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 チェルノブイリ原発事故から25年
 旧ソ連(現ウクライナ)チェルノブイリ原子力発電所で起きた爆発事故から25年を迎えた4月26日、各地で犠牲者の追悼行事が開かれた。 同原発前で開かれた式典に出席したロシアのメドベージェフ大統領は、主要国や近隣諸国に対し、原発の安全性向上に関する新たな協定の締結に向けてともに取り組むよう提案した。(毎日新聞 2011年4月27日)

 経済産業省原子力安全・保安院は4月12日、東京電力・福島第一原子力発電所の事故に関する深刻度を示す「国際原子力事象評価尺度(INES)」の暫定評価を最悪の「レベル7(深刻な事故)」に引き上げた。「レベル7」の事例は、他には1989年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故しかない。しかし、その被害の実態はどうなのだろう?

 ソ連政府の発表によるチェルノブイリ原発事故の死者数は、運転員・消防士合わせてわずか33名。だが、原子力を規制・奨励する国際機関である、国際原子力機関(IAEA)は死者数を約4千人とホームページで発表している。ところが今年発表された、ジャネット・シェルマン博士著「チェルノブイリ~大惨事の環境と人々へのその後の影響」に発表されている数字は何と98万5千人。話題を呼んでいる。 
 
Chernobyl_reactor

 ようやく明かされる真実
 IAEAが発表したチェルノブイリフォーラムという調査書は、350の論文に基づき英文で公開されている資料だが、共著者ヤブロコフ博士とネステレンコ博士たちは5千以上の論文を基にしている。それは英文の論文に限らなかった。また実際に現場にいた人達の声を基にしている。現場にいたのは医師、科学者、獣医師、保健師など地域の人々の病状を見ていた人たちである。

 この本によると、世界保健機構(WHO)でさえチェルノブイリの真実を語っていないと批判している。WHOはIAEAと協定を結んでおり、発表することができない。1959年に結ばれた協定は、それ以来変わっていない。一方がもう一方の承諾を得ることなしに、調査書を発表することを禁じている。WHOはIAEAの許可なしには調査書を発表できないという。この本の一部を引用してみよう。 

 「チェルノブイリの真実を語るこの本は、権威ある、NY科学学会による発行です」、「原子力の御用学者たちは 隠し通せると思っていた」、「事故直後の3年間、ソ連政府は情報の隠ぺいを続けました。一般に真実を知らせまいと データ収集もしませんでした。ヤブロコフ博士はそれを知り、情報収集を始めました。世に出た文献の数は15万以上でしたが、この本の執筆には5千点が使われました。これら5千点の資料は英語に訳されたことの無い、ウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語の文献でした。こうした情報が西側世界の目に触れるのは初めてです」

 チェルノブイリの元作業員
 ベリヤコフさんが1986年にチェルノブイリ原発で作業していた当時の、原発30キロ圏内への入境許可証は、常時携行したため、放射線の影響で顔写真が白くぼけている。

 「私たちはチェルノブイリで、地獄の門へと駆け上がった。誰もが恐怖で体が震えていた」。旧ソ連・ウクライナのチェルノブイリ原発事故が発生してから、4月26日で満25年を迎えた。事故後の原発施設内で、事態収拾のため、がれき除去などに携わった元作業員の科学者が当時を振り返った。

 事故後のチェルノブイリでは、原子炉建屋の屋根部分が最も放射線量が高いとされた。セルゲイ・ベリヤコフさん(55)はその屋上に、計6回のぼった。ウクライナで有機化学を専門とする大学の助教授だった。軍の予備役でもあり、核防護についても研究していたため、1986年7月31日から40日間、当時のソ連軍化学防護旅団に、志願して加わった。

 原発から30キロ圏内に滞在し、爆発した4号炉などの原発施設内に、計23回入った。階段を上下し、放射能で汚染された金属やアスファルトを手で持って運び出した。リーダー格だった。その間、ずっと身につけていた原発30キロ圏内への入境許可証を、ベリヤコフさんは今も持っている。放射線の影響で顔写真が白く退色している。だが、恐怖の記憶は色あせていない。(asahi.com 2011年4月27日 塚本和人)

 チェルノブイリ原発事故
 チェルノブイリ原子力発電所事故とは、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 )にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深刻な事故)の参考事例として知られている。 4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染した。

 事故後のソ連政府の対応の遅れも相まって被害が拡大・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。 現在は分離独立したウクライナに処理義務がある。現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業が全面的に禁止されている。

 事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、原子炉が止まった場合を想定した実験を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。これに関しては、広島市に投下された原子爆弾(リトルボーイ)による放出量の約400倍とする国際原子力機関 (IAEA) による記録が残されている。

 隠された真実
 当初、ソ連政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を公表しなかった。また、付近住民の避難措置なども取られなかったため、彼らは甚大な量の放射線をまともに浴びることになった。しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソ連も事故の公表に踏み切った(当初、フォルスマルク原発の技術者は「核戦争」が起こったと考えた)。日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。

 爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連当局は応急措置として次の2点を実行した。

1.減速材として炉心内へ鉛の大量投入。
2.液体窒素を投入して周囲から冷却、炉心温度を低下させる。

 この策が功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺と呼ばれている。(Wikipedia) 

参考HP Wikipedia チェルノブイリ原子力発電所事故 阿修羅 チェルノブイリ・百万人の犠牲者 

チェルノブイリの真実
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講談社

チェルノブイリからの伝言―NGO活動10年の軌跡と21世紀への展望
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オフィスエム

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