脳死とは何か?

 生き物の最上位中枢である脳。動物は5億年におよぶ進化において、その脳の中で新たな領域の出現、脳神経回路の効率化などを通し、様々な環境に適応してきたという。

 とりわけヒトは「意識」をもち、「言語」を駆使し、また「こころ」まで生み出したのは、ヒトだけがもつ特殊な脳の能力だという。さらにヒトを凌駕するほどの超知能をAIは目指しているというがそんなことが可能なのだろうか?

 私たちは脳について分かっていないことが多い。例えば脳死。脳死とは、呼吸・循環機能の調節や意識の伝達など、生きていくために必要な働きを司る脳幹を含む、脳全体の機能が失われた状態。 事故や脳卒中などが原因で脳幹が機能しなくなると、回復する可能性はなく二度と元に戻らないとする。

 しかし今回、死んだブタの脳を回復させる事に米エール大学医科大学院の研究チームが成功した。脳死の定義ゆるがす研究で人間にも応用可能だという。

 このほどエール大学の研究者たちは、食肉用に解体されたブタの脳を使って脳の細胞機能を回復させることに、成功した。これは、脳疾患の治療に使える可能性もある。

 米エール大学医科大学院の研究チームは4月17日付けで学術誌『ネイチャー』に論文を発表し、人工透析装置に似た「BrainEx」というシステムを開発したと報告した。BrainExは、死んだ脳に血流と酸素の流れを復活させる装置だ。

 最初に断っておくと、研究チームは、この実験のためにブタを殺すことはしていない。彼らは、近隣の食肉処理場から、食用に解体されたブタの頭部を譲り受けたからだ。また、ブタの脳は生き返ったわけではない。意識を生み出すほど組織立った神経活動の兆候は見られなかったし、わざとそうなるように実験したからである。

 細胞機能を最大6時間復活

 「臨床的な定義から言えば、これは生きた脳ではありません」とエール大学医科大学院の神経科学者ネナド・セスタン氏は言う。

 BrainExが達成したのは、放っておいたら腐敗してしまう死んだ脳を、それなりに良い状態に保つことだ。ブドウ糖と酸素をとり込むといった細胞機能を、最大6時間復活させることができた。研究者たちは、脳の障害や疾患を研究するのにこの技術が役立つと期待している。

 「非常にわくわくしています。この技術を使えば、心臓発作により脳への血流に問題が生じた患者をどのように治療すべきかについて、理解が進む可能性があります」。米国立神経疾患・脳卒中研究所の神経倫理プログラムのディレクター、カーラ・ラモス氏はそう話す。「脳の細胞を、複雑につながった状態のまま調べることができます」

 とはいえ、今回の研究結果は、いくつかの倫理的に重要な問題を投げかける。研究者たち自身は、議論を歓迎している。

 「心と脳の疾患に苦しむ人がこれだけ大勢いる現在、ヒトの脳を研究するための良いモデルを提供する今回の研究は、非常に重要で有望なのです」と、今回の研究について『ネイチャー』誌に論評を寄せた米デューク大学法科大学院の生命倫理学者ニタ・ファラハニー氏は説明する。

 同氏はまた、「今回の研究は、神経科学の根本的な仮定の多くに疑問を投げかけるものでもあります」と言う。「例えば、いったん脳に酸素が行かなくなると、生物としての死が不可逆的に進行する...という仮定は正しくないことがわかりました。そうなると、倫理的・法律的に非常に深刻な問題が提起されることになります」

 「脳死」の判定基準

 数千年にわたり、呼吸と心拍が停止すれば人は死んだと判断されてきた。けれどもそこに現代医学が待ったをかけた。人工呼吸器の発明で、衰弱した人もより長く生きられるようになり、心臓手術や臓器移植が改良され続けてきたおかげで、心臓の停止は必ずしも死を意味するものではなくなった。

 とはいえ、脳の気難しさは今も同じだ。ヒトをはじめとする哺乳類の脳は高性能マシンのようなもので、最大限の力を発揮するには、酸素を豊富に含む血流が絶え間なく供給されている必要がある。脳への血流が途絶えれば、私たちはものの数秒で意識を失う。それから5分もしないうちに、脳が蓄えていたブドウ糖やATP(生体内で使われる、化学エネルギーの共通通貨にあたる物質)は尽きてしまう。

