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 原子とは何だろう?
 原子とはそう、物質の最小単位として知られている粒子である。物質は原子やその集まりである分子でできているのは常識だ。ところが最先端の科学では原子の中にも内部構造があり、陽子・中性子が集まっていることが知られている。さらに陽子・中性子はクオークとレプトンが集まってできているということもよく知られている。

 現在ではあたりまえの存在として、原子・分子や陽子・中性子、クオーク・レプトンが語られる。日本の誇る2008年ノーベル物理学賞受賞者、小林先生・益川先生・南部先生らはクオーク・レプトンの研究で受賞している。しかし、最小単位が原子だったり、陽子・中性子だったり、クオーク・レプトンなどいくつもあっては最小単位とは呼べない。これはどういうわけなんだろうか?

 実は最小の単位というものが何であるかは、時代によって変わってきた。その時代に発見され、確実だと共通認識をもたれたものが、最小と呼ばれる単位なのだ。現時点ではクオーク・レプトンが最小の単位である。これにももっと小さい内部構造が発見されれば、最小ではなくなる。

 従って原子は、過去に物質最小の単位であったものであり、現在は最小の単位とは呼べず、物質の「中間構成単位」というのが正確な呼び方である。

 このように、物質の「中間構成単位」の原子は、現在ではあたりまえの存在であるが、この考えが公に認められたのは、なんと1926年、フランスのジャン・ペランがノーベル物理学賞を受賞したときであった。アインシュタインやボーアによる相対論や量子力学の登場の時代、原子説はまだ科学の世界で定説ではなかった。

 原子説が世界に認められるまでには、大変な論争があったことは今日あまり知られていない。今日は原子説確立までの歴史を調べたい。

 原子説の確立
 教科書に出てくる原子発見の科学史では、原子説が打ち立てられたのは19世紀初めのドルトンによるとされている。18世紀後半、ラヴォアジェによる質量保存の法則、ついでプルーストによる定比例の法則、それをうけて倍数比例の法則を見出したドルトンが原子説を提案したという流れがある。その後、ゲイ=リュサックによる気体反応の法則を手がかりにしてアボガドロが分子説を提唱していくという、一連の流れとして、原子と分子の発見の歴史が描かれている。

 さてそれでは、原子説の確認の研究に対してノーベル賞が与えられたのはいつのことだろうか? --- これはなんと1926年、フランスのジャン・ペランがその受賞者である。アインシュタインやボーアによる相対論や量子力学の登場の時代、原子説はなんとまだ科学の世界の定説としての確立をみていなかったのである。

 自然科学における発見や理論が定説として確立するというのはいったいどういうことだろうか?それは、他の研究による検証が行われるとともに、合理的な反論がもはや出尽くした状態とみなしてよいだろう。逆にいうと、有力な反論が存在する間は、まだ未確定であるといえる。原子説がほとんど疑いようがないと見られた後にも、胸を張って威張れるという状況に達するには大変な苦闘の歴史が必要であった。

 原子説の立証
 化学が飛躍的に発展した19世紀、原子はずっと仮想的な作業仮説としてしか存在を許されなかった。当時の測定技術からは、物質はなめらかで連続的な実体であって、なんらかの「粒」の存在を証拠立てる細かな不連続性は観察できなかった。化合物や溶液の分析から得られる状況証拠だけが、物質の中で原子の組替えがおきていることを示唆する手がかりであった。

 物理学の分野で最初に原子の存在を明瞭に意識して理論を組み立てていったのはボルツマンである。気体分子の運動を力学的に解析することで、熱力学と力学の橋渡しとなる統計力学の分野を開拓した巨人である。

 ところが原子論に基づく彼の提案は、当時の科学哲学において大きな力を持っていたのは、音速の単位で名を残すマッハと、1909年ノーベル化学賞を受賞したオストワルトによって真っ向から反撃され続けた。

 --- 物質が粒子からなることを出発点として演繹された理論がたまたま熱力学と整合性が取れていたからといって、物質の不連続性を証明するものではない。そもそも経験的に知覚できないものは実在していないのだ --- という極端な経験主義が彼らの立場であった。

 ボルツマンの理論をもとに、原子や分子の実在の証明に挑んだのがペランであった。彼は樹脂微粒子が分散した液を顕微鏡で観察するという手段を採用し、その沈殿平衡や拡散速度を調べるといった数々の実験手段を工夫してアボガドロ定数を決定した。ペランは実に13種類の異なった原理に基づく実験結果からほぼ同一のアボガドロ数が導かれることを示し、物質が不連続な粒子からなることを決定的に立証した。

 しかし、ボルツマンはペランによる自説の実験的証明を見ることはなかった。1906年10月、論争に疲れ果てたボルツマンは家族との休暇旅行先で自殺した。遺書は残されていなかった。実に真実の探求とは、厳しいものである。(京都女子大学 小波秀雄「原子の発見はいつだった?」)

 ブラウン運動とは?
 ブラウン運動(Brownian motion)とは、液体のような溶媒中(媒質としては気体、固体もあり得る)に浮遊する微粒子(例:コロイド)が、不規則(ランダム)に運動する現象である。1827年(1828年という記述もあり)、ロバート・ブラウンが、水の浸透圧で破裂した花粉から水中に流失し浮遊した微粒子を、顕微鏡下で観察中に発見した。

 長い間原因が不明のままであったが、アインシュタインは1905年にコロイドの濃度と粘性率の変化についての論文を博士論文として提出した。 さらにブラウン運動をコロイド粒子に分子が多数ランダムに衝突することによるゆらぎの過程として記述する理論を提唱した。 これらの理論により、液体の性質からアヴォガドロ定数を算出する方法が新たに導かれた。

 1908年にペランはこの新しい理論を詳細に検証し、アヴォガドロ定数を測定する実験を行なった。 それらの結果は従来の求められていた値とほぼ同じものであった。 こうしてやっと実際に分子が実在することがオストヴァルトらにも認められ、アヴォガドロの仮説は法則として認められることになったのである。

 ジャン・ペランとは? 
 ジャン・ペラン(Jean Baptiste Perrin、1870年〜1942年)はフランスの物理学者。父のフランシス・ペランも物理学者。ノール県リールに生まれて、パリの高等師範学校で学んだ。1890年代は陰極線の研究を行った。1908年から、ブラウン運動に関する精密な実験を行い、分子理論を実証した。1913年著書「原子」を出版した。

 「原子」のテーマはアボガドロの仮説をさまざまな方法で検証すること、すなわち原子の実在である。扱われる話題は、電気分解、分子運動論、ブラウン運動、黒体輻射、固体比熱、素電荷、原子核崩壊といった原子物理学ではお馴染みの話題ばかりであるが、ペランによって見事にひとつの結論「原子の実在」に集約されていく。なかでもブラウン運動に関しては著者の専門領域であった。

 1910年から1930年まで高等師範学校の教授である。1936年レオン・ブルーム内閣の科学研究担当国務次官になった。ドイツのフランス占領中はニューヨークに逃れ、ニューヨークで没した。1926年に、ノーベル物理学賞を受賞する。受賞理由は「物質の不連続的構造に関する研究、特に沈殿平衡についての発見 」である。

 

参考HP Wikipedia「ブラウン運動」「ジャン・ペラン」「アボガドロ数」・京都女子大学 小波秀雄「原子の発見はいつだった? 

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