多くの命を救った“ペニシリン”
ペニシリンというと世界初の抗生物質であり、その発見は、20世紀の偉大な発見の1つにあげられている。
肺炎や梅毒、咽頭炎、副鼻腔炎、中耳炎など、多くの細菌感染症に有効で、細菌の分裂を阻害するはたらきがある。
現在、日本国内においては主力抗菌剤の座をセファロスポリン系抗生物質やニューキノロンに明け渡した感があるが、ペニシリンの発見はこれらの抗菌剤が開発される礎を築いたものであり、第二次世界大戦では多くの傷兵の命を感染症から救った。
フレミング、フローリー、チェインらの発見者の功績は1945年ノーベル医学・生理学賞の受賞で讃えられている。
最初の発見は1929年、フレミングがブドウ球菌の培養実験中に抗菌効果のあるアオカビ(Penicillium notatum、現在はP. chrysogenum)を発見した。フレミングはアオカビが産生する物質を、アオカビの学名にちなんでペニシリンと名付けた。
その後、1940年にH.W.フローリー(Howard Walter Florey)とE.B. チェイン(E.B. Chain)がペニシリンの単離に成功した。翌1941年には実際臨床でその抗菌剤としての効果を確認した。
1942年にベンジルペニシリン(ペニシリンG、PCG)が単離されて実用化され、第二次世界大戦中に多くの負傷兵や戦傷者を感染症から救った。以降、種々の誘導体(ペニシリン系抗生物質)が開発され、医療現場に提供されてきた。
日本では、1943年にドイツの医学雑誌から存在を知った陸軍軍医学校で開発が始まり、翌1944年に少量ながら生産に成功。「碧素(へきそ)」と名付けられ、数人の患者に投与されて実績を挙げたが、大量生産には至らないまま終戦を迎えた。
本格的に実用化されたのは終戦後、1946年からテキサス大学のジャクソン・フォスター教授の指導の元に日本の製薬会社各社が生産を開始し、翌1947年から病院を通して日本中へと広まった。その結果、日本では抗生物質の開発及び生産が著しく増大し、感染症の治療法が普及し、乳児から高齢者までの全ての年齢層で感染症による死亡率が著しく減少し、平均寿命の上昇に大きな影響をもたらした。
発見から実用化されるまでに、10年以上の歳月を要したペニシリン。そこにどんなドラマがあったのだろうか?
サー・アレクサンダー・フレミング
サー・アレクサンダー・フレミング(Sir Alexander Fleming, 1881年8月6日~1955年3月11日)はイギリスの細菌学者である。抗菌物質リゾチーム(lysozyme)と、アオカビ(Penicillium notatum)から見出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。クライズデール銀行が発行する5ポンド紙幣に肖像が使用されている。
フレミングは、スコットランドのエアシャー地方、ロッホフィールド(Lochfield)の農場で生まれ、そしてキルマーノック(Kilmarnock)のリージェント工芸学校で2年間教育を受けた。彼は、商船会社に4年間勤めた後に、1906年ロンドン大学セント・メアリーズ病院医学校を卒業する。
医学校卒業後、セント・メアリーズ病院の接種部に、A・E・ライトの助手として入った。この年に医学博士になっている。その後は第一次世界大戦で同病院が破壊されるまで、同医学校に所属した。1914年召集され、第一次世界大戦の間、彼は多くの同僚とともにフランスの戦場病院に参加した。
ブローニュのイギリス陸軍病院の細菌研究施設で研究に従事した。戦場の死にかけている軍人が罹患するガス壊疽などの恐ろしい感染症と直面した経験により、戦後、セント・メアリーズ病院医学校に復帰した彼は、感染症治療を改善する薬剤の探索に情熱を傾け始めた。
偶然だった?リゾチーム・ペニシリンの発見
フレミングはリゾチームとペニシリンという、抗菌性を有する2つの物質をいずれも1920年代に発見したが、どちらも全くの偶然から見出した発見(セレンディピティ)であると伝えられている。
リゾチームは動物の唾液や卵白などに含まれている殺菌作用を持つ酵素であるが、これは細菌を塗抹したペトリ皿に、フレミングがクシャミをしたことで発見された。
数日後、クシャミの粘液が落ちた場所の細菌のコロニーが破壊されているのを発見したことが、彼の実験ノートに書きとめられている。1921年、リゾティームの発見である。なお、リゾチームには感染症を治癒させる力はなかったが、現在では食品添加物や医薬品として用いられている。
世界最初の抗生物質として有名なペニシリンもまた偶然から見つかった。フレミングの実験室はいつも雑然としていて、その事が彼の発見のきっかけになったようである。それは1928年に、彼が実験室に散乱していた片手間の実験結果を整理していた時のことである。廃棄する前に培地を観察した彼は、黄色ブドウ球菌が一面に生えた培地にコンタミネーションしているカビのコロニーに気付いた。
