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私たちの家庭の電気が交流になったのはどんな理由からだろう?電池などは直流であるが、コンセントの電気は交流である。この理由はなぜなんだろう?

電気は静電気の発見から始まった。その後の電池の発明によって、まず、直流の電気がつくられ、これを使用する白熱灯、モーターなどが開発された。

次に電磁誘導が発見され、発電機が発明された。この装置では磁界中でコイルを回転させると、交流が容易に発生した。しかし、交流の利用方法の開発が遅れていたことから、わざわざ交流を直流に変換(整流)するための複雑な機構(整流装置)が追加され、経費がかかった。

1882年世界で初めての電力事業はエジソンの直流送電で始まった。直流送電は当時の標準であり、直流は、モータと同様に主要な電力需要であった白熱灯のためにうまく働いた。

快人エジソン―奇才は21世紀に甦る

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ところが直流の送電では当時100Vで発電した電気をそのままの大きさで送電しようとした。すると少し送電距離が長くなると抵抗が大きくなり、電圧降下現象が起きた。

送電線にも抵抗があり、距離が長くなればなるほど抵抗値は増加、電圧は降下する。抵抗値を減らすには送電線を太くする方法があるがそれでは経費がかかりすぎた。

そこでエジソンはなるべく家庭の近くで発電したり、単相3線式配線を採用したり、110Vで送電し使う場所で100V以上で届くように工夫したが、根本的な解決にならなかった。

現在のように高い電圧に変圧し、電流を少なくすれば遠くまで電気を送れたのだが、直流方式では電圧を変換(電圧を高くする、低くする)することが容易でなかった。

そこに現れたのがテスラだった。交流では変圧器で電圧を高くしたり、低くしたり容易に電圧の変換ができた。すると電圧降下も問題になることなく電力の輸送ができた。

1888年、テスラによって交流電動機が作られると、直流も交流も使い勝手はほぼ同じとなった。ここに安全性や経済性の競争になり、交流陣営と直流陣営の壮絶な戦い(電流戦争(War of Currents)を参照)が開始されることになった。 

最終的にすべての直流伝送が交流伝送に変わったのは2005年1月つい最近のことである。

電流戦争の経緯


1878年 にはエジソン(Thomas Alva Edison )がエジソン電灯会社(Edison Electric Light Company)をニューヨークに設立して、電球の研究開発を開始します。 1889年 エジソンが設立した系列会社と合併し、エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(Edison General Electric Company)に改称しました。電球の販売とそれに必要な電気の販売のために発電所の建設を始めました。

1882年9月4日エジソンは直流(DC)方式で110ボルトでニューヨークの中心街であるマンハッタンの59箇所に電灯を付けて電気を供給する事業を開始しました。

この配電方式は当時の米国の標準的な方式になって、エジソンは莫大な特許権益を得ていました。

電灯の使用者が増加し、それに伴って電線を追加していきましたが、エジソンのDC方式では限界があり、電線の長さがある程度長くなると、電灯の使用が集中する夕方(高負荷時)に距離が1マイル以上になると末端で電圧が大きく低下(電圧降下 長い電線の末端では電灯が暗くなる)するという大きな問題がありました。

電気の使用量が増加するとそれに伴って、電圧降下の問題が大きな障害となり、エジソンはこの電圧降下の改善策として、3線式と銅線を太くする対策を採りましたが、この問題を完全に解決することは出来ませんでした。

直流方式では電圧を変換(電圧を高くする、低くする)することが容易でないこと、電灯用の電圧と電動機用の電圧が異なることから、別々に配電線を設置しなければなりませんでした。

また、電線の長さに制限があることから電灯等の消費者の中心に分散して発電所を作る必要がありました。このようなことから、需要の増大に伴って、電気を送るために必要とする経費が急速に高くなってきました。

1886年にはウェスチングハウス(George Westinghouse, Jr.)とスタンリ(William Stanley)はバリントン(マサチュセッツ)で水車発電機で発生した交流500ボルトの電気を変圧器(transformer)で3000ボルトにして送電し、受電地点で100ボルトにしました。これが最初の交流(AC)方式での送電でした。

1886年にはWH社(Westinghouse Electric Corporation)が設立されます。 交流方式では高い電圧を使用することで電圧降下が少ない(電力の損失も少ない)ことから長い距離の送電が可能で、必要な地点に変圧器を設置して必要な電圧(電灯用、電動機用等)に変換できる利点がありました。交流電動機電灯は直流で開発されましたが、交流でも動作します。

しかし、電動機は直流で開発され、直流用の電動機は交流では動作しませんでした。 WH社が発足当時には交流で動く電動機は存在しませんでした。それを可能にしたのはテスラの交流電動機です。

1887年エジソンの従業員であったテスラは交流発電機(Alternator)、変圧器、交流電動機等を発明し、直流方式の問題をを交流方式で解決しようとエジソンに提案しました。

