20世紀の三大発明
20世紀の発明といえば何か?…クオーツ、DVD、CD、計算機、レーザー、原子力…などなど、様々な物が登場するが、特筆すべきは「トランジスタ」であろう。トランジスタが集積回路を生み、集積回路がコンピューターを生んだからだ。
トランジスタ(transistor)とは、増幅またはスイッチ動作をさせる半導体素子で、近代の電子工学における主力素子である。transfer(伝達)とresistor(抵抗)を組み合わせた造語である。
デジタル回路ではトランジスタが電子的なスイッチとして使われ、半導体メモリ・マイクロプロセッサ・その他の論理回路で利用されている。ただ、集積回路の普及に伴い、単体のトランジスタがデジタル回路における論理素子として利用されることはほとんどなくなった。一方、アナログ回路中では、トランジスタは基本的に増幅器として使われている。

1947年、ベル研究所の理論物理学者ジョン・バーディーンと実験物理学者ウォルター・ブラッテンは、半導体の表面における電子的性質の研究の過程で、高純度のゲルマニウム単結晶に、きわめて近づけて立てた2本の針の片方に電流を流すと、もう片方に大きな電流が流れるという現象を発見した。世界初のトランジスタ「点接触型トランジスタ」の発見である。
固体物理学部門のリーダーだったウィリアム・ショックレーは、「点接触トランジスタ」の発見に立ち会えなかったが、この現象を増幅に利用できる可能性に気づき、その後数か月間に大いに研究した。この研究は、固体による増幅素子の発明として、1948年6月30日に3人の連名で発表された。
この3人は、この功績により、1956年のノーベル物理学賞を受賞している。点接触型トランジスタは、その構造上、機械的に安定した動作が難しい。機械的に安定した「接合型トランジスタ」は、「3人」のうち最初の発見の場に立ち会うことができなかったショックレーが発明したものだった。
シリコンを使った最初のトランジスタは、1954年にテキサス・インスツルメンツが開発した。これを成し遂げたのは、高純度の結晶成長の専門家ゴードン・ティールで、彼は以前ベル研究所に勤務していた。ゲルマニウムは約80℃程度でこわれてしまうという欠点があったため、いまでは、そのほとんどがシリコンになっている。ちなみに、シリコンなら約180℃位の熱にも耐えられる。
ウィリアム・ショックレー
1956年のノーベル物理学賞の受賞者。受賞理由は、「半導体の研究およびトランジスタ効果の発見」である。
ウィリアム・ブラッドフォード・ショックレー・ジュニア(William Bradford Shockley Jr.、1910年2月13日~1989年8月12日)は、アメリカの物理学者、発明家。ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンと共にトランジスタを発明し、3人で1956年のノーベル物理学賞を受賞する。
ショックレーは1950年代から1960年代にかけてトランジスタの商業化を試み、そのために電子工学関連の技術革新が育まれ、カリフォルニアに「シリコンバレー」が生まれる出発点となった。晩年にはスタンフォード大学の教授となり、優生学の熱心な支持者となった。
ロンドンで生まれ、カリフォルニア州パロアルトで育つ。父ウィリアム・ショックレー・シニアは鉱山技師で、8カ国語を話した。母はアメリカ西部出身のスタンフォード大学卒で、アメリカ初の女性採掘測量士補となった人物である。
1932年、カリフォルニア工科大学で学士号を取得。まだ学生だった1933年8月にアイオワ出身のジーン・ベイリーと結婚。1934年3月に長女アリソンが生まれた。
1936年、マサチューセッツ工科大学でPh.D.を取得。博士論文のタイトルは Electronic Bands in Sodium Chloride(塩化ナトリウムにおける電子帯)で、指導教官だったジョン・クラーク・スレイターの助言によるものだった。
その後、ニュージャージー州にあるベル研究所のクリントン・デイヴィソンの研究チームに参加。その後数年間はショックレーにとって実り多い時期で、フィジカル・レビュー誌に固体物理学の基礎的論文をいくつも発表している。1938年には当人にとって初めての特許 "Electron Discharge Device" を取得。電子増倍管についての特許である。
広島・長崎の原子爆弾にも関係
第二次世界大戦が勃発すると、ニュージャージー州ホイッパニーにある研究所でレーダーの研究に参加。1942年5月にはベル研究所を離れて、海軍の委託研究のディレクターとしてコロンビア大学で対潜水艦技術の研究開発を指揮した。
これは潜水艦の戦術に対抗して、護送船団技術を改善したり、機雷投下パターンを最適化したりといったことが含まれる。このプロジェクトではペンタゴンやワシントンに頻繁に出向き、軍や政府の多数の高官と面会した。
