東海村JCO臨界事故で見た“青い光”
東海村JCO臨界事故は、1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故(臨界事故)である。
この事故の原因は、高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料の製造工程における、JCOのずさんな作業工程管理にあった。 JCOは燃料加工の工程において、国の管理規定に沿った正規マニュアルではなく「裏マニュアル」を運用していた。
原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用するという手順だったが、裏マニュアルではステンレス製バケツを用いた手順に改変されていた。

その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等の放射線が大量に放射された。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の1人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と語った。
この光がチェレンコフ光であり、この光で臨界事故が確認できた。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。この時、核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となった他、667名の被曝者を出した。 国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故だった。
亡くなった2人の内の1人、大内久さんは大量の中性子に染色体をズタズタにされることで、全身の皮膚はボロボロに剥がれ落ち、細胞は再生することなくじわじわと死に蝕まれていった。 大内さんは事故から83日後の、12月21日に他界した。享年35歳。 あるいは、一瞬で済むはずだった死が、苦痛が83日間も続く凄惨な死になった。
原子力は正しく使わねばならないと痛感させられた事故だった。ところで、チェレンコフ光とは何だろうか?
チェレンコフ光とは何か?
チェレンコフ光とは、荷電粒子の速度がその物質における光速度より速い場合に光が出る現象である。
原子炉などで、炉心がある原子炉圧力容器の蓋を開けて中を覗くと、原子炉が稼働中であってもなくても(稼働中は開けてはいけません)、水底に沈む原子炉あたりから青白い光が出ているのを確認できる。これがチェレンコフ光である。使用済み核燃料の貯蔵庫のプールなどでも拝む事ができる。
ガラスや水のような透明な物質中を荷電粒子が通過する際、それが光速度を超えた場合に、通過する荷電粒子が作る電磁場の作用で物質から青い電磁波、つまりチェレンコフ光が放出される。
光速度を超えるというと誤解を招きそうだが、確かに光速よりも速いものは存在しないものの、これは「真空の場合」という条件がある。水中や空気中では、それらの分子が障害物になり、理論上は物質の屈折率で割った値まで減速されてしまう。
この光は、旧ソ連の物理学者パーヴェル・アレクセーヴィッチ・チェレンコフによって発見されたため、この名がある。後の1937(昭和12)年、同じく旧ソ連の物理学者、イリヤ・ミハイロヴィッチ・フランクと、イゴール・エフゲニエヴィッチ・タムらにより論理的に解明され、この功績により、三人は1958(昭和33)年のノーベル物理学賞を受賞した。
この光は小柴昌俊によるカミオカンデやスーパーカミオカンデなどでは、円錐状に広がるチェレンコフ光として捕らえることができる。1987年、超新星爆発により発生したニュートリノが、カミオカンデの水にぶつかりチェレンコフ光が発生。自然発生したニュートリノの観測に史上初めて成功した。この成果で2002年にノーベル物理学賞を受賞した。
パーヴェル・チェレンコフ
パーヴェル・アレクセイヴィチ・チェレンコフ(Павел Алексеевич Черенков, 1904年7月28日~1990年1月6日)は、ソ連の物理学者。「チェレンコフ効果の発見とその解釈」により、1958年のノーベル物理学賞を受賞した。
彼はヴォロネジ州ニジニャ・チグラで生まれた。両親のアレクセイとマリヤは農夫であった。彼は1928年にヴォロネジ州立大学理数学部を卒業し、1930年にレベデフ物理学研究所の上級研究員となる。彼は後に研究班のリーダーに昇進した。1940年には理数学の博士号を得、1953年には実験物理学の教授に就任する。
1959年から光中間子プロセス研究所を率いた。彼は14年間教授のままであった。1970年にはソ連科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)の会員となる。
