ジェームズ・チャドウィック
第35回ノーベル物理学賞は、ジェームズ・チャドウィック(Sir James Chadwick, 1891年~1974年)である。チャドウィックはイギリスの物理学者。中性子の発見で1935年にノーベル物理学賞を受賞した。他にヒューズメダル(1932年)、コプリ・メダル(1950年)、フランクリン・メダル(1951年)などを受賞している。
チャドウィックはチェシャーのボウリントンで生まれた。マンチェスター大学、ケンブリッジ大学で物理を勉強した後、1914年、ベルリンのベルリン工科大学においてハンス・ガイガーのもとで研究した。大戦後ケンブリッジに戻り、アーネスト・ラザフォードと、放射性物質からのガンマ線の放射、α線照射による元素の変化、原子核の研究を行い、1932年に中性子を発見した。
中性子発見については、フランスのイレーヌ・キュリーとフレデリック・ジョリオ夫妻と、成果を競うことになった。キュリー夫妻が、1932年の論文で、これを「γ線」だと考えたのに対し、ラザフォードとチャドウィックは「γ線」ではないと考えた。チャドウィックが行った一連の実験で、この新しい放射は陽子と等しい質量を持ち、かつ電荷を持たない粒子によりなされるという事実を示した。
帯電したヘリウム原子核であるα線粒子に比べて、電気的な斥力をうけない中性子はよりウランなどの重い元素の原子核に作用して核分裂をおこさせることができる。やがて、この研究は核兵器の製造につながることになるが、当時のチャドウィックには思いもよらないことであった。しかし、チャドウィックをはじめ、多くの核物理学者達は、後に米国で行われた、原子爆弾製造の“マンハッタン計画”に力を貸してしまうのは残念な事である。
中性子発見のエピソード
ジェームズ・チャドウィック(1891~1974)は貧しい家庭に育ち、1908年にマンチェスター大学に入学を許可されたが、毎日家から6.4キロの道を歩いて大学に通っていたので、大学の仲間同士の集まりや、課外活動に参加することは不可能だった。おまけに、彼はあまりに内気すぎたので、大学の事務手続きの間違いで、彼が申し込んだ数学ではなく、物理学のコースに入れられても指摘することができなかった。しかし、物理学は彼と相性がよかったらしく、彼はハンス・ガイガーと研究するためベルリンに旅立った。
しかし、そこで第一次大戦が勃発し、チャドウィックは敵性外国人として捕虜収容所に入れられた。収容所での生活はかなり厳しく、馬小屋同然の部屋で、食料もほとんどなく、冬の寒さで死にかけたこともあった。それでも手に入れられるだけの本と道具をかき集めて簡単な実験を行っていた。
戦争が終わると、ラザフォードは彼にマンチェスター大学の職を与え、ラザフォードがケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の所長になるとき、チャドウィックを副所長として迎えた。
1930年にドイツのW・ボーテとH・ベッカーは、放射性の強いポロニウムから発せられるアルファ線をいくつかの軽い元素に当てた際に、ベリリウム、ホウ素、リチウムからは特に強い透過力をもった放射線が放出されることを発見した。(ベリリウム線)
最初はこの放射線はガンマ放射であると考えられていたが、これはそれまでに知られていたどんなガンマ線よりも透過力が強く、実験結果はガンマ線説とは非常に異なっていた。
1932年に次の重要な発見が、パリでイレーヌ・ジョリオ=キュリーと夫のフレデリック・ジョリオ=キュリーによって報告された。彼らはこの謎の放射線がパラフィン もしくは他の水素を含んだ化合物に当たると非常に高エネルギーで「陽子」をはじき出すことを発見した。
この頃、チャドウィックとラザフォードは、陽子と同じほどの質量を持つ何かが原子核の中にあることに気づいていた。チャドウィックの実験では、放射線が標的にぶつかったとき、アルファ線ともベータ線とも違う得体の知れぬ放射線が出てくる。
「その放射線が陽子と同じくらいの質量をもつ粒子でできているとしたら、衝突に関わる難問はすべて消えてしまう」と、彼は書いている。チャドウィックは、この問題を解決するため、必死にもがき苦しんだ。「口にできない馬鹿な実験をいくつもやった」と彼は書いている。
1932年3月、彼はベリリウムの標的にアルファ粒子をぶつけて出る放射線を調べることができた。その放射線は電荷を持たず、質量は陽子と同じほどで、信じられないことに、鉛まで貫通するほどの透過力を持っていた。彼はついに中性子を発見したのだ。
同じ頃、キャベンディッシュで研究員だった、C.P.スノーは、「彼は三週間ほど昼夜を問わず研究していた」と書いている。チャドウィックは、同僚たちに発見の報告をすると、「すまないがクロロフォルムをかがせて二週間ほど眠らせてくれ」と頼んだという。
中性子とは何か?