1944年、B-29爆撃機のパイロットに新たなレーダー爆撃照準器の使い方を教育するプログラムを策定。1944年後半になると世界各地の基地を3カ月かけて巡り、教育の成果を確認した。このプロジェクトに対して1946年10月17日、陸軍長官ロバート・ポーター・パターソンがショックレーに功労章を授与した。
1945年7月、戦争省は日本本土上陸作戦を行った際の死傷者数の予測をショックレーに依頼した。ショックレーは次のように結論した。
日本の国家としての歴史上の振る舞いとこれまでの戦闘における振る舞いの研究が正しいなら、敗戦を認めるまでに生じる日本人の死傷者数はドイツの場合のそれを上回るだろう。言い換えれば、我々は500万人から1000万人の日本人を殺す必要がある。その場合、我が方も170万人から400万人の死傷者が出て、うち40万人から80万人が戦死するだろう。
この予測は、上陸せずに日本を降伏させるという方針決定に影響し、広島と長崎への原爆投下が行われた。
“シリコンバレー”の始まり
カリフォルニア工科大学時代の友人が、自分の会社の部門としてショックレーの研究所を創設することを申し出てきた。1955年、Beckman Instruments がマウンテンビューに新たに創設した研究所をショックレー半導体研究所と名付け、ショックレーを所長に就任させた。
その場所が中心となってシリコンバレーが形成された。彼がその場所を選んだのは母親の実家があるという理由であった。ショックレーの名声とベックマンの資金力を背景に、ベル研究所のかつての同僚を引き抜こうとしたが、誰も乗って来なかった。そこでショックレーは大学を卒業したばかりの優秀な人材を物色し始めた。
ショックレー流の経営とは、端的に言えば「支配と偏執性の増大」である。有名なエピソードとして、秘書が親指を切ってしまったことがある。ショックレーはそれが誰かの悪意によるものと思い込み、犯人を捜すために嘘発見器を使おうとした。
実際にはオフィスのドアに壊れた画鋲の針だけが残っていたことが原因であることが判明し、研究スタッフとショックレーの仲は険悪になっていった。その間、新たな技術的にも難しい素子(「ショックレー・ダイオード」と名付けていたが、今ではサイリスタとして知られているもの)を作れという彼の指示があったが、プロジェクトの進捗は非常にゆっくりとしていた。
1957年9月、ショックレーがシリコンベースの半導体研究を打ち切ると決めると、8人の研究スタッフ(自ら "the Traitorous Eight" すなわち「8人の反逆者」を名乗っていた)が同研究所を辞めた。
8人のうちの一部の者がフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツの経営者 Sherman Fairchild に会って状況を説明すると、同社の半導体部門としてフェアチャイルドセミコンダクターを創業することになった。
後にインテルを創業したロバート・ノイスとゴードン・ムーアもその8人に含まれている。アドバンスト・マイクロ・デバイセズもフェアチャイルドセミコンダクター出身のジェリー・サンダースが創業している。ショックレー研究所やこれらの企業が核となってシリコンバレーが形成されることになった。
ショックレーが新たな半導体素子開発に取り組んでいたころ、フェアチャイルドとテキサス・インスツルメンツがそれぞれ独自に世界初の集積回路を開発した。ショックレーは何とか素子を完成させ、製造を開始したが、商業的には失敗に終わった。
1961年、ショックレーはハンス・クワイサーと共同で太陽電池の理論的な発電効率の限界を示す法則を発見し、ショックレー・クワイサー限界と呼ばれるようになった。ショックレー半導体研究所は1960年に売却され、さらに1968年にITTに売却され、間もなく清算された。
晩年のショックレーと差別主義
晩年のショックレーは、人種、知能、優生学といった問題に興味を持つようになっていった。本人はこの仕事が人類の遺伝的未来にとって重要であり、自身の経歴の中でも最も重要だと考えていたが、そのような政治的な独特の見解を表明することは彼の評判を傷つける結果となった。
左翼とも右翼ともとれる立場を表明する理由を問われ、ショックレーは「自身の科学的才能を人類の問題を解決するために応用する」のが最終目標だと応えた。
ショックレーは、知的レベルの低い者ほど生殖率が高い現状は種族の退化をもたらすとし、知的レベルの低下は文明の衰退をもたらすとした。ショックレーは自分が正しいと証明されたならば、科学界は遺伝・知能・人口統計の傾向などを真剣に研究し、政策転換を促すべきだと主張した。
ショックレーは白人にも黒人にも同様の問題が起きているとしたが、特に黒人の方が状況が悪いとした。ショックレーは1970年の国勢調査の結果から、白人の単純労働者は平均で3.7人の子をもうけるが、白人の熟練労働者では平均で2.3人の子をもうけ、黒人ではその値がそれぞれ5.4人と1.9人になるとした。
