言葉はいつから存在するのか?

 言葉が人を勇気づける。言葉が自分を表現する。言葉が意思を伝える。言葉が人間関係をつくる。新約聖書ヨハネによる福音書の最初の言葉は「はじめに言葉ありき」。この世は神によって造られたという意味。言葉がなければ安定した世界は成り立たない。言葉はいつから存在するのだろうか?

 これまで日本成立の時期、3世紀ごろと考えられていた日本の言葉が、紀元前には使用されていた証拠が発見された。弥生時代や古墳時代の遺跡から発掘された石が調査の結果、「すずり」と判断される事例が九州北部を中心に相次ぎ、調査に当たった専門家は、紀元前100年ごろから文字が使われていた可能性がある。

 日本では238年卑弥呼が「親魏倭王」の金印をもらったときに、漢字が読めたかどうかはわからないが、金印は王からの命令であることを示すのに言葉で伝えられた、おそらく卑弥呼もこの言葉の意味を理解できたに違いない。

 372年七支刀が神功皇后に贈られたときは、百済が倭国との同盟を求めて贈ったとされているので、書かれた漢字は読めたと思う。千熊長彦(武蔵国の出身ですよ)が百済の使者を連れて持ち帰ったので、皇后と武内宿祢に、その経緯や書かれた内容を十分説明しているからである。

 日本書紀では応神天皇16年〈400年ごろ〉百済の王仁が千字文と論語の漢字を日本に伝えたのが漢字伝来のはじめとされている。471年の日本最古の文字が書かれた稲荷山古墳の鉄剣(行田市ですよ)は明らかに日本人が書いた、と思われるのでもう漢字を使って記録を残す作業が行われたと考えている。

 聖徳太子は604年に十七条の憲法を制定し、615年に三経義疏を推古天皇に献上している。その後変則万葉仮名まじりの漢文で書かれた古事記が712年、漢文の正式歴史書である日本書紀は720年に成立している。

 日本の文学に文字が現れるのは、万葉集の629年の舒明天皇の和歌が最も古い。751年には最古の漢詩集である懐風藻がつくられた。カナ文字はというと、借字(かな)と呼ばれる万葉仮名が有名である。905年の古今集の序は真名〈漢字〉と借名で書かれているので、どちらが読みやすいかを読者に委ねたものだろう。1008年源氏物語が書かれたときには、もう日本文学としてかなまじりの日本語が出来上がっている。

日本列島は紀元前から文字使用か 発掘された石は「すずり」

 調査は、弥生時代や古墳時代の遺跡で過去に発掘された石などを対象に、福岡県内の複数の考古学研究者が進めている。刃物などを研ぐ「砥石(といし)」と判断されていた石などを詳しく調べ直した結果、これまでにおよそ130点が「すずり」と判断された。

 ほぼ同じ時代の中国や朝鮮半島の遺跡から見つかったすずりと形が似ていることに加え、石のすり減り方が砥石と異なるほか、一部には墨とみられる黒い付着物が付いていたことなどから、「すずり」と判断した。

 調査に当たっている弥生時代の専門家で、國學院大学の柳田康雄客員教授によると、「すずり」と判断した石は、九州北部を中心に西日本の各地に分布し、このうちの5点は弥生時代中期の紀元前100年ごろまでさかのぼるという。

 日本列島では古墳時代中期の5世紀ごろには、確実に文字が使われ始め、それより前は土器に書かれた墨書など、文字の可能性を示す資料が見つかっているものの、普及の実態はよく分かっていない。

 柳田さんは九州北部では紀元前からすずりを使って文字を書いていた可能性があるとして「弥生時代は原始時代ではなく、文字を持った高度な文化や文明があったと言ってもいい」と指摘している。

 なぜ「すずり」と判断?

