戦後の日本人に勇気を与えたノーベル賞
1949年のノーベル物理学賞受賞者は湯川秀樹である。受賞理由は「陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想」。もちろん、日本人初のノーベル賞受賞者として有名だ。
戦後まもない日本人の受賞は、下向きがちだった日本人にどれほどの勇気を与えたかわからない。日本はやっぱり凄い国だ、終戦後わずか4年でノーベル賞の受賞となった。
湯川氏の中間子論が出たのは、1935年のこと。すでに日中戦争中であった日本人学者は、海外からはなかなか評価されなかったがソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つ。しかし、当時は、簡単に新しい粒子を持ち出すことについては、中間子論に対する批判が多かった。というのは、すでにさまざまな粒子が発見されていたからだ。
1897年J.J.トムソン(1906年ノーベル物理学賞)が電子を発見、1911年ラザフォード(1908年ノーベル化学賞)により原子核が発見された。1919年陽子がアーネスト・ラザフォードによって発見される。1932年にジェームズ・チャドウィック(1935年ノーベル物理学賞)によって中性子を発見する。
原子核の構成が明らかになると、次に問題になるのは構成粒子である陽子と中性子(核子)を小さな領域に閉じ込めておく力は何かということになる。この力は核力と呼ばれ、その起源を説明するものとして、湯川秀樹により核子が中間子をやりとりすることによって生ずるという、いわゆる中間子論が生まれた。
ミュー粒子が最初に発見されたとき、質量が近いことから中間子と考えられ、「ミュー中間子」と名付けられた。しかし、核子を強く引き付ける力がないことから、実はレプトンであったと判明した。後に、本当に力を伝達する「パイ中間子(ミュー粒子に崩壊する)」が、1947年、セシル・パウエル(1950年ノーベル物理学賞)の率いるチームによって発見される。この発見により、1949年の湯川氏のノーベル物理学賞が決定された。
中間子とは何か?
中間子は、反対の色荷を持ったクォークと反クオークから構成され、バリオン数が0である。安定したものはなく、半減期はナノ秒単位である。最も軽い中間子(パイ中間子)は、およそ140MeV(約2.5×10−28 kg、電子の約270倍)の質量を持っている。
もっともエネルギーの低いメソンは擬スカラー粒子(スピン 0)である。 ここでクォークと反クォークは反対向きのスピンを持つ。 ベクター粒子(スピン 1)のメソンの場合はクォークと反クォークは同じ方向のスピンを持っている。殆どのメソンの質量は、構成要素のクォークの質量からではなく、束縛エネルギーから生じている。 すべてのメソンは安定ではない(陽子のような長い寿命を持たない)。
中間子はもともと陽子と中性子を原子核中で束ねている力を伝達していると予想されていた。ミュー粒子が最初に発見されたとき、質量が近いことから中間子と考えられ、「ミュー中間子」と名付けられた。しかし、核子を強く引き付ける力がないことから、実はレプトンであったと判明した。後に、本当に力を伝達するパイ中間子(ミュー粒子に崩壊する)が発見された。
2003年11月14日、高エネルギー加速器研究機構の加速器「Bファクトリー」にてクォーク4個からできた新中間子「X(3872)」が発見された。この粒子はその質量などからD中間子D0とD-0の組み合わせでできていると見られている。
しかしながら、これはクォーク2個と反クォーク2個からなる一つのハドロンではなく、二つのメソンからなる分子状態と考えられている。同機構は2007年11月9日にも、クォーク4個からできた新中間子「Z(4430)」を発見したと発表している。(Wiikipedia)
このように中間子は、今でもさまざまなものが発見されている。「パイ中間子」は湯川秀樹によって理論的に予言され、これが彼のノーベル物理学賞の受賞理由となった。
湯川秀樹、生い立ち~学生時代
湯川 秀樹(1907年(明治40年)1月23日~1981年(昭和56年)9月8日)は、日本の理論物理学者である。京都府京都市出身。
原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより湯川理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。1943年(昭和18年)文化勲章。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。学位は理学博士。
1907年、東京府東京市麻布区市兵衛町(現:東京都港区六本木)に地質学者・小川琢治と小雪の三男として生まれる。
1908年、1歳の時に父・琢治(和歌山県出身)の京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都府京都市に移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。1歳から大学までは京都、大学を出て一時大阪や西宮にいたこともあるが人生の大半は京都で過ごしたことになる。(ただし、ノーベル賞受賞の対象となった中間子論を発表したのは、湯川が大阪帝国大学に勤めていた時であり、当時は西宮の苦楽園で生活していた)湯川は自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している。