IQが遺伝に影響されるという彼の考え方によれば、黒人はIQが低くなっていくという結論になる。これについてショックレーが学術雑誌に書いた記事や大学などで行った講演は、心理学者シリル・バートの著作に一部基づいている。ショックレーはまた、IQが100未満の者には無料で不妊手術を受けさせるべきだと提案している。
晩年のショックレーと精子バンク
ショックレーは Robert Klark Graham が創設した精子バンク Repository for Germinal Choice に精子提供している。この精子バンクは「ノーベル賞受賞者の精子バンク」と報道されたこともあり、ショックレーを含む3人のノーベル賞受賞者の精子を保管している。
ただし、ショックレー以外の精子提供者の名は明らかにされていない。しかしショックレーが人種差別的発言を繰り返したせいで、この精子バンクにとっては逆宣伝となり、他のノーベル賞受賞者の精子を提供してもらえなくなった。
精子バンクの件がニュースになっていた1980年8月、PLAYBOY誌にショックレーの長いインタビュー記事が掲載された。同誌の発行人であるヒュー・ヘフナーはショックレーの考え方に共感していたわけではないが、そのインタビューでショックレーは自身の優生学的見解と一般的な人種的偏見の違いを説明し、持論を多くの読者に対して擁護する機会を与える結果となった。
1981年、Atlanta Constitution 紙がショックレーを「ヒトラー主義者」と呼び、その考え方をナチにたとえたことから、ショックレーは同紙を名誉毀損で訴えた。ショックレーは裁判に勝利したが、賠償額はわずか1米ドルだった。
晩年のショックレーとシリコンバレー
晩年、ショックレーはメディアとのやりとりに慎重になった。レポーターとの電話は常に録音し、それを書き起こしたものを書留で相手に送った。時には話を始める前に彼の業績について簡単なクイズを出すこともあった。
Daniel J. Kevles はショックレーを「人種差別主義者で生物学を知らない人物として嘲笑されている」とした。人類学者の Roger Pearsonはショックレーを擁護し、ショックレーをタブーを破って人種間の差異を率直に議論した人物だとし、その考え方が世の中に不安を与えるものだったためにメディアによって悪者にされたとしている。
1989年、前立腺癌で死去。そのころ彼は妻以外の家族ともほとんど疎遠になっていた。子供たちは報道で彼の死を知ったという。
2002年、1956年以降の友人約30人がスタンフォードに集まり、ショックレーの思い出を語り合った。この会合の主催者は「シリコンバレーにシリコンをもたらしたのはショックレーだ」と述べた。
講演が得意で、素人マジシャンでもあった。アメリカ物理学会で講演の最後にバラの花束をマジックで出して見せたことがある。若いころは念入りないたずらを仕掛けることでも知られていた。
ロッククライミングを趣味とし、ハドソン川上流のShawangunksによく通っていた。そこでオーバーハングを攻略するルートを開拓し、その場所は "Shockley's Ceiling" と呼ばれている。ショックレーは無神論者だった。(Wikipedia)
ジョン・バーディーン
1956年のノーベル物理学賞受賞者、受賞理由「半導体の研究およびトランジスタ効果の発見」である。1972年には2度目のノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は「超伝導現象の理論的解明」である。
ジョン・バーディーン(John Bardeen, 1908年5月23日~1991年1月30日)はアメリカの物理学者。2013年現在、ノーベル物理学賞を2度受賞した唯一の人物であり、1956年にウィリアム・ショックレー、ウォルター・ブラッテンとトランジスタの発明によって、1972年にレオン・クーパー、ジョン・ロバート・シュリーファーと超伝導に関するいわゆるBCS理論で受賞している。
1908年ウィスコンシン州のマディソンで生まれた。父親は解剖学の大学教授、母親も教育者の経験があった。バーディーンは早くから数学の才能を示した。
1923年にウィスコンシン大学に入学し(ウォーレン・ウィーバーに師事)、1928年に電気工学科を卒業した後、一時ピッツバーグの石油会社に勤務するが、博士号取得を目指し、プリンストン大学(ユージン・ウィグナーに師事)、ハーバード大学(パーシー・ブリッジマンに師事)で数学・物理学を学んだ。紹介されたジェーンと結婚。
1938年からミネソタ大学の助教授になった。第二次世界大戦が始まると海軍兵器研究所 (Naval Ordnance Laboratory) に4年勤めた。
2度のノーベル物理学賞
1945年10月からベル研究所に入り、1948年ショックレーらとトランジスターの開発に成功した。この成果は、1956年のノーベル物理学賞につながった。1回目のノーベル賞だった。
