動物行動学

 この年のノーベル賞は、動物行動学の研究者3名に贈られた。生理学や医学に直接関係のない研究者に贈られるのは初めてのことであった。動物行動学とは何だろう?

 動物行動学(ethology)は、生物の行動を研究する生物学の一分野。近代以降、動物の行動を詳細に観察し、記述した最初の一人は昆虫記を著したファーブルである。

 ファーブルは昆虫の行動の精緻さを創造の証拠だと考えた。同時期にイギリスではダーウィンがオランウータンを観察し、その振る舞いが人間とわずかにしか異ならないことに注目した。

 20世紀にはアメリカでジェイムズやマクドゥーガルの生得論とワトソンの行動主義が鋭く対立した。この対立は、アメリカを訪れたローレンツ、ティンバーゲンそれぞれに影響を与えた。

 二人は自分の研究がマクドゥーガルに近いと考えた。重要な一歩は信号刺激の発見であった。信号刺激とそれに対する反応は種普遍的(種の多くの個体に影響し)で種特異的(他の種には見られない)であり、行動の生得性を示唆している。

 1973年ノーベル生理学医学賞の受賞理由は「個体および社会的な行動パターンの組織化と誘発に関する発見」である。どんな意味があるのだろうか?

 「個体」とは1匹の動物のこと。1匹の動物やその社会集団内で行われる行動とその意義について調べる研究で、いわゆる「動物行動学」のことである。

 最近ではカメラの撮影・映像記録技術が進んできてクジラや、サケ、ペンギンなどに直接小型カメラを取り付けて動物の目線で行動を記録する研究が注目されており、これまで気づかなかった動物の細かな行動が分かるようになってきた。

 私の娘も動物行動学の研究をして中学校理科の教員になった。彼女が研究したのはサケなどの魚類にクラシックなどの音楽を聞かせて、その成長にどのような効果があるか探るものであった。 

 ローレンツは鳥類ガチョウの「刷り込み」の研究、ティンバーゲンは、「イトヨ」の縄張り研究、フリッシュは「小魚の体色変化・ミツバチの8の字ダンス」の研究に業績を残し1973年の授賞となった。どの研究も動物行動生態学の先駆的として有名だある。

 刷り込みとは何か?

 刷り込み(imprinting)とは、動物の生活史のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象の一種。刻印づけ、あるいは英語読みそのままインプリンティングとも呼ばれる。 

 この現象を指摘したのは、イギリスの博物学者ダグラス・スポルディングで、後にドイツのオスカル・ハインロートが再発見した。ハインロートの弟子であるオーストリアのコンラート・ローレンツは研究を続け著作で大衆化した。

 ローレンツの著書によると、彼は、ハイイロガンの卵を人工孵化して、ガチョウに育てさせようとした。ガチョウが孵化させた雛は当然のようにガチョウの後について歩き、ガチョウを親と見なしているようにふるまった。

 ところが、一つの卵だけを自分の目の前で孵化させたところ、その雛は彼を追いかけるようになり、ガチョウのふところへ押し込んでも、他の雛がガチョウについて行くのに、その雛だけは彼を追ったという。

 ガンの仲間の雛は、親の後ろを追いかけて移動する習性がある。この行動は生まれついてのもの、つまり本能行動である。ところが、雛は親の顔を生まれた時には知らず、生まれた後にそれを覚えるのである。

 具体的には、生まれた直後に目の前にあった、動いて声を出すものを親だと覚え込んでしまう事が分かった。したがって、ガチョウが孵化させた場合には雛はガチョウを親鳥と思い込み、ローレンツが孵化を観察した場合には彼を親鳥と認識することになるのである。