 研究者たちが参考にしたのは、中国の漢の時代に使われていた板状の「すずり」。

 このうち、朝鮮半島で見つかったすずりの復元模型は、漆塗りの豪華な台の上に平たい石が置かれ、この上で水を含ませながら粒状の墨をすりつぶしたと考えられている。

 研究者たちは、こうした形状のすずりが北部九州などにもあるのではないかと考え、発掘調査の報告書に「砥石」と記されている平らで細長い形をした石の再調査を進めてきた。

 細かい観察や実測を行って、形のほかにも砥石とは異なり、表面の中央部分だけがくぼんでいることや、表面から垂れたと思われる墨のようなものが側面に付着していることなど、すずりと判断できる特徴を見つけてきたという。

 確実な文字の使用は5世紀

 日本列島では飛鳥時代以降、官僚機構や法律が整備され、行政に文書が欠かせなくなったことなどから文字の普及が進んだ。文字が確実に使用されていたことを示す資料は、これより前の古墳時代にさかのぼる。

 例えば埼玉県の稲荷山古墳で見つかった古墳時代中期、5世紀のものとみられる鉄剣には115文字が刻まれ、この時期には文章として文字が使われていたことが分かる。

 それ以前にも外交の際などに文字が使われていたと考えられているが、出土した資料が文字かどうかを判断することは難しくなる。

 三重県で出土した4世紀の土器の「田」と読める墨書や、長野県で出土した3世紀の土器に刻まれた「大」と読める文字資料などがあるが、1文字だけの場合が多く、何が書かれているのか、何のために書かれたのか、明確になっていないのが現状。

 また、福岡市の志賀島で見つかったとされる国宝の金印には、「漢委奴国王」という5つの文字が彫り込まれているが、西暦57年に中国の「後漢」から与えられたする考えが有力だ。

 外交や交易に利用か

 日本列島でも弥生時代からすずりが普及し、文字が書かれていたとすれば、何のために使われていたのか。調査を進める1人、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、外交のほか交易に使われていたと想定している。

 久住さんは古墳時代の石の破片6点をすずりと判断した福岡市の「西新町遺跡」に注目している。この遺跡は古墳時代には多くの渡来人が訪れ、朝鮮半島や日本列島の各地と行き来する交易の拠点と考えられている。

 また、すずりと判断された石が出土した遺跡の多くは海や川に面し、港の機能があったと考えられることから、久住さんはこうした場所では交易のために文字が使われていたと見ている。

 久住さんは「長距離を結ぶ交易のネットワークに関わる人たちが、交易の記録や品物の名前や数などを書き留めて記録することに文字を使っていたと考えられる」と話した。(NHKnews:2019年8月10日)

 世界の文字はいつから存在する?

 では、世界の文字はいつから存在するのであろうか?

 世界で最も古い文字と言われるのはエジプトのヒエログリフ、メソポタミアの楔形文字、中国の甲骨文字。これらは5000年前~3000年前には存在したと言われている。しかし、それ以前、ヨーロッパの氷河期(4万年前~1万年前)の洞窟に不可思議な幾何学記号が残されている。

 「私たち人類はいつ言語を獲得し、文字を使い始めたのか?」...その人類の起源に迫る新たな研究がまとめられているのがカナダ人女性人類学者ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー氏による『最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』だ。国立科学博物館・人類史研究グループ長で人類進化学者の海部陽介氏が同書の読みどころについて解説する。

「ラスコーやアルタミラといった氷河期ヨーロッパの洞窟壁画。そこにはウシやウマの動物画とともに、実は不思議な幾何学記号が描かれています。星や羽のような形をしたものや屋舎形と呼ばれるもの、W字形、Y字形など、謎の記号が動物の脇に刻まれているんです。」

「そしてそういった記号がヨーロッパの色んな洞窟で見つかっています。しかし誰もが気にしつつも、これまで記号の謎を解こうとする体系的な研究はありませんでした」

 カナダ人の女性人類学者ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガーは学部生のときに、世界で誰も本格的に幾何学記号を研究していないことに気づく。そしてヨーロッパ全体350カ所以上の洞窟の幾何学記号のデータを集めて、データが足りないところは自ら暗い洞窟を探検して記号を確かめる。

 そうやって50カ所以上の洞窟に潜って、世界で初めて氷河期の幾何学記号のデータベースを構築した。データベースを作ることで、幾何学記号の全体像を把握することに挑戦した。

