20世紀最大の発見
誰もが聞いたことはあるであろう「DNA」。細胞の核の中にあるひも状のものが生物の設計図であるとは驚くべきことだ。このDNAの二重らせん構造を発見したのが、ワトソンとクリックであり、二人は1962年のノーベル医学・生理学賞を受賞した。これは「20世紀最大の発見」といわれる。
ところが、2014年12月、86歳になるワトソンが自分のノーベル賞メダルを米ニューヨークのクリスティーズでオークションにかけた。存命中の受賞者のノーベル賞メダルが競売にかけられるのは異例のことだ。何があったのだろうか?
ワトソンは2007年10月、新著宣伝のため英国を訪問。英日曜紙サンデー・タイムズのインタビューに対し「アフリカの人々の知能は私たちと同じという前提で社会政策がつくられているが、すべての知能テストがそうではないことを示している」と発言。 「今後10年内に遺伝子が人間の知能に差をもたらしていることが発見されるだろう」と人種によって知能指数が決定されるという人種差別に当たる持論を堂々と展開した。

ワトソンの講演を予定していたロンドンの科学博物館は「科学的論争の限界を超えている」として講演会の中止を決定する騒ぎになった。ワトソンは米コールド・スプリング・ハーバー研究所会長職からの引退に追い込まれ、支援企業も離れていった。その後、講演会のお呼びはまったくかからなくなった。ワトソン氏は「あの発言で社会的に抹殺されてしまった」と英紙フィナンシャル・タイムズに嘆いている。
振り返れば、ワトソンのノーベル賞受賞には光と影がある。ワトソンはノーベル賞受賞後、「二重らせん」を出版、DNAの構造を解明する競争で繰り広げられた人間ドラマを赤裸々に描いて大きな話題をまいた。
この本の中で、暗愚な研究者として描かれた英国生まれのユダヤ人女性、ロザリンド・フランクリンが撮影したDNAのX線写真をワトソン氏らが見ていなかったら、DNAのあの美しい二重らせん構造は他の研究者によって先に発見されていたかもしれないのだ。
1962年の授賞当時、すでにロザリンド・フランクリンは病気で亡くなっている。ロザリンド・フランクリンについて調べてみた。石炭やグラファイト、DNA、タバコモザイクウイルスの化学構造の解明に貢献した立派な科学者である。
死人に口なしというが、もし1962年の時点で生きていたら当然、共同受賞するべき人物であった。「二重らせん」などという本を読んだら、当然名誉棄損で訴えたであろう。どうもフランクリンをイメージすると最近の小保方晴子氏に重なるところがあると感じた。
ノーベル賞受賞者が、必ずしも人格者であるとは限らないが、ワトソンのまわりの人たちには複雑な人間関係があった。
二重らせんモデルの歴史的背景
ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造にたどりつく背景には、2つの重要な研究があった。
第一は、エルヴィン・シャルガフ(Erwin Chargaff)による『DNAの塩基存在比の法則』である。彼が明らかにしたのは、DNA中に含まれるアデニンとチミン、グアニンとシトシンの量比がそれぞれ等しいという至極シンプルな法則である。しかし、ワトソンとクリックの仕事以前にはこの法則をうまく説明できるようなアイデアは存在しなかった。
第二は、モーリス・ウィルキンス(Maurice Wilkins)とロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin)による『X線結晶構造解析』である。X線結晶構造解析は、1912年のマックス・フォン・ラウエ(Max von Laue)によるX線回折現象の発見以降主として低分子の物質の構造解析に使用されてきたが、やがて高分子の結晶化が可能となり生体分子の解析にも応用されるようになった。
例えば、αヘリックスのようなタンパク質の二次構造については早くに立体構造が判明していたが、三次構造の決定は1958年のジョン・ケンドルー(John Kendrew)らによるマッコウクジラのミオグロビンを待たなければならなかった。
二重らせんモデル構築の参考となった写真はフランクリンが撮影したものである。彼女自身は、その写真もとにして『DNAは2、3あるいは4本の鎖からなるらせん構造をとっているだろう』というレポートを残している。
当時のフランクリンとワトソン、クリックの研究環境と人間模様については数多くの出版物に描かれている。このうち、『二重らせん』(ジム・ワトソン著)はワトソンの視点から、『ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光』(アン・セイヤー著)はフランクリン側の視点から描かれている。フランクリンの研究の公表が遅れた理由のひとつとして、B型以外にも取りうる構造(A型)があることを発見したため、その両方を比較解析したうえで公表することを意図していたとされている。ワトソンとクリックが提案した二重らせん構造は、B型のモデルのみであった。