 全く異なる段階での同様の現象をやはりローレンツがコクマルガラスで報告している。このカラスは敵(タカなど)の姿を見ると警告音を発し、それを聞いた鳥は一斉に隠れる。ところが、若鳥は警告音を聞いて退避する事は本能行動として身についているが、敵の姿を知らない。これは親や群れの成鳥がその姿を見て警戒音を発するのを聞いて覚えると言う。また、この記憶が成立するのもたった1回でじゅうぶんだといわれている。

 イトヨのなわばり行動

 繁殖期に入って巣作りをしているイトヨのオスは、巣を中心とするなわばりを持つ。このなわばりに他のオスが侵入した場合、なわばりオスは口を開けて相手に突進する闘争行動により侵入オスを追い払おうとする。

 動物にとって生得的な行動を引き起こす(解発する)要因を「リリーサー(解発因)」といい、リリーサーに含まれる特徴的な刺激要素を「鍵刺激」という。

 イトヨの場合、闘争行動のリリーサーはなわばり内への他のオスの侵入だが、闘争行動の解発には必ずしも侵入オスの全身の姿が見える必要はない。オスの婚姻色である赤い色さえ視界に入れば闘争行動は解発される。つまり、この場合の鍵刺激は赤い色となる。

 この鍵刺激を実験的に明らかにしたのがティンバーゲン。ティンバーゲンはイトヨにそっくりで腹の赤くないモデルと、細部をデフォルメして腹だけを赤くしたモデルのそれぞれをなわばりオスに提示し、そっくりであっても腹の赤くないモデルでは闘争行動が解発されず、一方腹が赤いだけのモデルでは解発されることを示した。

 また、イトヨはモデルに描かれた目玉模様に突進することがわかった。目玉模様は攻撃目標として認知されていると考えられる。

 ミツバチの「8」の字行動

 フォン・フリッシュは,ミツバチのコミュニケーションに関する研究で有名である。彼はハチに印をつけて,その行動をガラスばりの特別な観察用箱を使って研究した。

 その結果,働きバチがなかまにえさ場の位置を,円形ダンスと8の字ダンスで知らせることを発見した。また,ミツバチが,時間や色を学習できることも研究している。

 このようなダンスをすることで、彼らのミツバチの巣 (en:Beehive) の仲間に蜜や花粉、水源や新しい巣の予定地があることを知らせることができる。

 このようにミツバチのダンスは多様な資源を収集するのに適した場所で他のハチを集めることができる調達を成功させる手段である。

 かつては8の字(遠距離)だけでなく、丸型ダンス(近距離)もあると考えられたが、丸型は8の字の短縮版であることがわかった。

 フォン・フリッシュは,これらの研究のほかに,ミツバチや魚類の視覚と化学感覚に関する研究も行っている。

 カール・フォン・フリッシュ

 カール・リッター・フォン・フリッシュ(Karl Ritter von Frisch, 1886年11月20日 - 1982年6月12日)は、オーストリアの動物行動学者。1973年、ニコ・ティンバーゲン、コンラート・ローレンツと共にノーベル生理学・医学賞を受賞。動物行動学という学問分野の創設に大きな功績を残した。

 ミュンヘン大学の動物学の教授としてミツバチの研究をし、彼らのコミュニケーション手段としての8の字ダンス、また紫外線に鋭敏な感覚を持ち合わせていることを発見した。

 医師・大学教授のアントン・リッター・フォン・フリッシュとその妻で作家のマリーの子としてウィーンで生まれる。幼い頃から動物の収集家であっただけでなく、熱心な観察者でもあった。

 大学に入学するまでに興味は動物学に集中していたが、父アントンは医学の方が現実的だと考えたため、それに従ってウィーン大学の医学部に入学した。大学での組織学、解剖学、人間生理学の知識は後の研究に大きな影響を与えた。大学の講師には叔父のシグムント・エクスナーがおり、フリッシュによれば叔父は人間生理学に限定されていたはずの講義で他の動物の研究を行うことを認めていた。

