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 ラザフォードの原子模型
 原子は、正の電荷を持つ原子核とその周りを回る負の電荷の電子から成り立っている。原子のこのような構造が明らかになったのは、20世紀の初頭。1906年、ラザフォードは薄い金属箔にα線を当てたときの散乱の研究を始め、彼の弟子であるガイガーとマースデンは、1909年、α粒子が金属箔によって2万回に1回の割合で後方に散乱されることを発見した。

 ラザフォードは、このα粒子の大角度散乱を金属箔の原子との1回の衝突(単一散乱の理論)によって説明し、10 cm程度の大きさの原子核の存在を結論した(1911年 原子核の発見)。

 ラザフォードが提案した原子の模型は、原子の中心にそのほとんど全部の質量を持つ正に帯電した原子核があり、その周りを負電荷の電子が回るというものである。

 この模型は、力学的には太陽の周りの惑星の運動のように電子の安定な軌道が許されるが、加速度運動により電磁波としてエネルギーを放出し、電磁理論とは矛盾する。すなわち、円形軌道を描いて運動する電子は、連続的にエネルギーを失い次第に原子核の方へらせん運動して落ち込み、安定な軌道をとることができないはずだった。

 ボーアの原子模型
 1913年、N.ボーアは、ラザフォードの原子模型にプランクのエネルギー量子とアインシュタインの光量子の考えを取り入れた原子模型を提案した。このボーアの原子模型は次の二つの仮説を基礎としている。

[仮説1] 原子は、連続的にあらゆる値のエネルギーを取りうるのではなく、原子に特有ないくつかのとびとびのエネルギーE1,E2,…だけをとることが許される。
この状態では原子は光の放射を行わない。この状態を定常状態、この可能なエネルギーの値En をその原子のエネルギー準位と名づける。
[仮説2] 原子が光の放出や吸収を行うのは、原子が一つの定常状態から他の定常状態へ遷移するときである。このとき、放出または吸収される光の振動数νは、

 hν=En−Em … (1)

 の関係を満たす。ここで、EmとEnは遷移する定常状態のエネルギー準位、定常状態間の遷移hはプランク定数である。 

 フランク・ヘルツの実験
 第1の仮説によると、原子を構成する電子が円形軌道を描いて加速度運動しても光を放出しないし、安定な定常状態をとることがことができる。第2の仮説によると、定常状態間の遷移にともなう光の振動数は、電子の周回運動の振動数とは何ら関係がない。これらの2つの仮説は、これまでに確立された力学や電磁気学の理論と鋭く矛盾し、原子を記述する現代物理学の新しい理論(量子力学)へと発展することになる。

 このボーアの原子模型は、当時未解決であった原子の発光スペクトルの規則性を説明するものであった。しかしこの模型の最も直接的な実験的証明は1914年にフランクとヘルツが行ったHg原子に電子を衝突させた実験である。

 光によるエネルギーのやりとりにおいては、発光スペクトルが固有の周波数をもつことから、原子が離散的なエネルギー状態をもつことを示しているが、電場で加速した電子で励起される気体原子も離散的なエネルギーが吸収されることを示した。

  加速電圧と電流値放電管に希薄な気体を入れ、中に3つの電極を設けて電位を調節することによって、加速電圧と、ゲートを通過した電子の量(電流)を測定した。電子の加速電圧(電子のエネルギー)が気体原子によって吸収される固有のエネルギーの大きさの整数倍になるときにエネルギーの吸収がおきる。電圧を変化させていくと、電流の大きさに周期的な減少(くぼみ)が現れることを示したのである。

 これはまさに、原子中の電子が、連続的にあらゆる値のエネルギーを取りうるのではなく、特有ないくつかのとびとびのエネルギーE1,E2,…だけをとることが許される...という、仮説を証明するものであった。

 ジェイムズ・フランクとグスタフ・ヘルツ
 ジェイムズ・フランク(1882年〜1964年)は、ドイツのユダヤ系物理学者。ハンブルクでユダヤ系ドイツ人の銀行家の家にうまれた。ハイデルベルク大学で化学を、ベルリン大学で物理を学んだ。

 グスタフ・ルートヴィヒ・ヘルツ(1887年〜1975年)は、ドイツの物理学者。ハンブルクに生まれた。周波数の単位“ヘルツ”で有名な、ハインリヒ・ヘルツの甥である。ゲッティンゲン大学、ミュンヘン大学、ベルリン大学で学んだ。

 2人はベルリン大学で出会い、1912年から1914年グスタフ・ヘルツとフランク=ヘルツの実験を行った。その結果、1925年、ノーベル物理学賞を受賞した。受賞理由は「原子と電子の衝突に関する研究」である。

 2人ともユダヤ系であり、1933年ナチスが政権をとると、ジェイムズ・フランクはアメリカに移った。その後、バルチモアのジョンズ・ホプキンス大学やシカゴ大学の教授になった。第2次大戦中はシカゴ大学でマンハッタン計画に協力した。1945年6月11日にグレン・シーボーグ、レオ・シラードらと核兵器の使用に反対するフランクレポートを発表した。

 一方、グスタフ・ヘルツは、ハレ大学物理学研究所長、ベルリン工科大学物理学研究所長、シャルロッテンブルク大学の実験物理学教授になったが、ユダヤ系の家系のため1935年には職を追われた。戦前、戦中はシーメンスの研究所長に就き、戦後の1945年から1954年までソビエト連邦の研究所で働き、スターリン賞も受賞した。その後ライプツィヒのカール・マルクス大学で1961年まで働いた。

 

参考HP Wikipedia「ジェイムズ・フランク」「グスタフ・ヘルツ」・滋賀県総合教育センター「フランク・ヘルツの実験

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