 脳はここから不可逆的な(と思われていた)死のスパイラルに入る。神経細胞の化学作用が乱れ、脳内の血液が変質、やがて、神経組織を分解する酵素が活動しはじめ、脳の小さな構造や血管が破壊される。

 死のプロセスの解明が進むにつれ、そうした知見が死の定義に組み込まれるようになった。1968年には米ハーバード大学の医師からなる委員会が、「不可逆的昏睡」、つまり今で言う「脳死」の判断基準として、完全な無反応、自発呼吸の停止、反射運動の消失、脳の電気的活動の消失の4つを定めた。現在、米国では米神経学会が脳死判定のチェックリストを定めている。

 しかし近年、脳にはこれまで考えられてきた以上に大きな回復力があることを示唆する証拠が集まってきている。例えば、脳細胞のミトコンドリア(化学エネルギーを作り出す部分)は、死後も10時間ほど機能していることが明らかになった。また、ネコやサルの脳は、血流を1時間遮断した後でも、血流を注意深く再開させると回復することができた。2007年には、急性低体温症により体温が18℃まで低下した女性が、神経学的に何の後遺症もなく回復したという報告もあった。

 「BrainEx」でどこまで回復したのか

 研究チームは、哺乳類の複雑な脳の回復力をテストしようと考えた。そこで考案されたのが「BrainEx」だ。

 BrainExはコンピューター制御されたポンプとフィルターからなり、生体の血液循環と同じように拍動する流れで、死んだ脳に栄養液を送り込む。栄養液は、赤血球中の酸素運搬タンパク質であるヘモグロビンを主成分とし、超音波スキャンで脳内での流れを追跡できるようになっている。BrainExの特許をエール大学は出願しているが、非営利または学術研究目的ならば無償で使用可能になる予定だ。

 実験に際し、脳が「覚醒」したり苦痛を感じたりしないよう研究チームは配慮した。実際にそうした兆候が見られることはなかったものの、研究者らは万が一に備えて、麻酔を投与したり脳の温度を下げたりする準備をしていた。さらに、栄養液には神経活動を阻害する化合物を加えてあった(これには、脳細胞を休ませて回復の可能性を高めるという意味もある)。

 「この研究の目的は、意識を回復させることではありません。むしろ、目的は正反対と言ってもよいほどです」と論文の共著者でエール大学生命倫理学学際センターのスティーブン・レイサム所長は言う。

 研究チームはまず、BrainExが脳の血液循環を復活させることができるかどうかを、細かい血管に至るまでチェックした。実際に、血液は再び循環した。また、脳の血管が良好な状態に保たれていることも確認した。次に、BrainExが脳組織の全体構造をどこまで保存できたかをチェックした。BrainExで処置した脳は、生きている動物の脳や、死後1時間が経過した未処理の脳と遜色なく、死後10時間が経過した未処理の脳よりはるかに良好な状態に見えた。

 海馬のように、酸欠に特に敏感な脳領域も、BrainExの下では個々の神経細胞の構造までよく保存されていた。そして、脳に流入する栄養液と流出する栄養液を比較したところ、脳はブドウ糖と酸素を消費し、二酸化炭素を産生していることがわかった。これは、脳全体で代謝が再開したことを示している。

 前述のとおり、研究者たちは、実験に使った脳が大規模な活動をしないよう配慮していたが、小規模な神経活動を観察するため、海馬を使って実験を行った。海馬の組織を切り取って個々の神経細胞が処置後もインパルスを「発火」できるかどうかを調べたところ、まだ発火できることがわかった。

 「神経科学者である私にとって最も意外だったのは、この点でした」と米アレン脳科学研究所のクリストフ・コッホ所長は言う。「普遍的な神経細胞の電気信号といえるスパイク状の波形が見られました。つまり、これらの死んだブタの神経細胞が、原理的には神経活動を行えることを意味しているように思われます」。

参考 National Geographic: https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041900238/