 最終的には医学の素質がないと考え、ウィーン大学を退学してミュンヘン大学の動物学科に移った。そこでは魚類の感覚と体色の研究を続け、魚の頭部に感覚器が大量に存在することを突き止め、目が退化している魚がどのように光に反応して体色を変化させているのかを説明した。

 この研究で1910年に博士号を取得した。フリッシュは研究を続け、小魚が色を感知できることを示したが、この研究は好意的に受け取られなかった。

 フリッシュはチャールズ・ダーウィンの自然選択説を(当時はまだ論争の的であったにもかかわらず)信じ、魚の体色の変化は生存の成功に関わっているのだと予測した。その後ミツバチの研究に取り組み、ミツバチの色覚と花びらの色の共進化を明らかにした。

 1914年に第一次世界大戦が始まると兵役は免れ病院で働いた。1917年に病院の看護婦だったマルガレーテ・モーア (Margarete Mohr) と結婚し、後に3人の娘と1人の息子をもうけた。

 1919年には講師として大学に戻り、ミツバチの「ダンス言語」のような複雑な行動の存在を明らかにした。1921年にミュンヘン大学とロストック大学で教授となると魚類の聴覚について研究を行った。1923年にヴロツワフ大学の教授を経て、1925年からミュンヘン大学の動物学研究所で働くが、第二次世界大戦中に大学が破壊されたこともあって、二度目の敗戦の後グラーツ大学に移った。

 1950年にグラーツ大学の後任教授にコンラート・ローレンツを推薦し、動物学科を再建するためにミュンヘン大学に戻った。1958年にミュンヘン大学を退職後も一般向けに動物行動学、特にミツバチの生態に関して多くの本を書いた。

 フリッシュの実験的で包括的な研究、ミツバチで発見された複雑な行動、魚類の鋭い知覚の解明、動物行動の理解への自然選択の導入は、その後の動物行動学者にとって非常に重要だった。1973年にそれらの功績に対して、ティンバーゲン、ローレンツと共にノーベル生理学・医学賞が贈られた。

 コントラート・ローレンツ

 コンラート・ツァハリアス・ローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz, 1903年11月7日 - 1989年2月27日)は、オーストリアの動物行動学者。英語風にコンラッド・ローレンツとも表記される。刷り込みの研究者で、近代動物行動学を確立した人物のひとりとして知られる。息子は物理学者のトーマス・ローレンツ。

 1903年、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーン近郊アルテンベルク(ドイツ語版)に生まれる。ノーベル賞受賞に際して書かれた自伝的エッセイで、両親が「私の動物への尋常ではない愛情に対して、おそろしく寛容だった」こと、そしてセルマ・ラーゲルレーヴの『ニルスのふしぎな旅』がガンへの情熱を満たしたことが科学者として重要だったと認めた。

 はじめウィーン大学医学部で学び医師の資格を得、さらにウィーン大学で動物学を学ぶ。父アドルフ・ローレンツ(ドイツ語版)の願いで、1922年にコロンビア大学で医学を学び始めた。しかし1923年にはウィーンに戻り、ウィーン大学で研究を続けた。1928年に医学博士となり、それから解剖学研究所で1933年まで助教授を務めた。

 1933年に動物学で二つ目の博士号を取得した。1936年に本能に関する国際シンポジウムで重要な友人であり同僚となるニコ・ティンバーゲンと出会った。二人はともに野生の、家畜の、そして雑種のガチョウを研究した。

 「腐敗の同様のプロセスは文明化された人間の中でも起きる」のではないかと疑い、恐れ始めた。1940年にケーニヒスベルク大学の心理学の教授となった。

 1941年にドイツ国防軍に徴兵された。ローレンツはバイクの整備士を望んだが、軍医として配属された。軍務についてすぐにソ連軍の捕虜となり、1942年から1948年まで捕虜収容所で拘束された。そのあいだも医者として働き、「ほとんどは医者だったが、何人かのロシア人ととても親しくなった」。