中性子(neutron)は、バリオン(元素を構成する素粒子)の一種。原子核の構成要素の一つ。陽子1個でできている水素の最も一般的な同位体1Hを唯一の例外として、すべての原子の原子核は、陽子と中性子だけから構成されている。陽子と中性子を核子と呼ぶ。
原子核の外ではわずかな例外を除いて中性子は不安定であり、陽子と電子および反電子ニュートリノに崩壊する。平均寿命は886.7±1.9秒(約15分)、半減期は約10分。
同様な崩壊(ベータ崩壊)が何種類かの原子核においても起こる。核内の粒子(核子)は、中性子と陽子の間の共鳴状態であり、中性子と陽子は互いにパイ中間子を放出・吸収して移り変わっている。中性子はバリオンの一種であり、ヴァレンス・クォーク模型の見方をとれば、2個のダウンクォークと1個のアップクォークで構成されている。
中性子の最大の特徴は、電荷が0であるということである。電荷を持たないため直接観測することが難しく、中性子の発見は電子や陽子と比べて遅れた。電磁気力の影響を受けないため、中性子線は透過性が高く原子核の核種変換に使う物質として重要である。通常の状態では荷電していない原子は中性子と同じようには利用できない。なぜならば、原子は中性子よりも約1万倍も大きく、正電荷を持つ原子核の周りに負電荷を持つ電子が広く分布しているという系になっているためである。
荷電粒子(陽子、電子やアルファ粒子など)や(ガンマ線のような)電磁波は、物質中を通過する際にエネルギーを失う。電磁気力によって通過する物質の原子をイオン化するためである。イオン化に費やされたエネルギーはすなわち、荷電粒子の失ったエネルギーであり、その結果、荷電粒子は減速し、ガンマ線は吸収される。しかし、中性子は、そのような過程でエネルギーを失わない。
中性子と原子との相互作用は、非常に短距離でのみ働く核力によるものがほぼすべてである。核力の到達範囲は中性子の直径と同程度しかない。従って、物質中を移動する自由な中性子は、原子核と「正面」衝突するまで直進する。原子核の断面積は非常に小さいため衝突はまれにしか起こらず、中性子は衝突までに長い行程を飛ぶことになる。生成した中性子が他の原子核と衝突するまで移動する距離を平均自由行程 (mean freepath) という指標で表す。空気中で220m、軽水の場合は0.17cm、重水では1.54cm、ウランでは0.035cmである。
弾性衝突を起こすような場合、運動量保存則に従い、ビリヤードのボールが互いに衝突するようにふるまう。もし衝突された核が重い場合は核の加速は比較的少ない。中性子とほぼ等しい質量をもつ陽子(水素原子)と衝突した場合、陽子はもともとの中性子が持っていた運動量のほとんどを受け取りはじき出される。一方中性子はほとんどの運動量を失う。この衝突の結果生じる二次的に放射された粒子が電荷を持っている場合、電離作用があるため検知することが可能である。
電気的に中性であるため、観測だけでなく中性子を制御するのも難しい。荷電粒子に対しては電磁場によって加速、減速、軌道修正が可能であるが、中性子には使えない。さらに、自由な中性子は核分裂反応からのみ得られ、自然界には存在しない。
自由中性子を制御し、減速、進路の変更、吸収などの結果を得るには進路に原子核を配置するしかない。このことは平均自由行程と併せて原子炉や核兵器を設計する際、非常に重要である。(Wikipedia)
参考HP Wikipedia ジェームズ・チャドウィック 中性子 科学と技術の諸相 原子核物理学
新版 電子と原子核の発見 20世紀物理学を築いた人々 (ちくま学芸文庫) | |
スティーブン・ワインバーグ | |
筑摩書房 |
電子と原子核の発見―20世紀物理学を築いた人々 | |
スティーブン・ワインバーグ | |
日経サイエンス |
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