祖国のために生きた物理学者
1932年、第32回ノーベル物理学賞の受賞者はドイツの物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルクである。舞台は、第一次世界大戦後のドイツだ。ナチスの台頭があり、多くの物理学者がドイツを離れる中、最後まで祖国の物理学のためにはたらいた人であった。
ドイツの歴史を振り返ると、1918年のドイツ革命の結果、皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、オランダに亡命した。社会民主党エーベルトを首相とする臨時政府が成立した。11月11日、ドイツは連合国との休戦条約に調印し、第一次世界大戦が終結した。
第一次大戦の敗北後、1919年1月より戦勝国によるパリ講和会議が開かれ、同年6月ヴェルサイユ条約が結ばれた。ドイツは全植民地を失い、さらに石炭や鉄の主要な産地も失った。賠償金は1921年のロンドン会議で1320億金マルクと決められた。敗戦国ドイツにとって、賠償金の支払いはとうてい不可能であった。
さらに1929年の世界恐慌の影響で深刻な不況と大量失業者を出したことによって、ドイツ経済は2度破綻した。その結果、中産階級の財産は失われた。社会が混乱を深める中、ヒトラー率いるナチス党が支持を広げていく。ヒトラーは1933年に政権を取り、公共事業や軍事施設の拡大により、ドイツ経済は復活する。
ヴェルナー・ハイゼンベルグ
ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(1901年~1976年)は、ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。
ハイゼンベルグは、1901年ドイツ南部バイエルン州(生誕当時はバイエルン王国)ヴュルツブルクの、中産階級の家庭に生まれた。多感な青年時代、ドイツ革命があり、経済破綻する祖国を見て、愛国心から、国を憂えたことは、想像に難くない。
ミュンヘン大学のアルノルト・ゾンマーフェルトに学び、マックス・ボルンの下で助手を務めた後、1924年にコペンハーゲンのニールス・ボーアの下に留学。ボルンとパスカル・ヨルダンの協力を得ながら、1925年に行列力学(マトリックス力学)をまためた。
1926年コペンハーゲン大学講師になり、水素分子(H2)がオルト水素とパラ水素の2状態で存在することを予想(2つの原子のスピンが揃うか逆向きかという違い)。1929年に実際に確かめられた。
1927年に不確定性原理を導いて、量子力学の確立に大きく寄与した。これらの功績で、1932年に31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞する。受賞理由は「量子力学の創始ならびにオルト、パラ水素の発見」であった。
その後、母国ドイツではナチス・ドイツの台頭で同僚の多くがドイツを去ったが、ハイゼンベルクは残り、場の量子論や原子核の理論の研究を進めた。ナチ党党員ではなかったものの、第二次世界大戦中は原爆開発に関わったとされる。イギリスのベルリン空爆では、家を失ったが、さいわい家族に犠牲はなかった。
終戦後は他の開発者と共にイギリス情報局秘密情報部の手でイギリスのファーム・ホールに軟禁され、広島・長崎の原爆投下のニュースもそこで聞いた。それを聞いたハイゼンベルクは、そんなことは不可能だと驚いたという。戦後は、1946年から1970年までマックス・プランク物理学研究所の所長を務めた。
不確定性原理とは?