なお、ワトソンとクリックがX線結晶構造解析を行ったと誤解されることも多いが、彼ら自身は構造解析を行っていない。彼らは、当時入手可能であった多くのデータをすべて満足させるモデルを構築することによって歴史に名を刻むこととなったのである。
ロザリンド・フランクリンとの関係
ロザリンド・フランクリンは、ロンドンのユダヤ人家系の銀行家の家庭に6人きょうだいの長女として生まれた。イギリスの物理化学者、結晶学者である。石炭やグラファイト、DNA、タバコモザイクウイルスの化学構造の解明に貢献した。
寄宿学校卒業後はケンブリッジ大学のニューナム・カレッジで学んだ。当時、ケンブリッジ大学は女子とユダヤ人の入学を認めてからそれほど時間が経過しておらず、いまだ女性が自由に研究に没頭する環境になかった。しかしロザリンドは研究にいそしみ、大学をトップクラスで卒業し、さらに大学院に進んだ。
第二次世界大戦中は石炭の結晶構造に関する研究をおこない、1945年、25歳のときケンブリッジで物理化学の博士号を取得している。ロザリンド・フランクリンフランス留学後の1950年、ロンドン大学のキングス・カレッジに研究職を得て、X線結晶学の研究に没頭した。X線結晶学とは、結晶へのX線照射による物質の散乱パターンを逆フーリエ解析を用いて解き、当該物質の分子構造を解明していこうというものである。彼女にあたえられた研究テーマは、X線によるDNA結晶の解析であった。
ロザリンドは順調に研究を進め、着手後およそ1年で、DNAには水分含量の差によって2タイプ(A型とB型)存在することを明らかにし、それを互いに区別して結晶化する方法を確立させた。また、そこにX線を照射して散乱パターンの写真撮影に成功していた。さらに、これらについてはデータを公表せず数学的解析を自力で進めていた。1953年には、DNAの二重らせん構造の解明につながるX線回折写真を撮影している。
しかし、フランクリンはDNAの研究をめぐり、彼女が来る以前からDNAを研究していたモーリス・ウィルキンスとしばしば衝突していた。そして、ウィルキンスはケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所に在籍していたジェームズ・ワトソンに彼女の撮影した写真を見せる。このことは、二重らせん構造解明の手がかりとなったものの、のちに大問題となった。
この時の事情について、ワトソンとウィルキンスの言い分は異なっている。ワトソンは、著書『二重らせん』で、ウィルキンスがフランクリンと険悪な関係に陥ったために写真を自分たちにこっそり見せた、と述べている。しかし、ウィルキンスは著書『二重らせん 第3の男』で、あくまでフランクリンのデータを閲覧する権限が自分にあり、フランクリンもそれを認めていた、と釈明している。
また、フランクリンは1952年に自分の非公開研究データをまとめたレポートを年次報告書として英国医学研究機構に提出しているが、その研究レポートは、英国医学研究機構の予算権限を持つメンバーの一人でありクリックの指導教官にあたる立場の研究者であるマックス・ペルーツが入手し、そこからクリックの手に渡った。マックス・ぺルーツは1962年、ワトソンとクリックと同じ年にノーベル化学賞を受賞している。
この非公開レポートには、DNA結晶の生の解析データだけでなく、フランクリン自身の手による測定数値や解釈も書き込まれており、DNAの結晶構造を示唆するものであった。この件についてクリックは何も語っていない。
1962年にワトソン、クリック、ウィルキンスがDNAの構造解明によりノーベル生理学・医学賞を受賞したが、フランクリンは1958年に37歳の若さで卵巣癌と巣状肺炎により死亡したため、受賞の栄誉は得られなかった。一説には、実験のため無防備に大量のX線を浴びたことが癌の原因だといわれている。
ジェームズ・ワトソン
ジェームズ・デューイ・ワトソン(James Dewey Watson, 1928年4月6日~ )は、DNAの分子構造における共同発見者の一人として知られる、アメリカ出身の分子生物学者である。ワトソン及び、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンスらは、「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」に対して、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
イリノイ州シカゴ生まれ。1947年にシカゴ大学卒業後、1950年に米インディアナ大学大学院で生物学のPhDを取得。
グアニン (G) と シトシン (C)、アデニン (A) と チミン (T) の四つの塩基とデオキシリボース(糖)とリン酸基の分子模型を用い、DNA構造の研究をしていた際に、ロザリンド・フランクリンが撮影したX線回折の写真をモーリス・ウィルキンスから紹介された。このX線回折のデータを参考にして、フランシス・クリックらと議論の末、DNAの二重螺旋構造を発見した。そのことが後の分子生物学の飛躍的発展に繋がり、彼はクリックやウィルキンスと共に1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