セルゲイ・ヴァヴィロフの下で働いていた1934年に、チェレンコフは放射線が照射された一本の水の入ったビンから青い光の放射を観察した。
チェレンコフは高エネルギー粒子の速度に関する発見をした。1934年物質中を運動する荷電粒子の速さがその物質中の光速より速くなると光を放射する現象を実験的に発見。
このチェレンコフ効果は原子核物理学での実験研究と宇宙線の研究に非常に重要である。1937年これを理論的に説明したのがフランクとタムである。
チェレンコフ効果は、高エネルギー粒子だけを識別し、他の粒子をそのまま通過させるような計数機に使われている。このチェレンコフ・カウンターは原子核研究では高速粒子の存在と速度の観測するための標準品となってきている。E・G・セグレはこれを使って反陽子を発見、1959年ノーベル物理学賞を受賞している。
また、スプートニク3にも積み込まれた。その後、チェレンコフは電子加速器の開発と建設の仕事、光子-原子核、光子-中間子反応の研究を行う。
イリヤ・フランク
イリヤ・フランク(Илья Михайлович Франк、1908年10月23日~1990年6月22日)は、ソ連の物理学者。
1958年、チェレンコフ効果の解明によって、パーヴェル・チェレンコフ、イゴール・タムと共にノーベル物理学賞を受賞した。
フランクは1930年にモスクワ大学を卒業した。1934年にチェレンコフが高速で運動する荷電粒子が水中で光を放射することを発見すると、フランクとタムはその現象を理論的に説明した。それは粒子が透明な媒質中をその媒質での光速度より早い速度で運動する時に起こるというものだった。 この発見は高速の素粒子の検出と計測のための新しい手法の開発につながり、原子核物理学の発達に寄与した。
フランクの功績は他にチェレンコフおよびタムとの電子放射の研究などがある。フランクはまたガンマ線と中性子線の研究を専門とした。彼は1944年にはモスクワ大学物理学部の部長となり、1946年にはロシア科学アカデミーの会員となっている。
フランクの最初の研究は、光ルミネセンスの分野と光化学である。1934年からレーデフ物理学研究所のD・V・スコベルツィン教授の研究室で原子核物理の研究を始める。
γ線の測定と応用に関係した他の問題を研究。さらに中性子物理学、軽原子核反応と中間子による原子核分裂の研究を行う。チェレンコフ効果の古典電磁気学による説明によって、1958年ノーベル物理学賞を受賞する。
イゴール・タム
イーゴリ・タム(И́горь Евге́ньевич Та́мм、1895年7月8日~1971年4月12日)はソビエト連邦、ロシアの物理学者である。1953年パーヴェル・チェレンコフ、イリヤ・フランクとチェレンコフ効果の発見とその解釈の功績によりノーベル物理学賞を受賞した。アンドレイ・サハロフとともにトカマク型のプラズマ閉じ込めの方式を考案した。
ウラジオストックに生まれた。1913年から1914年エジンバラ大学で学んだ後、モスクワ大学を1918年に卒業した。1924年から1937年の間モスクワ大学の教官を務めた。1934年のチェレンコフが液体中のガンマ線の通過による発光現象の発見をうけて、1936年イリヤ・フランクとこのチェレンコフ放射を理論的に説明した。この功績で1958年にノーベル物理学賞を受賞した。後に核融合の研究を行うレベデフ物理学研究所で研究し トカマク型の核融合炉の開発を行った。ノーベル賞のほか、1967年ロモノーソフ金メダルを受賞した。
タムの科学的活動への決定的影響は、マンデルシュタム教授によって与えられた。彼の指導のもので長年研究を続け、1944年のマンデルシュタムの死まで、共同の研究が続けられた。この初期、20年代から30年代にかけて行った研究は、量子力学をもとに固体中での光の散乱の仕方についてである。
その後、相対性理論と量子力学に注目し、原子核粒子の相互利用を解決する方法を発展させる。1930年電子の相対論、量子論を展開これにより、クライン・仁科の式の結果を確認。1931年~1933年にかけて金属の量子論を研究。また、フランクとともにチェレンコフ効果の理論的解釈と宇宙線中のシャワー理論を発展させた。
これにより、1958年チェレンコフ、フランクとともにノーベル物理学賞を受賞する。
第二次世界大戦後は、水素爆弾の融合反応を制御して平和的に利用することを研究。「素粒子の相対論的相互作用」「中性子の磁気モーメントについて」などを著している。
参考 Wikipedia: パーヴェル・チェレンコフ チェレンコフ放射
![]() | ニュートリノでわかる宇宙・素粒子の謎 (集英社新書) |
| クリエーター情報なし | |
| 集英社 |
![]() | 測り方の科学史? 原子から素粒子へ (測り方の科学史 2) |
| クリエーター情報なし | |
| 恒星社厚生閣 |


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