ペトリ皿上の細菌のコロニーがカビの周囲だけが透明で、細菌の生育が阻止されていることを見つけ出した。このことにヒントを得て、彼はアオカビを液体培地に培養し、その培養液をろ過したろ液に、この抗菌物質が含まれていることを見出し、アオカビの属名であるPenicilliumにちなんで、"ペニシリン"と名付けた。フレミングはこの新発見の重要性を認識し、1929年6月号のBritish Journal of Experimental Pathology誌でペニシリンに関する報文を発表した。
引き続いてフレミングは、ペニシリンを実用化するための基礎研究に取りかかった。彼はペニシリンを実用化するためには二つの課題があることを直感的に悟っていた。一つは十分な量を確保できるようにすること、もう一つは彼が発見したペニシリンは効き目が現れるのに時間がかかったため、より効果的なものに改良することである。
ペニシリンの再発見・精製・大量生産
これらの課題を克服するには、アオカビの培養液から活性本体だけを取り出す、すなわちペニシリンを精製する必要があった。しかし、それは細菌学者であった彼よりもむしろ化学者が得意とする分野の仕事であったため、思うようにははかどらなかった。その上、彼のペニシリンの最初の報文が当時の医学関係者に受け入れられなかったことも、研究の進展を妨げた。
結局フレミング自身はペニシリンの精製には成功しなかった。しかし、ペニシリンが発見されてから既に十年が経った1940年、彼の報文を読んだ二人の科学者、オーストリア人のハワード・フローリーとオックスフォードのグループを指揮していたエルンスト・ボリス・チェーンがペニシリンを精製し効果的な製剤にする方法の開発に成功した。
彼らの研究により、第二次世界大戦中には、ペニシリンは薬剤として大量生産できるようになり、ペニシリン発見の真の価値が改めて再認識されることになった(「ペニシリンの再発見」とも呼ばれる)。しかし、この頃はペニシリンの製造は、まだ軍の特権であって、1945年の戦後になってから民間人にいきわたるようになった。
この「再発見」がきっかけとなって、フレミングは1944年にペニシリン発見の業績によりナイトに叙せられた。また、1945年にはフレミング、フローリーおよびチェーンはノーベル医学生理学賞を共同受賞することになった。フローリーは後年、ペニシリンが大衆に利用されるようになり、第二次世界大戦の多くの兵士を救命した業績により、爵位を受けた。また、1951年からエディンバラ大学の学長を務めた。その後、1955年3月11日に亡くなるまで旅をした。
1955年フレミングはロンドンの自宅で心臓発作により死去した。彼は国家の英雄としてロンドンのセント・ポール大聖堂に埋葬された。彼のペニシリンの発見は近代医薬を変革させ、有効な抗生物質の時代をもたらした。
エルンスト・ボリス・チェーン
エルンスト・ボリス・チェーン(Ernst Boris Chain、1906年6月19日~1979年8月12日)はドイツ生まれのイギリスの生化学者。ペニシリンに関する研究で、1945年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
チェーンはロシアからの留学生の父とドイツ人の母との間に、ベルリンで生まれた。1930年にベルリン大学で化学の学位を取った。しかしナチスが政権を握ると、ユダヤ人の血を引く彼はドイツでは安全に暮らせないと考え、1933年にイングランドに移住した。
彼はケンブリッジ大学のフレデリック・ホプキンズの元でリン脂質の研究を始めた。1935年にはオックスフォード大学の病理学の講師となった。この頃彼は、ヘビ毒、ガン細胞の代謝、リゾチームなど生化学分野の様々なテーマに取り組んだ。
この年、フレミングの24年の研究の追試を行った。そして、涙、鼻水、卵白が殺菌効果を持つのはこれらに酵素が含まれていて、これが細菌の外壁に溶解作用を及ぼすことを発見、翌36年この酵素リゾチームの精製に成功。
37年フレミングによるアオカビの抗菌作用の研究を次の研究対象に取り上げることにした。翌38年フローリーとともに抗菌物質の抽出実験を開始。初めにペニシリンの培養液が持つ抗菌作用を相対的に決定する方法を案出。
この過程で、彼らは9年前にペニシリンを発見していたアレクサンダー・フレミングの研究を再発見した。チェーンとフローリーはペニシリンの治療効果と化学組成を明らかにした。またチェーンはペニシリンの純粋分離と濃縮の研究も行い、構造を予測した。この構造は、後にドロシー・ホジキンによるX線結晶構造解析で確かめられた。この研究によって、チェーン、フローリー、フレミングの3人は1945年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
第二次世界大戦後
終戦を迎えると、彼は自分の母親と姉妹が亡くなっていたことを知った。戦後はローマの高等健康研究所に移り、イギリスには1964年、インペリアル・カレッジ・ロンドンの生化学の学科長として戻ってきた。
1948年、彼はマックス・ベロフとノラ・ベロフの姉妹であるアン・ベロフと結婚した。人生の後半では、彼のユダヤ人としてのアイデンティティは非常に重要なものになっていた。 1954年、彼はイスラエルのワイツマン研究所の理事会の理事となり、後に幹部会議のメンバーとなった。彼は子供たちにユダヤ教を信仰させ、高等教育を受けさせた。彼の考えは1965年に世界ユダヤ人会議で行われた「なぜ私はユダヤ人か」と題した講演によく表れている。
