1906年ノーベル化学賞の単独受賞

 1906年のノーベル化学賞はとても残念なことがあった。それは、フランスのアンリ・モワッサンとノーベル賞を争った、ロシアのドミトリ・メンデレーエフである。両者は投票で受賞者が決められ、わずか1票差で落選してしまう。

 当時多くの化学者が新しい物質の単離に成功していたが、彼らはやみくもに物質を探したわけではない、みんなメンデレーエフがつくった周期表を使って、新しい物質を探していた。モアッサンが発見したフッ素にしてもそうである。周期表に空らんがあり、そこに埋める物質がフッ素であった。

 この年のノーベル医学・生理学賞では、カミッロ・ゴルジとスペインのラモン・イ・カハールが、共同で受賞しているのを考えると、化学賞を共同で受賞させてあげたかった。というのは、メンデレーエフもモアッサンも翌年の授賞式を待たずして亡くなっているからである。メンデレ−エフは高齢であり、モアッサンはフッ素を単離するために、大量に有毒なフッ素ガスを浴びためだと思われる。

 今日の我々の豊かな生活は、数多くの人々の犠牲によって成り立っていることを忘れてはならない。私も当時化学者として生まれていたら、物質を調べる化学実験に夢中になり、失敗し、名前も残さず死んでいたかも知れない。ノーベル賞の栄誉を受ける人は幸運であり、名も知られず亡くなった化学者の方が大勢いたことだろう。

 1906年のノーベル生理学・医学賞の共同受賞

 この年、1906年のノーベル生理学・医学賞は化学賞とはまったく対照的であった。

 受賞したのはイタリアのカミッロ・ゴルジとスペインのラモン・イ・カハールの共同受賞であった。受賞理由は「神経系の構造研究」である。しかし、彼らは協力して受賞したのではなく、両者はまったく正反対の意見を持っており、授賞式ではお互いに言葉を交わすことは無かったと伝えられている。

 それまで神経細胞の仕組みは、よくわかっていなかった、ゴルジの発見したゴルジ染色法により、初めて神経細胞は染色され、はっきりと観察された。ラモン・イ・カハールはゴルジ染色で染まった、神経細胞を驚きの目で観察し、すばらしいスケッチを数多く残した。

 19世紀後半、中枢神経をはじめとした神経系が網状構造をとることまでは知られていた。ゴルジらは神経繊維は末端でたがいに途切れること無く連続して網を形成しているとする「網状説」を主張し、ラモン・イ・カハールらは神経線維は細胞の集合であるとする「ニューロン説」を主張した。

 神経は一続きの網状になっているのではなく、シナプス部で途切れていることが確認されるのは、電子顕微鏡の出現を待たねばならなかった。

 カミッロ・ゴルジ

 カミッロ・ゴルジ(Camillo Golgi、1843年7月7日 - 1926年1月21日)はイタリアの内科医、科学者。

 イタリアブレシア県のコルテノ・ゴルジにて生まれる。父は内科医で、地区のmedical officer。パヴィア大学にて医学を学び、同大学の実験病理学研究室にて、骨髄の特性を解明したことで知られるGiulio Bizzozeroの元で研究を行った。

 1865年卒業。中枢神経系の研究に多くの時間を費やした。19世紀後半、神経組織の研究を行うのに十分な染色技術は無かった。精神病院に勤務している際に、彼は主に銀を使う金属による神経の染色方法の実験を行った。彼は全体のうち、ランダムに一部の細胞のみを染色するという神経組織の染色方法を発見した。

 これにより初めて脳の中の神経の経路を確認することが出来た。彼はこの染色を「黒い反応」と呼んだが、後に彼の名前を付け、ゴルジ染色法と呼ぶようになった。何故一部の細胞のみが染色されるかはまだ不明である。

 この染色は硝酸銀を重クロム酸カリウムと反応させることで、クロム酸銀の粒子を神経鞘に固定させる。結果、軸索と、樹状突起と同様に細胞が完全な黒に染色され、黄色の背景と比べ、非常に鮮明でコントラストがよい染色である。神経細胞を視覚化することにより、ニューロン説が受け入れられるようになった。

