ・ピサロがいる。

 1533年にインカ帝国が滅ぼされた後、スペイン人によって激しい搾取が行われるようになり、彼等の征服は先住民の文化・伝統・宗教を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに奴隷の様に使役されるという状況に置かれた。

 従軍した宣教師の中にはバルトロメ・デ・ラス・カサスのように中南米での虐殺・虐待を告発した者も存在したが、小数であり、またカサスのような者は激しい批判を受けた。近代では、インディオの子孫達の社会的立場が向上するにつれ、これらの文化破壊行為は批判的に受け取られている。

 この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年3月)

 インディアン戦争

 インディアン戦争(Indian Wars)は、1622年から1890年の間の、アメリカ合衆国における白人入植者(インディアンが呼ぶところのwhite man)によるインディアンの征服戦争の総称。初期のころからインディアンと入植者の小競り合いが続いていたが、移住者の増加とともに列強による植民地戦争とも絡みながら、大規模化していった北米植民地戦争、民族浄化、ジェノサイドである。

 そもそもの白人とインディアンとの戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものである。コロンブスは中米のインディアン諸部族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させた。インディアンたちを黄金採集のために奴隷化し、生活権を奪ったためにインディアンたちは飢餓に陥り、疫病が蔓延し、その数をさらに減らした。白人のもたらした疫病が中米のインディアンを減らしたのではない。コロンブスによる大量虐殺が、疫病によるインディアンの激減を招いたのである。

 アメリカ独立戦争以後、「豊かで安い土地」を求めて白人入植者が西進するようになると、当然そこに住むインディアンは邪魔者となり、これを排除しようとする合衆国政府とインディアンの撲滅戦争と化した。インディアンは領土を追われ、連邦政府が信託保留する土地、「保留地 (Reservation)」に押し込められることを強要され、激しく抵抗するようになる。

 イギリスがアメリカへの入植を始めた1610年代や1620年代は平穏に過ぎたが、ピクォート戦争の起こった1637年頃から、入植地の安全を図るためと、さらなる入植地の拡大のために、植民白人はインディアン部族間の争いを利用し、代理戦争を行わせるようになった。

 この戦争は17世紀(フィリップ王戦争、ウィリアム王戦争および18世紀初頭のアン女王戦争)からウンデット・ニーの虐殺で1890年にアメリカの辺境が「消滅」するまで、インディアンの土地を白人入植者のために没収し、インディアンを征服して白人に同化させると同時に、インディアン保留地へ強制移住させる、という結果になっていった。

 これらの戦争でアメリカ側とインディアン側の受けた損失については様々な統計が示されてきた。最も信頼に足る数字はグレゴリー・ミクノなどによる交戦記録を厳密に照合したものであり、1850年から1890年の間だけで、21,586人の市民と兵士が死亡、負傷、または捕虜になったとしている。

 他の数字としては、ラッセル・ソーントンなどのやや大雑把で関係性の薄い政府の資料から外挿したもので、45,000人のインディアンと19,000人の白人が殺されたとしている。この後者の推定値の中には、辺境の虐殺によって非戦闘員がしばしば殺されたので、双方の女性子供の犠牲者も含まれている。

 その他にも様々な著者が、少ない者では5,000人、多い者では50万人という数字を上げている。ここでの議論に含まれていないのは、双方の残虐さである。インディアンはその残酷な戦い方で、アメリカは破壊的な作戦実行で示した残虐さは、毎年のように新聞、記録保管所、外交記録およびアメリカ独立宣言(...(イギリスは)辺境の住人、戦い方を知っている残酷なインディアンに、年齢、性別や状態に拘わらず見境無い破壊を奨励している)の中で指摘されてきた。

 インディアン戦争は小さな戦争の連続であった。インディアンはそれぞれの歴史を持つ様々な集団であった。戦争の間を通じて、インディアンは「白人」のように一括りで呼べるような単一の民族では無かった。様々なやり方で築かれた社会に住み、地域的なレベルで戦争と和平の決断を下した。ただし、イロコイ連邦や、スー族とシャイアン族、アラパホー族の三部族同盟、またテカムセのような調停者によって実現した一時的な同盟のように、公式の同盟を組んで共闘することが多数見られた。

スターリンのジェノサイド
クリエーター情報なし
みすず書房
写真版 東京大空襲の記録 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

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