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 人類の起源
 人類の祖先として、時代によって猿人、とか旧人、原人、新人とか言った言葉をよく聞くが、人類というとどの時代のものを言うのだろうか?

「ラミダス猿人は」東京大総合研究博物館の諏訪元教授らの研究グループが、約440万年前の人類、アルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人)の化石から全身像を復元することに成功したもので、二足歩行をしていた人類としては世界最古のものとして注目されている。

 人類とは生物の中で直立二足歩行が可能な存在。人類の進化は、アウストラロピテクスとよばれる猿人に始まった。彼らは400万〜500万年前に現われ、150万年目には姿を消してしまった。アウストラロピテクスは、直立2足歩行をするようになった初めての生物であった。

 160万〜150万年前には、脳が大きくなり、歯が小型になったホモ・エレクトゥスが現われた。原人ともいわれる。ホモ・エレクトゥスも、はじめはそれまでのヒトの祖先と同じくアフリカの東部と南部だけで生活をしていたが、100万年前くらいからユーラシア大陸へと移動していった。

 30万〜20万年前に、ホモ・エレクトゥスはホモ・サピエンスへと進化した。旧人である。ホモ・サピエンスは“知性あるヒト”という意味で、彼らは当時のきびしい氷河期の中でも効率よく食料を獲得することができた。また人類史上初めて死者に花を添えるなどして弔う習慣ができた。

 それでは最古の日本人というと、どのくらいの昔になるのだろうか?



 日本最古の人骨
 沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で出土した人骨が、炭素年代測定によって約2万年前の旧石器人の骨であることが2月4日、わかった。放射性炭素を直接測定した人骨としては日本最古。日本人のルーツや成り立ちを探る重要な成果になる。

 同遺跡は石垣市で建設が進む新石垣空港予定地内。現地のNPO法人沖縄鍾乳洞協会が、頭骨や脚の骨などを発見した。

 同協会や沖縄県、琉球大、東京大、愛知教育大などの専門家でつくるチームが、人骨6点の放射性炭素年代を測定し、うち1点で約2万年前の値を得ることに成功した。これまで直接骨をはかった値では、浜北人の1万4千年前が最古だった。

 現在、日本列島で知られる1万数千年より前の旧石器時代人骨は10例ほど。そのほとんどが石灰岩質で保存環境のよい南西諸島で見つかっている。ただ、多くは化石化が進んでいたり、骨そのものの分析ではなく、一緒に出土した炭化物の測定や形態的な特徴からの推測だった。これまで最古とされる那覇市の山下町第一洞穴の骨(3万2千年前)も木炭での測定のため、年代観を疑問視する意見もあった。

 今回は少量の試料で測れる加速器質量分析法(AMS)を利用し、直接人骨そのものから年代を割り出し、南西諸島に確実に旧石器時代の人類が存在したことを裏付けた。

 旧石器時代の日本列島に人類がいたことは石器から確認されているが、人骨がわずかなため、どんな人類がどこから来たのか、のちの縄文人や現代人につながるのかなど謎が多い。日本人の祖先は南方から南西諸島を北上してきたとの説があり、日本人の起源論に大きな影響を与えるとみられる。(asahi.com 2010年2月4日)

 日本人の起源・旧石器時代
 この日本列島に「人」が棲み始めたのは、いつ頃だろうか?

 この列島は火山灰の影響で土壌が酸性化し骨の化石が残りにくいことから、人骨化石でもって、それを実証することはなかなか難しい。

 1948年、野尻湖畔の旅館の主人であった加藤松之助が、野尻湖底でナウマンゾウの臼歯(きゅうし)を発見した。このナウマンゾウはおよそ40万年前、中国大陸から日本に渡ってきたアジア象で約2万年前まで生息したことが知られている。

 ナウマンゾウやオオツノジカなどの黄土動物群など大型食用動物を追って、原人や旧人がこの日本列島にやって来ていたことは想像に難くない。

 また、樺太経由で北海道や東北地方まで、マンモスやヘラジカを求めて、北の狩人・マンモスハンターたちも来ていたであろうと考えられる。

 この時代を前期旧石器時代、或いは中期旧石器時代と呼ぶ。当時は大陸と陸続きだったので、自由に人や動物は行き来できたのである。
 
 日本人の二重構造モデル
 しかし、この時期の「人」は現代の日本人の祖先とは違う。私たち日本人の祖先は、いつどこからこの日本にやってきたのだろう?

