生物毒を利用する

 われわれの身の回りには、毒(生物毒、天然毒)をもつ生物がいる。毒をもつ生物は、ある種のバクテリア、菌類、原生動物、植物、爬虫類、両生類、魚、ウニとヒトデ、軟体動物、および昆虫など多岐にわたる。

 植物では、トリカブト、ケシ、南米のコカの葉、インド大麻などが毒(植物毒)をもつことが知られている。生物毒の働きとしては、赤血球を破壊する溶血毒、細胞や組織の壊死を引き起こす壊死毒、主に動物の神経系に作用する神経毒などがあるが、捕食のための武器として使われる毒は神経毒が中心となる。

 ツボクラリンは豆科の大樹コンドデンドロントーメントスの樹皮からとれる毒であるが、クラーレとよばれ、南アメリカのインディオ達は矢の先にこれを塗り毒矢として用いた。ニコチン性アセチルコリン受容体を阻害し、筋への信号伝達を遮断。筋肉にのみ作用し、筋弛緩を引き起こす。呼吸困難を引き起こすものだが、人工呼吸器を併用することで、外科手術に利用される。

 スイス生まれのイタリア人の薬理学者、ダニエル・ボベットはクラーレが筋肉を麻痺させる作用を持つことを知って、手術時に使用することを考えた。

 クラーレを薄めて適量を与えると麻酔の効果が長続きすることに気づき、実用に耐えうる方法を開発した。この方法は外科手術に大いに役立った。彼はクラーレを人工的に合成することにも成功した。

 また、アレルギー症状はヒスタミンという物質によって起こる起こると考えられていた。ボベは鼻づまりといったアレルギー症状のいくつかを和らげるはたらきを持つ化合物を発見。これらはヒスタミンに対して抗ヒスタミン剤と言われるようになった。これらの業績に対して、1957年ノーベル生理学医学賞が贈られた。

 ダニエル・ボベット

 ダニエル・ボベット(Daniel Bovet、1907年3月23日~1992年4月8日)はスイス生まれのイタリア人の薬理学者で神経伝達物質の活動を阻害する薬剤の開発で、1957年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 彼は1937年にアレルギーの治療薬としてヒスタミンの作用を阻害する抗ヒスタミン薬を作ったことでよく知られている。また化学療法、スルホンアミド系薬剤、交感神経系、クラレの薬理作用なども研究した。

 1907年3月23日、ボベットはスイスのヌーシャテルで生まれ、母語としてエスペラント語を話す珍しい人物の一人である。彼はジュネーヴ大学を1927年に卒業し、1929年に博士号を取得した。

 その後1929年から47年までパリのパスツール研究所で働き、1947年にローマの高等健康研究所へ移った。1957年ノーベル生理学・医学賞を受賞。受賞理由は「クラーレ様筋弛緩剤の合成に関する研究」である。

 1964年にイタリアのサッサリ大学の教授となり、1969年から71年にかけてローマ・ラ・サピエンツァ大学の教授を務めた。1982年に退官した。1992年4月8日癌のために死去。

 クラーレ様弛緩剤とは何か?

 ダニエル・ボベットの研究に、クラーレ様筋弛緩剤の合成に関する合成に関する研究がある。クラーレ様作用とは神経接合部切断作用を意味する。クラーレは南アメリカの先住民が狩猟に用いる毒物。地域ごとに配合が異なるが、いずれも植物由来の毒で吹き矢や槍に塗られて用いられる。

 骨格筋神経の伝達を遮断する作用があり、呼吸困難を引き起こすものだ。消化器官からは吸収されず、すぐに排泄されてしまうため、クラレでしとめた獲物を食用にしても問題はない。

 20世紀に入り呼吸困難を引き起こすクラーレの成分が単離されると、神経や細胞膜の作用で筋肉のはたらきを緩慢にさせる筋弛緩剤への応用研究が進む。

 ちなみにフグ毒やボツリヌス菌の毒も、筋弛緩剤と同様の症状を引き起こす。呼吸困難が誘発されるが、人工呼吸器を併用することで、医師による手術の進行がよりスムーズとなった。ただし、現在使われている筋弛緩剤は、人工的に合成したものだ。