退官後、彼は西アイルランドに移住した。メイヨー州のカースルバーで余生を過ごしている時、彼は主治医の献身的な態度と「未来の医療がきっとあなたを治してくれる」という言葉に深い感銘を受けたと伝えられている。彼の目は確かで、実際にこの医師、アショーカ・ジャーナヴィ=プラサド (Ashoka Jahnavi-Prasad) は後に、双極性障害の治療に用いるリチウム塩の代わりに安全なバルプロ酸ナトリウムを用いることを初めて提案した人物となった。
ハワード・ウォルター・フローリー
ハワード・ウォルター・フローリー(Howard Walter Florey, Baron Florey、1898年9月24日~1968年2月21日)はペニシリンの抽出によりエルンスト・ボリス・チェーン、アレクサンダー・フレミングとともに1945年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した生理学者である。
南オーストラリアのアデレードで5人兄弟の末っ子として生まれた。セントピーターズ・カレッジでは優秀な成績でアデレード大学へ進学し、1917年から21年まで学んだ。この大学で、彼は後の妻で共同研究者になるエセル・リードと出会った。
奨学生としてオックスフォード大学のマグダレン・カレッジで研究を行い、ここで学士号、修士号を取得した。そして1926年にケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジのフェローとなり、1年後に博士号を取得した。アメリカでの研究生活が終わると、彼は1931年にシェフィールド大学の生理学の教授になった。1935年に再びオックスフォードに戻り、リンカーン・カレッジの研究長となった。
1938年、エルンスト・ボリス・チェーン、ノーマン・ヒートリーとともにアレクサンダー・フレミングの論文を読み、Penicillium chrysogenumの抗菌活性について議論した。彼らの研究チームはカビ由来の生成物質を大規模に探索し、抗菌活性のある成分を抽出した。そして第二次世界大戦中の1945年にペニシリンの工業生産に成功した。
科学的な興味関心が、世界的な発見に
しかし、フローリーはこの発見は科学的なメリットしかないと考えており、以下のように語っている。
「人々はしばしば、我々は人類の苦しみを救うためにペニシリンを研究したと考えているが、我々の心には人々の苦しみを救うという気持ちはなかった。あくまでも科学的な興味からであり、医学的に見て満足いく結果が得られた。しかし、これは我々が研究を始めた動機ではない。」
彼はまた、公衆衛生の向上による人口増加に関心を持っており、避妊の忠実な信者であった。1962年、彼はオックスフォード大学のクイーンズ・カレッジの総長となり、総長在任中に彼の功績を讃えてフローリー・ビルと呼ばれる宿泊棟が作られた。この建物はイギリスの建築家であるジェームズ・スターリングによって設計された。
フローリーは1944年にナイトに叙され、1965年には一代貴族として男爵位を授けられ「オーストラリアにおけるアデレードとカウンティ・オヴ・オックスフォードにおけるマーストンのフローリー男爵(Baron Florey, of Adelaide in the Commonwealth of Australia and of Marston in the County of Oxford)」となった。これはナイトに叙せられた発見者のフレミングよりも大きな名誉となった。同年にはメリット勲章を受章している。
フローリーは1941年に王立協会のフェローとなり、1945年にリスター・メダル(英語版)を受賞し、1960年から1965年まで王立協会の会長を務めた。1966年に妻のエセルを亡くした後は、長年の共同研究者であり助手であったマーガレット・ジェニングスと1967年に再婚した。1965年から68年までオーストラリア国立大学の総長を務め、1968年にオックスフォードで心臓発作で死去した。
フローリーはオーストラリアの科学、医学界において最大の科学者だと目されている。オーストラリアで最長在任期間の首相であるロバート・メンジーズは次のように語っている。
「世界の幸福という面で考えると、フローリーはオーストラリア史上最も偉大な人物である。」
フローリーの肖像は、長年50オーストラリアドル紙幣に使われていた。またキャンベラ郊外には彼の名前にちなんだ街がある。さらにメルボルン大学のハワード・フローリー研究所やアデレード大学医学部の最も大きな講堂も彼の名前を取っている。2004年、テレビの特別番組で最も偉大なオーストラリア人に選ばれた。
参考HP Wikipedia:ペニシリン アレクサンダー・フレミング エンリスト・ボリス・チェーン ハワード・フローリー
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