1951年ショックレーとの仕事から離れイリノイ大学の教授となり、本格的に超伝導理論の研究を開始する。
1953年には、国際理論物理学会・東京&京都に参加し、京都大学で行われた超伝導分科会では、中嶋貞雄(東京大学名誉教授)発表の電子フォノン理論に着目し、米国に帰国後、それをもとに論文、バーディーン-D.パインズ(英語版)理論を発表し、BCS理論論文でも引用している。中嶋を後年イリノイ大学に招待するなど、終生の友情を築いた。
1956年、総まとめとなる超伝導理論に関する文献報告をHandbuch der Physik, 15に発表。
1957年レオン・クーパーをプリンストンから招聘し、大学院生シュリーファーらと組み、超伝導の標準理論、BCS理論を導いた。その功績により1972年2回目のノーベル物理学賞を受賞した。ゴルフが趣味で、研究の合間には、ゴルフでリフレッシュした。
その後も日本に何度か訪れている。最晩年に日本のテレビ番組であるNHKスペシャル・「電子立国日本の自叙伝」にトランジスター開発当時の証言が収録され、その映像が放映される前に亡くなっている。
超伝導の理由、CBS理論
バーディーンはミネソタ大学教授に就任した頃、D.シェーンブルグの「超伝導」を読んで興味を持った。第二次世界大戦後、ベル研究所に入所しショックレーの半導体研究グループに参加した。
ショックレーの提唱していた半導体薄膜電界効果増幅素子の失敗から、半導体表面上のキャリアー表面のトラップ(不純物による電子や空孔の捕獲)によるものとし、表面順位のモデルを想定して、W.H.ブラッデンとともにその検証を行った。1947年点接触トランジスタの開発に成功。次にショックレーが提唱した接合トランジスタ開発に入り、表面研究を一時中断した。
1956年にこの研究に対して、ブラッデン、ショックレーとともにノーベル物理学賞が贈られた。1951年イリノイ大学に移り、超伝導の研究を開始。1950年代前半には、同位体現象の発見など超伝導現象の解明に重要な実験や理論が発表されていたので、これらを総合報告にまとめた。
1955年から、クーパーと彼の下で半導体表面反転層の研究をした大学院生シュリーファーとともに、微視的超伝導機構を解明した。
この理論は彼らの頭文字をとって、CBS理論とよばれた。1972年この業績に対して、2度目のノーベル物理学賞がクーパー、シュリーファーとともに贈られた。
ウォルター・ブラッテン
ウォルター・ブラッテン(Walter Houser Brattain, 1902年2月10日~1987年10月13日)はアメリカの物理学者。トランジスタの発明でウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーンとともに、1956年ノーベル物理学賞を受賞した。
父親は中国で理科の教師をしておりアモイに生れたが、1903年家族はアメリカに帰り、ワシントン州の牧場に育った。オレゴン大学からミネソタ大学で学んだ。卒業後アメリカ規格局に就職したが1929年にベル研究所に移った。1948年ショックレーらとトランジスタの開発に成功し、ノーベル物理学賞を受賞した。
1967年ベル研究所を退職し、ワシントン・カレッジに移り1972年までその仕事を続けた。
ブラッデンの初期の研究は、タングステンの表面吸着層と電子放射に関するものであった。その後、亜酸化銅表面の、整流作用の研究に転向し、揺籃期にあった半導体物性の研究に注目するようになった。第二次世界大戦後、ショックレーを長とするベル研究所半導体基礎研究部門の一員となり、表面と整流作用の実験を担当した。
ショックレーの提唱していた半導体薄膜電界効果増幅素子が、実験上失敗したことをきっかけにして、バーディーンと表面の徹底的追求を開始。バーディーンは半導体表面に適当な表面順位が存在し、そこに存在する電子と、半導体内部の電子との平衡関係からバリアができていると仮定するならば、D.L.ベンツァーの半導体表面に何らかの表面層があるという提唱を理解できることを示した。
次に彼が実験的検証を行った結果、1947年点接触トランジスタの組み立てに成功した。この増幅機構は正孔注入法によることが解明されるが、これを待たずに、ショックレーは接合トランジスタの開発に進み、成功を収める。
半導体研究を国際的に広め、エレクトロニクス革命を起こす原動力になった発見に対し、1956年ノーベル物理学賞を受賞する。
参考 Wikipedia:トランジスタ
![]() | 世界一簡単なトランジスターのきほん―ゼロから理解する |
| クリエーター情報なし | |
| 誠文堂新光社 |
![]() | 絵ときでわかる トランジスタ回路 |
| クリエーター情報なし | |
| オーム社 |


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