 そこから彼女が導き出したのは氷河期の3万年という期間に、ヨーロッパ全体で幾何学記号がわずか32種類しか使われていなかったということ。「32種類に絞られたのは、この記号がコミュニケーションツールとして使われていたから」で文字の萌芽がこの時代にあったと彼女は推測している。

 世界の古代文字

 紀元前4千年紀後半の、初期の文字体系は突然発明されたわけではない。それらはむしろ古代の記号体系の伝統に基づいている。

 それら古代の記号体系は厳密には文字体系と分類できないが、文字体系の多くの特徴を強く連想させるので、原文字 (英語: proto-writing) と呼ばれることがある。それらは表意的な体系や、ある種の情報を伝えることのできる初期の簡略記号であったかもしれないが、おそらく言語的情報が欠けている。これらの体系が出現したのは前期新石器時代、紀元前7千年紀ごろだが、もっと以前の可能性もある (en:Kamyana Mohyla)。

 特にヴィンチャ文字は紀元前7千年紀の単純なシンボルに始まり、紀元前6千年紀を通して徐々に複雑さを増していき、紀元前6千年紀のタルタリアのタブレットで記号の行が注意深く整列され、「文章」の印象を与えるまでに達した進化を示している。

 古代中近東の象形文字 (エジプトヒエログリフ、シュメールの原楔形文字およびクレタ文字) はそのような記号体系から継ぎ目なしに進化したもので、記号の意味はほとんど解明されていないため、正確にどの時点で原文字が文字に進化したと言うことは難しい。

 甲羅の文字は甲骨文字?

 2003年、亀の甲羅に彫り込まれた賈湖契刻文字が中国で発見され、放射性炭素年代測定により紀元前7千年紀のものと判明した。甲羅は中国北部河南省賈湖で発掘された24の新石器時代の墓に、人骨とともに埋められていた。一部の考古学者は、甲羅の文字は紀元前2千年紀の甲骨文字との類似性があると主張している。

 しかしながら、他の考古学者は十分な証拠がないとしてこの主張を一蹴し、賈湖の亀甲で見つかったような単純な幾何学模様を初期の文字に結びつけることはできないと主張している。

 紀元前4千年紀のインダス文字も同様に原文字の一員であるかもしれないが、おそらくすでにメソポタミアで出現した文字の影響を受けている。 知られている最も古い形態の文字はピクトグラムと表意的な要素を基に、原始的な表語的性質を持っていた。

 ほとんどの文字体系は大きく3つのカテゴリに分けられる: 表語的、音節的そして音素的である。しかしながら、あらゆる所与の文字体系に可変の特性として3つすべてが見つかるので、しばしば体系を一意にカテゴライズするのは困難である。

 最初の文字体系が発明されたのは紀元前4千年紀後半の後期新石器時代に青銅器時代が始まったのとほぼ同時期である。最初の文字体系はシュメールで発明され、紀元前3千年紀後半までにウル第三王朝時代の古代楔形文字へ発達したと一般に信じられている。同時代に、原エラム文字がエラム線文字へと発達していった。

 エジプトでのヒエログリフの発達もメソポタミア文字と並行しているが、独立であるとは限らない。エジプトの原ヒエログリフ記号体系は紀元前3200年までに古代ヒエログリフへ発達し(ナルメルのパレット(英語版))、紀元前3千年紀までに読み書きの能力をさらに広げていった(ピラミッド・テキスト(英語版))。

 インダス文字紀元前3千年紀に、原文字の一形態としてか、すでに古代の様式の文字となって発達したが、その進化は紀元前1900年頃、インダス文明の衰退により中断させられた。

 漢字は紀元前16世紀頃 (殷王朝初期) 中近東の文字と独立に、およそ紀元前6000年までさかのぼる後期新石器時代の中国の原文字体系から発祥したかもしれない。先コロンブス時代のアメリカ州 (オルメカやマヤを含む) の文字体系も独立した起源を持つ。

参考 NHKnews: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190810/k10012031231000.html

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