 この発見に加えて、彼は腱の感覚器を発見した。これも彼の名前を取り、ゴルジ腱受容器(ゴルジ腱器官)と呼ばれている。彼はマラリア原虫のライフサイクルを研究し、マラリアの発熱の時期が、マラリア原虫のライフサイクルと関連があることを発見した。

 彼の染色技術を用い、1898年に、細胞内にある入り組んだ器官を発見した。これも彼の名前を取り、ゴルジ体(ゴルジ装置)と呼ばれている。

 サンティアゴ・ラモン・イ・カハールと共に、神経系の構造研究に関して、1906年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

1926年1月にイタリアのパヴィアにて死去。(出典:Wikipedia)

 ラモン・イ・カハール

 サンティアゴ・ラモン・イ・カハール (Santiago Ramon y Cajal, 1852年5月1日 - 1934年10月17日)はスペインの神経解剖学者(サンティアゴ・ラモニ・カハールとも)。1906年にゴルジと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。今日の神経科学・神経解剖学の基礎を築き上げた巨人として位置づけられている。姓のラモン・イ・カハールは、父方の姓「ラモン」と母方の姓「カハール」をandを意味する「イ」でつなげて呼ぶスペインの慣習によるものであるが、一般には母方の姓の「カハール」のみで呼ばれることが多い。

 ニューロン説

 中枢神経系の構造に関して、カハールはゴルジ染色法を中心とする方法論を用いた神経組織標本の観察結果に基づき、ゲルラッハや、ゴルジ染色法の開発者ゴルジらによる網状説に反対して、ニューロン説を提唱し、激しい論争を引き起こした。

 神経繊維は末端でたがいに途切れること無く連続して網を形成しているとする網状説は今日では完全に否定されている。しかし、18世紀半ばごろまでに確立していた細胞説の例外として、神経系では細胞が融合して多核となっていると考えられていた時期があった。

 これに対してニューロン説の立場では、神経系はニューロンという非連続の単位から構成され、個々のニューロンは細胞体、樹状突起、軸索という極性のある構造を有し、シナプスと呼ばれる接合部によって互いに連絡すると考える。1906年のノーベル生理学・医学賞は、網状説のゴルジとニューロン説のカハールの二人が受賞し、まったく正反対の立場で受賞記念講演を行っている。後の時代の電子顕微鏡を用いた実験研究によって、個々のニューロンの細胞膜は互いに独立していることが確かめられ、ニューロン説が実証されるに至り、神経科学における基本的な概念となった。

 略歴
1852年 スペイン北部の寒村ペッティラで、外科医の長男として生まれた。
少年時代にはいたずら好きの悪童で、絵を好んだ。この絵画への傾倒が後に形態学者・解剖学者として役立ったようである。
1866年 悪童ぶりに困り果てた父から床屋および靴屋への徒弟奉公を命じられる。(14歳)
1868年 サラゴサ大学医学部に進学。
1873年 医学部を卒業後、軍隊に招集され二等軍医となる。
1874年 一等軍医として当時まだスペイン領であったキューバ内乱の前線に赴き、密林でマラリアに罹患。(22歳)
1875年 帰国し、サラゴサ大学医学部の解剖学臨時助手。
1877年 医学博士号取得。
1880年 結婚。
1883年 バレンシア大学解剖学教授。
1887年 はじめてゴルジ染色法の標本に触れ衝撃を受ける。バルセロナ大学正常・病理組織学教授となる。(35歳)
1892年 マドリードのサン・カルロス大学正常組織学・病理解剖学教授。(40歳)
1895年 - 1896年 蓄音機の改良に取り組む。
1906年 神経系の構造研究に関して、ゴルジと共にノーベル生理学・医学賞を受賞。(54歳)
1917年 自叙伝『我が生涯の思い出』刊行。
1934年 82歳で死去。(出典:Wikipedia) 
 

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