 ボベット研究はこれにとどまらない。からが開発した抗ヒスタミン薬は、アレルギー症状を緩和させる効能がある。ヒスタミンは体内で大量に分泌されるとアレルギー症状を引き起こす。抗ヒスタミン薬はヒスタミンの血管拡張作用を抑え、くしゃみや鼻水の症状を緩和させる効能を持つ。花粉症などのアレルギー症状や風邪の症状を抑制することができる。

 この他には乗り物酔いの症状を緩和させるが、中枢神経に作用して眠気を引き起こす効果もあるため、服用のタイミングには注意が必要である。

 クラーレとは何か?

 クラーレ (Curare) とは、南アメリカ一帯の原住民によって狩猟に用いられている毒物の総称である。地方によって成分は大きく異なるが、いずれも矢に込めて使用される。

 大航海時代最盛期の16世紀になってヨーロッパ人が南米に足を運ぶようになると、原住民との接触・対立が起こるようになり、その際に狩猟・戦闘において用いられた矢毒の成分が注目された。それらは地方によっては「クラリ」、「ウラリ」、「ウーラリ」などと呼ばれていた。

 その後、1595年にオリノコ川地方を探検したウォルター・ローリーの書物『ギアナ帝国の発見』(1596年)によってクラーレと呼ばれたことから、以降この名称が定着した。これらの本来の意味は、「鳥を殺す」という意味である。

 クラーレの使用法・原料・作用については、クラーレ自体が原住民の秘密であったこともあり、ほとんど知られなかった。そのため、ヨーロッパの書物では、想像を交えた魔術的なものとして描写された。そこでは、クラーレは血を逆流させたり、中毒者に激しい苦痛を与えた末に命を奪うものとして描写された。

 その後、18世紀半ばにシャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌが緯度差1度に相当する子午線弧長を比較するためのフランス測地測量遠征隊(フランス語版、英語版)に参画の後、アマゾンに科学調査に入った結果をフランスに帰国後科学アカデミーの会報に報告した際、初めて包括的にクラーレをヨーロッパに紹介したことを皮切りに、長年の探検家たちの努力により、クラーレの詳細については、1.吹き矢、矢、槍に用いること 2.特定の数種類のつる植物から作られること 3.中毒者は麻痺した末に死亡することの3点が判明した。

 特にアレクサンダー・フォン・フンボルトが1800年にオリノコ川一帯で行った調査により、製法の詳細が判明した。それは、特定のつる植物の樹皮を搗き固めてから水を加えてろ過して煮詰め、別の植物の樹液で粘性を与える、というものであった。

 クラーレを医療に利用

 19世紀に入ると、イギリスの冒険家チャールズ・ウォータートンらにより、クラーレを投与したロバにふいごで人工呼吸させると息を吹き返す、つまりクラーレは呼吸を麻痺させる作用を持つことが判明。

 このことを知ったクロード・ベルナールは、カエルを使った実験により、クラーレを作用させた筋肉は電気刺激に反応しない事を確かめた。つまりクラーレは神経の伝達を遮断する作用を持つことが明らかになったのである。その後、植物学者によりクラーレの原料に用いられる植物の種類が判明していった。

 クラーレの原料及び主成分は、ツヅラフジ科コンドロデンドロン属:数種類あるが、特に強力なChondrodendron tomentosumが広く使われている。ツボクラーレおよびカラバッシュクラーレに用いられる。主成分はツボクラリンで、1935年にツボクラーレのサンプルから発見された。

 これらの成分は、原材料は異なるが共にアセチルコリンのアンタゴニストとして作用することにより、骨格筋の神経伝達の遮断を引き起こす。しかも、これらは消化管からは吸収されない(つまり、捕獲した動物を食べても問題ない)。

 20世紀に入ると、クラーレの主成分が分離されると共に医療への応用が考えられるようになり、手術時の筋弛緩剤への応用が試みられた。当初は呼吸麻痺が問題となったが、人工呼吸器を用いることにより問題は解決した。(Wikipedia)

 エスペラントとは何か?