 解放された時、書きためていた本の原稿とペットとしていたムクドリを持ち帰ることを許された。ローレンツは「無傷の鳥と原稿を持って」アルテンベルクに戻った。原稿は『鏡の背面』に使われた。

 1949年に、一般読書向けに動物行動学を説明する著書『ソロモンの指環』を刊行する。

 1950年にマックス・プランク協会はデュルメン(ドイツ語版)で行動心理学ローレンツ研究所を設立した。1957年にはミュンヘン大学動物学科の名誉教授となった。ローレンツは1958年にはマックス・プランク行動心理学研究所に移籍した。1969年にPrix mondial Cino Del Ducaの最初の受賞者となった。

 1973年、ニコ・ティンバーゲン、カール・フォン・フリッシュと共にノーベル医学生理学賞を受賞した。いずれも動物行動学の同僚研究者である。同年にマックス・ブランク研究所を退職したが、アルテンベルクやグリューナウ・イム・アルムタール(ドイツ語版)に住み、研究と執筆活動を続けた。1974年にオーストリアに戻り、オーストリア科学アカデミー動物社会科学研究所の所長になる。

 ニコ・ティンバーゲン

 ニコ・ティンバーゲン(Nikolaas Tinbergen, 1907年4月15日 - 1988年12月21日)は、著名なオランダの動物行動学者で、鳥類学者。「ニコ」は通称。オランダ語読みではニコラース・ティンベルヘン。

 オランダのデン・ハーグ生まれで、ノーベル経済学賞の初代の受賞者、ヤン・ティンバーゲンの弟としても知られる。他によく知られたルーク・ティンバーゲンという兄弟もいる。

 1955年にイギリスの市民権を取得している。1973年、コンラート・ローレンツ、カール・フォン・フリッシュと共にノーベル医学生理学賞を受賞した。

 ティンバーゲンの研究は、一部は当時のアメリカ心理学界で有力であった行動主義への反発として行われた。ティンバーゲンは動物の行動が環境刺激への単なる反応ではなく、より複雑な動物の内面の情動に起因すると考え、行動の生理的、現象的な側面だけでなく、進化的な側面の研究の重要性を強調した。

 それに関連して示した生物学の4領域(ティンバーゲンの4つのなぜとも呼ばれる)は行動生態学など後の行動生物学分野の重要なフレームワークとなっている。

 1907年にオランダのデン・ハーグで小学校教師だった父親ディルク・ティンベルヘンと母親ヤーネッタ・ファン・エークの間に5人兄妹の3番目として生まれる。

 ライデン大学に入学すると指導教官とともにハーグ近くのセグロカモメの営巣地で研究を行った。その後、フォン・フリッシュの研究とファーブルの著作の影響を受け、ジガバチの帰巣能力を研究対象とした。

 1932年から33年にかけてオランダ派遣団の一員として、まだ西洋化されていなかったグリーンランドのイヌイットの間で生活を送った。この経験は40年後にティンバーゲンが人類の祖先の生活を復元しようと試みたときに役立てられた。

 オランダに戻るとC・J・ヴァン・デア・クラーウ教授の下で講師となった。ヴァン・デア・クラーウに動物行動の講義を命じられたことで、本格的に研究を開始する。1936年にヴァン・デア・クラーウは「本能」に関する小さなシンポジウムのためにコンラート・ローレンツをライデン大学に招き、ティンバーゲンはローレンツと初めて出会った。二人はすぐに意気投合し、ローレンツのアルテンベルクの家に招待されて「弟子」となった。

 オランダへ帰る際にミュンヘンのフォン・フリッシュの研究所を訪問し、同時にナチ党の伸張を目の当たりにして不安を覚えた。

 1938年にアメリカへ招かれ、講演の合間にYMCAとグレイハウンドを利用して各地を旅行した。この間にエルンスト・マイヤーやロバート・ヤーキーズの元を訪れた。そこではアメリカの心理学を支配していた行動主義に困惑したと後に述べている。