原子や素粒子などの微視的世界の粒子の位置と運動量を測定すると、粒子の状態が同じであってもこれらの物理量の測定値は一般にばらつく。この場合ばらつきの大きさの間には定まった関係がある。この関係を原理のようにみなしたとき、この関係を不確定性原理という。ドイツのハイゼンベルクが1927年にみいだしたものである。 電子とは何かを知ろうと思えば、最終的には「観測」という手段に頼らなければならない。平たく言えば、電子の「位置」や「運動の勢い」などを人間の目で確認すると言うことだ。
しかし、電子は肉眼では見えないから、なにか間接的な方法で観測するしかない。では、電子にある種の電磁波を当てて、その位置と運動の勢い(運動量=物体の重さ×速さ:p=mv)を測ってみよう。
まず、電子の位置を測定するためには、ガンマ線など波長の短い電磁波を当てる。すると、電子にぶつかった電磁波は、ある方向に跳ね返ってくるので、その方向から電子の位置がわかる。ところが、波長の短い光(ガンマ線)はエネルギーが強いため、電子のほうも飛ばされてしまう。その時、電子がどこへ飛んでいったかまではわからない。つまり、運動量が測定によって変化したせいで、しっかり測れなくなる。
ならば、電子の運動量に影響しないように配慮して、エネルギーの弱い電磁波、つまり長い波長の電磁波を当てる。すると今度は、運動量はよくわかるが、弱いエネルギーの電磁波は電子にちゃんとぶつからないため、位置がはっきりしなくなる。
ミクロの世界では、このように対象となるモノの位置や運動量を同時に正確に計ることはことができない。なぜなら、測定という行為自体が電子の状態に影響を与えてしまうからだ。この結果は、どんなに測定方法や計測機器などを精密にしても同じになる。
これがハイゼンベルクの唱えた「不確定性原理」である。そしてこの不確定性原理は、量子論の基本となる考え方であり、また量子論が到達した結論のひとつだ。
不確定性原理の式
もう少し、ハイゼンベルクの不確定性原理を詳しく見ていこう。実は、これには下のような式がある。
位置と運動量の関係 Δx Δp = h
(Δx:位置の不確かさの幅 Δp:運動量の不確かさの幅 hは“プランク定数(6.626×10-34ジュール・秒)”)
位置xにΔ(ギリシャ語のデルタ)がついたものは、電子がある位置に存在している不確かさを意味する。言いかえると、電子が、どこにいるかは微妙な誤差があり、その幅がデルタで表される。同じように電子の運動量についても、微妙な誤差の幅を考えてΔpと表される。
そして、このΔxとΔpをかけ合わせると、必ずプランク定数よりも大きくなる。つまり、どんなに測定の精度を高めても、そこには必ずh程度の誤差が生まれるというわけだ。このプランク定数hは非常に小さな数値で、私たちの住むマクロの世界では、ほとんど影響がない。しかし、これがミクロの世界となると、大きく影響してしまう。
以上のように不確定性原理に従うと、ミクロの世界を正確に測定するのは、不可能なことが分かる。ただし、何もかも分からなくなるのではなく、一方を確定すると他方が不確定の「反比例」の関係になるのだ。(図解雑学 量子論 佐藤勝彦監修 ナツメ社より)
素粒子の世界は、我々の世界(マクロ)の法則が当てはまらない不思議な世界だが、ミクロの法則があり、不確定性原理の式「Δx Δp = h」という、簡単な式で表したところにハイゼンベルグの偉大さがある。
オルト・パラ水素とは?
水素分子は、それぞれの原子核(プロトン)の核スピンの配向により、オルト(オルソ、ortho)とパラ (para) の2種類の異性体が存在する。
オルト水素は、互いの原子核のスピンの向きが平行で、パラ水素ではスピンの向きが反平行である。この2つは、化学的性質に違いがないが、物理的性質(比熱や熱伝導率など)がかなり異なる。これは内部エネルギーにある差によるもので、パラ水素側が低い。
統計的な重みが大きいほうをオルトと呼ぶ。 常温以上では、オルト水素とパラ水素の存在比はおよそ 3:1 である。低温になるほどパラ水素の存在比が増し、絶対零度付近ではほぼ 100% パラ水素となる。オルト‐パラ変換を起こす触媒は、活性炭や鉄などの金属の一部、常磁性物質またはイオンなどがある。(Wikipedia)
参考HP Wikipedia ヴェルナー・ハイゼンベルク アインシュタインの科学と生涯 ハイゼンベルグの不確定性原理 連山 第一次大戦後のドイツは2度経済破綻した サイエンスチャンネル 偉人たちの夢(67)ハイゼンベルク
![]() | 部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話 |
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![]() | 不確定性―ハイゼンベルクの科学と生涯 |
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