 この問の答は、自然人類学の埴原和郎氏の「二重構造モデル」が最もポピュラーである。「二重構造」モデルとは何であろうか?

 日本人のルーツ(起源)がたどれるのは、後期旧石器文化がこの地に現れ始めた時代からである。この時期の日本人は、かって東南アジア(スンダランド)に棲んでいた古いタイプのアジア人集団−原アジア人−をルーツに持つ。

 沖縄本島の南端・具志頭村港川の採石場から、1968年、アマチュア研究者の大山盛保によって5〜9体分の人骨が発見された。日本で唯一と言っていい旧石器時代人(18,000年前)の完璧な人骨化石・港川人の発見である。

 埴原和郎氏は港川人は中国南部の柳江人やジャワのワジャク人 に似ているが、中国北部(河北省)の山頂洞人とはかなり違っている。従って港川人を初めとする日本の旧石器時代人のルーツは、中国南部から東南アジアにかけての地域という可能性が高いとし、とりわけ東南アジア島嶼部(スンダランド)ではないかとしている。                      
  閉鎖的縄文人
 旧石器時代人に続く縄文人も、骨の形からみると港川人やワジャク人の特徴を受け継いでいるので、縄文人の祖先も同じように、東南アジア系の集団だったと考えられる。

 その縄文人は1万年もの長期間に亘って日本列島に生活し、温暖な気候に育まれて独特な文化を熟成させた。

  大陸との交流は皆無ではなかったにせよ、縄文文化は一種の鎖国、閉鎖環境の中で熟成されたと考えられる。すなわち縄文人は1万年の間、混血など他の集団の影響を受けず、純粋な集団として小進化をしたとしている。

 気候が冷涼化するにつれて北東アジアの集団が南下し、渡来して来た。おそらくこの渡来は縄文末期から始まったが、弥生時代になって急に増加し以後7世紀までのほぼ1,000年にわたって続いた。

 この集団は、もともと縄文人と同じルーツをもつ集団だった。だが、東南アジアから北上し、且つ長い期間に亘って極端な寒冷地に住んだため「寒冷適応」をとげ、その祖先集団とは著しい違いを示すようになった典型的アジア人である、という。

 これで明らかなように、埴原氏はホモ・サピエンスは東南アジアに達した後、北上して北東アジア人が成立したとし、最近、定説化している、ヒマラヤの裏を通って北上した超初期
型のモンゴロイドの集団があったという説を認めていない。

 また、埴原氏の二重構造モデルで特徴的なのは、弥生時代の渡来人をかなり北方の民族としていることである。

 渡来した弥生人
 大陸からの移動人口は先住の縄文人の数をはるかに上回るほど多かった。その結果水稲耕作や金属器に代表される大陸の先進文化が流入し、採集・狩猟を中心とした縄文文化が一挙に農耕中心の弥生文化に変貌した。これは埴原の100万人渡来説として有名である。

 渡来集団はまず北部九州や本州の日本海沿岸に到着し小さなクニグニを作り始めた。更に彼らは東進して近畿地方に至り、数々の抗争を経て統一政府、つまり朝廷を樹立した。

 朝廷は積極的に大陸から学者や技術者などを導入したこともあって、近畿地方は渡来人の中心地となった。また土着の縄文人を同化するため北に南に遠征軍を派遣したり、地方に政府の出先機関を設置した。

 渡来系遺伝子はこのようにして近畿を中心に徐々に地方へ拡散した。したがって縄文系と渡来系との混血は近畿から離れるにつれて薄くなるという「遺伝子の流れ」を造った。

 上記の混血がほとんど、或いは僅かしか起こらなかった北海道と南西諸島に縄文人の特徴を濃厚に保持する集団が残ることになった。アイヌ人と沖縄の集団がそれであり、彼らがいろいろな形質や遺伝子などで共通するのも説明できる。

 以上が埴原和郎氏が考える日本人形成史の概要であり、日本人集団の主な構成要素を縄文系と渡来系の二つと考えることから「二重構造モデル」と名付けたと言う。(出典:日本人の起源HP)


参考HP 日本人の起源「最初の日本人の系譜 

骨―日本人の祖先はよみがえる
鈴木 尚
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日本人の骨とルーツ (角川ソフィア文庫)
埴原 和郎
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