しかし、エジソンに断られ、テスラは独立して、彼の発明した交流方式の特許を、ウェスチングハウスに売却してウェスチングハウスが商業化します。

1888年にテスラはウェスチングハウスの支援を受けて2相誘導電動機を作ります。これによって直流陣営と対等の戦いが出来るようになります。

エジソンの主張 直流(DC)方式は交流(AC)方式に比べ安全であることを新聞に掲載しました。

それは交流方式の採用を妨害するものでした。また、高い電圧は危険であることから、送電電圧を800ボルト以下に制限する法律を作るように各州の議会に働きかけましたが失敗します。 

エジソンは絞首刑に反対していて、ニューヨーク州の最初の死刑執行用の電気イスにAC方式を使用していて、そのことに触れてAC方式は人を死に至らしめるほど危険であり、DC方式がより安全であると宣伝しました。

電気イスのエピソード


その電気椅子はエジソンが発明したとされていいて、DC方式よりも危険であるACが論理的に採用されたとされていますが、それには幾つかの誤解があるようです。

1886年ニューヨーク州で絞首刑よりも人道的な処刑方法を検討する委員会が設置されます。 当時、エジソンとウェスチングハウスとで電気の供給方式をめぐって激しい競争が展開されていて、エジソンと彼の従業員であるブラウン(Harold P. Brown)はエジソンのメンロパーク研究所で、AC方式が危険であることを宣伝する目的で、AC方式を使用した電気椅子を作り、公開実験で動物を死亡させ、その中にはサーカスの象も含まれていました。

その様子を新聞でも公開し、AC方式は電気処刑に使用されるほど危険であるとして、エジソンのDC方式はAC方式よりも安全であるので、採用してくれるようにと宣伝しました。その効果は無かったようですが、1889年に電気椅子はニューヨーク州の委員会に採用され、その後、各州で使用されるようになりました。 

この椅子を最初に使用したのは1890年8月6日ニューヨークの刑務所で、参列者の前で死刑が執行されましたが、その時の電圧の選定ミスにより死刑囚を死亡に至らしめることができず、ひどく負傷させてしまいました。

その処刑執行は再度実施され、その様子が「首吊りよりも恐ろしい光景であった」報道されました。電気の知覚は電圧や周波数、接触部位の状態等によって異なりますが、AC電流で1mAから10mA、DC電流で5mAから10mAが人体に刺激感ずる電流で、それを超えると筋肉の随意運動ができなくなります。

人体の器官のうち心臓は特に電流に敏感で、小電流(50mA程度)でも心室細動を起し、心臓が停止し死亡することがあります。特に、心臓に近い左手から電流が流れると死亡事故になるケースが多くなります。

一般の商用AC電流は同じ値のDC電流よりも電気ショックを引き起こしやすくはありますが、その差は僅かです。電気イスでは 、ACであろうがDCであろうが、電気ショックによって死亡する電流よりも十分に大きな電流(10A程度)を流すことの出来る電圧(2000V程度)を使用することになります。

このことから、ACとDCのどちらかが危険で、どちらかが安全であるとはいえません。

最終決着


コロンブス博覧会 1893年

1893年に米国のシカゴで開催されたロンブス新大陸発見400年を記念して開催されたコロンブス博覧会にはテスラとウェスティングハウスが開発した交流方式の電気による照明が使用され、従来のエジソンが築いてきた直流方式にテスラの交流方式が勝利したことを世界中に宣言する意味合いを持つ展覧会でした。

テスラの発明した多相交流の発電機、変圧器、分電盤、交流で動く電動機(誘導電動機)、交流直流変換機等が展示され、交流方式での電気システムが完成したことを大々的に宣伝する展覧会でした。照明装置では実用的な蛍光灯やネオン灯なども展示され、人々を驚かせました。

ナイアガラ瀑布利用発電所 1893年

このAC方式とDC方式の競争に事実上の決着をつけたのは、1893年に国際ナイアガラ瀑布委員会発足し、ナイアガラ瀑布を利用する水力発電所の計画が発表され、それに対してエジソンとGE社(General Electric Company)のDC方式とテスラのAC方式の提案がなされ、委員会はテスラのAC方式を採用しました。

ナイアガラ瀑布からの電気でバファローに電気産業を興すのには疑問もありましたが、1896年11月16日にナイガラ瀑布の水力発電所からバファローの町に電気が送られました。水力発電はWH社によってテスラの特許で作られ、その時の周波数が60サイクルで米国の標準になりました。

1892年には トムソン・ヒューストン・カンパニーと合併し、GE社が誕生し、GE社も交流機器を製作するようになりました。 この間熾烈な競争のため、1897年にはエジソンとウェスティングハウスは破産状態に陥りましたが、短期間でDC方式からAC方式に変換され、エジソンのDC方式は完全に敗北しました。

ニューヨーク市の電力会社コンソリデイト・エジソン社はその後も直流での配電を継続し、2005年1月にDC方式の送電を停止すると発表しました。その時マンハッタンに古いエレベータが主体で1600件の顧客が残っていました。その年の終わりまでにこれらは交流に交換され、直流による一般への配電は無くなりました。(参考HP Wikipedia)  

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