 オランダへ帰るとまもなく第二次世界大戦が勃発し、ローレンツとの通信が途絶えた。ローレンツは徴兵され、ティンバーゲンはユダヤ人職員を解雇するという大学の決定に抗議してドイツ軍の捕虜収容所で二年を過ごした。

 ティンバーゲンがすでに死んだと思っていたローレンツと再会したのは、ケンブリッジ大学の動物行動学者W.H.ソープが1949年に自宅で開いた個人的な催しであった。

 戦後アメリカ、イギリスに招かれ、マイヤー、デイビッド・ラックと友好を深めたことで進化学と生態学への関心は決定的となった。アメリカでの講義は『本能の研究』と題されて出版された。

 ラックとオックスフォードの動物学者アリスター・ハーディはティンバーゲンに英国への移住を勧めた。ハーディは行動生物学の研究を励まし、その研究はピーター・メダワーによって支援された。ハーディの後任となった J・W・S・プリングルは研究を励ますだけではなく、行動生物学と神経生理学の間の溝を埋めることを勧めた。

 オックスフォード大学に学際的なヒューマンサイエンス・スクールが設置されたことは、動物行動学を人間に適用したいという若い頃の願望を刺激することになった。

 タンザニアの国立公園理事J・S・オーエンの依頼でセレンゲティ研究所の設立に協力した。1962年に王立協会フェローに選出され、1966年にオックスフォード大学の教授となった。
 
 1970年代からは妻とともに自閉症の研究に関心を寄せ、ジェローム・ブルーナーの児童行動学研究所に協力した。しかし彼の自閉症は親の行動に起因するという主張は、当時にあっても若干の驚きを引き起こした。1974年にオックスフォード大学を退職した。1988年に自宅で脳卒中のために死去した。

 受賞対象となったのはイトヨの本能行動に関する研究である。彼の研究は元々は鳥類を対象としていたが、のちにその研究方法を転用して自閉症児の治療教育の研究も手がけた。アレクサンダーテクニークの熱心な実践者でもあり、ノーベル賞受賞講演の中でも大きく取り上げて紹介した。

 オックスフォード大学ではわずか8年の間にデズモンド・モリス、パトリック・ベイトソン、リチャード・ドーキンスなど優れた動物行動学者を育てた。

 ティンバーゲンの4つのなぜ

 コンラート・ローレンツとアメリカの発達生物学者ダニエル・レーマンは動物行動の生得性について長い議論を行った。ローレンツにとっては動物が学習もせずに複雑な行動を行うことこそが重要であり、それがどのようなメカニズムによって引き起こされるかは興味の対象外であった。

 ティンバーゲンはその論争から、動物の行動や性質は様々な次元から説明が可能であり、それらの説明は同時に成り立つこと、そのうちのどれか一つでも欠ければ完全な説明にはならないことに気づいた。

 これを「ティンバーゲンの4つのなぜ」(4つの質問、4つの柱などとも訳される。)と言い、大別すると「それを引き起こす直接的なメカニズム」と「進化的なメカニズム」にわけることができる。

至近要因(直接要因とも訳される)
至近要因:その行動を直接引き起こす生理的、心理的、社会的メカニズム
発達要因:その行動はどのようにして習得されていくか
究極要因(進化要因とも訳される) 
進化要因:その行動には進化的にどのような意味があったのか。どのように適応的だったのか
系統発生要因:どのような祖先型の行動からそれが発達してきたのか

 たとえば動物が食餌をするのは生き延びるため、と言う説明では不十分である。直接その行動を引き起こす動機(空腹を不快に感じる)と、その機能(餓死せず生き延びる)は区別しなければならない。
 
参考 Wikipedia: コンラート・ローレンツ ニコ・ティンバーゲン カール・フォン・フリッシュ

  

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