 エスペラント(Esperanto)とは、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語。エスペラントを話す者は「エスペランティスト」と呼ばれ、世界中に100万人程度存在すると推定されている。

 当初は特別な名称を持たなかった(単に「国際語」とされていた)が、創案者のラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが「エスペラント博士(Doktoro Esperanto)」というペンネームを使って発表したため、しだいにこの名で呼ばれるようになった(「エスペラント博士の国際語」と呼ぶのは面倒)。この「エスペラント」とはエスペラントの単語で「希望する者」という意味である。ザメンホフは、帝政ロシア領(当時)ポーランドのビアウィストク出身のユダヤ人眼科医で、1887年7月14日にUnua Libro(最初の本)でこの言語を発表した。

 ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、世界中で既に使われている母語に成り代わるというよりは、むしろすべての人の第2言語としての国際補助語を目指してこの言語をつくった。

 現在でも彼の理想を追求している使用者が多くいる一方、理想よりも実用的に他国の人と会話するためや、他の国や異文化を学ぶためのものと割り切って使っている人もかなりいる。

 今日では異なる言語間でのコミュニケーションの為の他、旅行、文通、国際交流(文化交流の場合が多い)、ラジオ(インターネットラジオも含む。無線の場合、短波が多い)、インターネットテレビなど様々な分野で使われている。英語を国際共通語として当然視してしまう姿勢への対抗的姿勢が、多くの場合に、とって代わるべき国際補助語としてこのエスペラントを持ち出している。中国語では「世界語」とよぶ。

 1887年にワルシャワで出版されたエスペラントについての最初の本"Unua Libro"。エスペラントは1880年代にラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって創案された。最初の文法書・単語集は1887年に発表された。

 エスペラントの草案者、L.L. ザメンホフ

 最初、ザメンホフはラテン語の復権が言語問題の解決策になると考えていたが、実際にラテン語を学ぶと難しいことに気づいた。英語を学んだ際、名詞の文法上の性及び複雑な格変化並びに動詞の人称変化が不要であることに気づいた。

 言語を学習するにはたくさんの単語を覚えなければならないが、街を歩いているとき偶然、ロシア語で書かれた二つの看板を見て、解決策を思いついた。 швейцарская(シュヴェイツァールスカヤ 門番所)とкондитерская(コンディテルスカヤ 菓子屋)という二つの看板には、共通して-skaja(スカーヤ 場所)という接尾辞が使われていた。

 彼は一つ一つ別々に覚えなければならないと思われていた単語を、接辞を使って一つの単語から一連の単語群として作り出せるようにする方法を考えた。基本となる語彙は、多くの言語(ただし、ヨーロッパの言語に限られる)で使われているものを採用した。

 1878年、現在のエスペラントのプロトタイプといえるLingwe uniwersala(リングヴェ ウニヴェルサーラ)を、ザメンホフはギムナジウムの同級生たちに教えた。その後6年間、まず各民族語の文学作品の翻訳と詩作に取りかかり、新しい言語の欠陥や運用上の扱いにくさを無くすことにした。

 ザメンホフは後の1895年にロシアのエスペランティスト、ニコライ・ボロフコに宛てた手紙に「私は6年間を言語を完璧にするために費やした。たとえそれが1878年の段階で既にできあがっていたとしても」と書いている。彼はもう既に自らの言語を公表できる準備ができていると考えていたが、ロシア政府の検閲がそれを許さなかった。

 これにより公表が遅れたが、その間、彼は旧約聖書やシェークスピアの作品などをエスペラントに翻訳し、言語の改良も重ねていった。1887年、ようやく出版されたUnua Libro(最初の本)でエスペラントの基礎について紹介した。こうして今日話されているエスペラントが世に出された。(Wikipedia)

毒と薬の科学 (おもしろサイエンス)
クリエーター情報なし
日刊工業新聞社
アマゾンからの贈り物―矢毒クラーレの旅
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真興交易医書出版部