被爆した米国人労働者

 2010年12月19日(日)NHK放送の「私たちは核兵器をつくった」は、衝撃的であった。 核兵器というと、日本は世界で唯一の被爆国であり、米国が広島・長崎に落とした原子爆弾によって、多くの日本人が被爆した。しかし、被爆したのは日本人だけでなかった。核兵器をつくった、米国の多くの労働者も被爆していたのである。

 米国の核兵器工場の労働者は約70万人。現在でも、核兵器はつくられており、新しい核施設建設計画もある。核兵器が地上からなくなるのはまだまだ先の話だ。番組では、最近解体された核兵器製造工場、コロラド州にあった「ロッキーフラッツ」を中心に、そこで働いた人々を取材した。その結果は驚くべきものであった。


Rocky Flats Plant

 昨年、2010年10月30日全米各地で、核兵器工場で働いた元労働者たちが集会を開いた。その目的は、がんになった体の治療費を政府に請求するためだ。政府は元労働者に、因果関係がハッキリしないとして治療費を拒み続けているのだ。工場がある間は守秘義務があり、何があったか語ることはできなかった元労働者達が、工場がなくなった今、どうしてがんを発症したか、その実態を語り始めた。

 「冷戦の英雄」と称えられた彼ら核兵器施設の労働者たちは、一体どんな人生を歩んできたのか。そして彼らはアメリカの核軍備をどう支えたのか……。

 温かい手の中のプロトニウム
 コロラド州のロッキーフラッツは1952年~1992年の40年間稼働した。そこでは6500人の労働者が働いていた。そこで副所長を務めた、ジャッキー・ウィーバーさんはロッキーフラッツがなくなった今、ロッキーフラッツの資料館をつくろうと資料を収集している。ここで、何があったか多くの人に知ってもらいたかったからだ。

 そこでは、まさに核兵器をつくっていた。核兵器の起爆装置をつくる部署では、グローブボックスという、手袋がついた箱の中でプルトニウムを手でさわり、コアと呼ばれる核兵器の中心部をつくっていたのだ。コアはベリリウム、ポロニウムをプルトニウムで包み、外部から圧力を加えることで核分裂の連鎖反応が起きる。そのそばに重水素化リチウムがあり、これに放射線が通過すると核融合反応が起きる。これが水爆で、大都市を1発で破壊できるという。手の中に握られた、核兵器は温かく熱を帯びていた。

 エンジニアだったケン・フリーバーグさんは語る。「当初、核兵器工場はプルトニウムの危険性がわかっていなかった。グローブボックスでは放射線の遮蔽設備がついていなかった。数年後に箱は放射線を遮蔽するものに変えられたが、手袋の部分はそのままで、多くの労働者が手や腕に被爆した。6年後にようやく鉛入りの手袋が設置された。」こうして、40年間で7万発の核兵器がつくられた。

 鳴り響く警報アラーム
 核兵器製造工場は、国防総省の原子力委員会が民間に委託してつくられていた。当時放射線の許容被爆量は、3ヶ月に3レムが国際基準であったが、ロッキーフラッツの許容量は6倍の18レム。しかし、工場では放射線の許容範囲を超えたことを示す、警報アラームがいつも鳴り響いた。それでも、ロッキーフラッツでは作業継続、労働者を短期間で配置転換するなどしてしのいでいた。

 1960年代は核兵器量産時代。ソ連や中国に対抗するために、米国は核兵器を作り続けた時代であった。核兵器工場で働く人達も後方の兵士の一員として、国を思い、放射線の被爆におびえながらも核兵器を作り続けるのであった。

 「放射線許容被爆量を知りたい。」原子力委員会は全米から科学者、医師を集め調査に乗り出した。始めはビーグル犬を使った動物実験で調査が行われたが、これには限界がある。最終的には人体への影響は、人体でないとわからない。原子力委員会が出した結論は恐ろしいものであった。ロッキーフラッツの現場を調査したらどうか?かくして、人体実験の場に医師や科学者が集められた。

 極秘の人体実験場
 ロバート・バイスラン博士は現場で2000~3000人の被爆者を見た。彼らの体内にあるプルトニウムの量を正確に知ることができた。1957年から現場の事故で負傷した人の数1707人、汚染事故の起きた回数462件にものぼる。これだけの事故が起きながら、外部には一切情報が漏れなかったのはなぜだろう?

 1982年から22年間働いたジュディ・パディーラさんは女性労働者第一号としてここで働いた。会社との契約時に「ここで起きた事故は一切話してはいけない」と何度も念を押された。この守秘義務に違反すれば、即解雇されるか、場合によってはスパイ容疑で刑務所に入れられる。現在、乳ガンを発症している彼女は、ロッキーフラッツがなくなった今、「未来の世代が心配です。亡くなった人達の代わりに話したい」と語った。

 臨界事故発生デンバーが危ない! 
 ロッキーフラッツがなくなった今、守秘義務がなくなり、内部資料も公開できるようになった。その中に第一級の内部資料が公開された。1969年6月重大な臨界事故が起きた。元副所長だったジャック・ウィーバーさんは語る。その日、起爆装置をつくる776ビルで突然プルトニウムが発火した。大量生産を目的とした、ブローブボックスの連結、密集状態が問題だった。数百㎏もあるプルトニウムは熱をおび、次々に発火した。消防隊員が消火剤をまいても歯が立たなかった。

 工場内はプルトニウムを含む煤煙で満たされた、このまま屋根が落ちれば、外部にもプルトニウムをまき散らすことになる。近くには人工100万人の大都市デンバーがある。水で消火することは危険を伴った。なぜなら、プルトニウムに水をかけると核分裂の連鎖反応が起きやすくなるからだ。しかし、消防隊長はぎりぎりの決断で、水で消火することを決断した。その結果、英断だったのか、単に運がよかったのか分からないが、鎮火した。この事故でさらに多数の労働者が被爆する。

 終わらない核兵器開発
 アメリカ・オバマ政権は大型公共事業リカバリーアクトを打ち出し、老朽化した核兵器関連施設の閉鎖と放射能汚染の除去を始めた。核大国・アメリカはこれまで全米に300の核兵器関連施設を建設してきた。このうち、21ヶ所の廃止、解体を決定した。それらの整理が始まる中で、これまでアメリカを支えてきた、核兵器施設の労働者たちが口を開き始めている。

65年前に、ロスアラモスで核が開発され、あっという間に世界に広がった核開発。老朽化した古い核施設は、取り壊されたが、すぐ隣に新しい核施設がつくられた。2010年9月にはそこで、新たに臨界前核実験が実施された。取り壊された核兵器製造施設の跡地では、今も残る放射性廃棄物の影響で高レベルの放射線が計測され、立ち入り禁止となっている。人類は、まだ核兵器を盾にした、不安定な国際秩序の中にいる。


参考HP NHKスペシャル「私たちは核兵器をつくった

私が見た北朝鮮核工場の真実
金 大虎
徳間書店
日経サイエンス 2008年 02月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
日経サイエンス

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