母方の祖父・駒橘は元紀州藩の武士であり、また湯川家自体が先祖代々和歌山県出身であるため“和歌山出身”と紹介されることもあるが、本人曰く、京都市出身との事。和歌山県出身の実業家・松下幸之助の郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたものである。ただし、湯川本人は和歌山で暮らした経験は無い。
5、6歳の頃、祖父・駒橘より漢籍の素読を習った。駒橘は漢学の素養が豊富で、明治以後は洋学を学び晩年までずっとロンドン・タイムズを購読し続けた人物であるという湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している。
1919年、京都府立京都第一中学校に入学する。中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」だった。また、物心ついてからほとんど口を利かず、面倒なことは全て「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていたが、案外『イワンの馬鹿』から取ったのではないかと自分で考えた時期もあった。
この無口さが理由で父の琢治から「何考えているのやらわからん」と疎んじられ、他の兄弟に比べて能力を低く見られ、大学進学は諦めさせて専門学校へでもやろうかと考えられていた時期もあった。京都一中の同期には学者の子供が多く、後に学者になった者も多かったという。同じくノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎は一中で一年上、三高・京大では同期だった。
ノーベル賞受賞まで
1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。1932年、京都帝国大学講師。1933年、東北帝国大学で日本数学物理学会年会が開催された時に八木秀次と知り合い、当時大阪帝国大学の理学部物理学科(は塩見理化学研究所)の初代主任教授に就任した八木に頼んで大阪帝国大学講師を兼担することになる。
教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。この頃、大阪胃腸病院(1950年に湯川胃腸病院と改称)の院長:湯川玄洋の次女湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。
大阪帝国大学に移籍後、全く成果が出ない湯川を八木は更に勉学に努めるよう注意した上で、「本来なら朝永君(朝永振一郎)に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」とまで叱責した。内山龍雄によれば、八木は匕首のような毒舌で有名だったという(「適塾」No.15(1982)『湯川博士と大阪大学』)。
1934年、中間子理論構想を発表、1935年、「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する。すでに日中戦争中であった日本人学者は、海外からはなかなか評価されなかったがソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つ。この研究が評価され、1940年に学士院恩賜賞を受賞、1943年には最年少で文化勲章受章。さらに、1947年にセシル・パウエル等が実際にπ中間子を発見したことで1949年にノーベル物理学賞を受賞した。
これはアジア人としては作家のタゴールや物理学者のチャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目の受賞者だったが、日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた。
2000年に湯川のノーベル賞選考関連文書を調査した岡本拓司は、推薦状の大半が外国の推薦者から出されていた点などを挙げ、「ノーベル賞の歴史の中でもまれなほど、研究成果との関係が明瞭であるように思われる」と述べている。
戦後は非局所場理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果にはつながらなかった。一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が1/3とか2/3とか、そんな中途半端なものが存在する訳が無い。」と否定的であった。
またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。(Wikipedia)
![]() | 創造への飛躍 (講談社学術文庫) |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
![]() | 湯川秀樹のスーパーインスピレーション (幸福の科学大学シリーズ 11) |
クリエーター情報なし | |
幸福の科学出版 |
��潟�<�潟��