1956年から1976年には、ボストンのハーバード大学生物学専攻にて教授をつとめ、分子生物学を広めた。また、1968年から1993年にかけてニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所の所長、1993年から2007年までは会長をつとめた。1989年から1992年には、NIH(国立衛生研究所)の国立ヒトゲノム研究センター初代所長もつとめる。全米科学アカデミー及びイギリス王立協会(ロイヤルソサイエティ)会員。大統領自由勲章を受勲。ウッズホール海洋生物学研究所の在籍者の一人。
2007年5月31日には、ベイラー医科大学と米バイオ企業「454ライフサイエンシズ」が共同で解析したワトソンの遺伝子情報が、国立バイオテクノロジー情報センター(NCBI)のデータベースに公開された。誰のものかが明らかにされているゲノム情報が公開されたのはこれが史上初である。
2007年の人種差別発言によって名声は地に堕ち、学会とも距離を置かれ、名声を取り戻すために大学に寄付をしようにもノーベル賞メダルを競売に出さざるを得ないほど経済的に困窮。2014年12月4日、DNAの二重らせん構造の発見で受賞したノーベル生理学・医学賞のメダルが、ニューヨークのクリスティーズで競売に掛けられ、475万7000ドル(当時のレートで日本円約5億4700万円)で落札された。
存命のノーベル賞受賞者のメダルが競売されたのは史上初めてとなる。当初落札者は公開されていなかったが、ロシアの実業家で富豪であるアリシェル・ウスマノフが、自身が落札者だったことを明らかにした上で、「博士は史上最も偉大な生物学者の一人。メダルは自分で持っているべきだ」として無償で返還することを申し出た。
なお共同受賞したクリックのメダルも死後ではあるが2013年に競売にかけられ落札されている。
フランシス・クリック
フランシス・ハリー・コンプトン・クリック(Francis Harry Compton Crick, 1916年6月8日 - 2004年7月28日)は、イギリスの科学者。DNAの二重螺旋構造の発見者。王立協会フェロー。
フランシス・クリックは、ノーザンプトン近郊のウェストン・ファヴェルという小さな村で生まれ育った。父ハリー・クリックと母アンネ・エリザベス・クリック(旧姓:ウィルキンス)の間に生まれた初めての子供。父ハリーは叔父と共にこの小さな村ウェストン・ファヴェルで、靴やブーツを製造する工場を営んでいた。
小さいころから科学へ興味を抱き、多くのことを読書により学んでいた。家族は穏やかな信仰を持ち、クリックに信仰を強いたわけではなかったが、しかし教会とは反りが合わなかった。両親に連れられ教会に通っていたクリックは、12歳のとき「もう教会にはいきたくない」と母親に打ち明けて、それ以来懐疑主義者、強く無神論に傾いた不可知論者となった。
クリックは、ノーザンプトンのグラマースクール(現在のノーサンプトン男子高校)を経て、14歳のときロンドンのミル・ヒル高校に奨学生として入学。そこで数学・物理学・化学に親しむ。21歳の時、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで物理学の修士号を獲得。その後、物理学専攻でケンブリッジ大学キーズ校へ進学する。
しかしながらキーズ校はクリックがケンブリッジの中で行きたいと思っていた所ではなかった。これは恐らくクリックのラテン語の成績があまり良くなかったためである。しぶしぶとPh.D.の研究を開始。研究テーマは「高温の水の粘度の測定に関する研究」。彼はのちに、この研究のことを、「想像しうる最も退屈な研究だった」と自嘲気味に語っている。
第二次世界大戦
物理学者としての道を順調に歩み始めていたクリックだったが、そのキャリアは第二次世界大戦の勃発により変更を余儀なくされる。第二次大戦中、クリックは英国海軍機雷研究所に勤務し、磁気、音響反応型の機雷の設計を行う。またドイツの掃海艇に対抗するための新型機雷の設計にも携わっていた。
1947年、戦争が終結してから、クリックは生物学を学び始める。これは、物理学から生物学に転向して成功を納めていたジョン・ランドールといった物理学者たちの影響が大きかった(ランドールは、レーダーのキーテクノロジーである空洞マグネトロンを開発して、イギリスを勝利に導いたことでも知られている)。そして、クリックは、物理学者の訓練を受けた生物学者として、次第に生物学の世界で頭角を現していくことになる。
生物学に転向したクリックは、たった6年足らずで世界的な論文の執筆者となってしまう。1953年に科学雑誌Natureにたった2ページの論文を投稿する。DNAの二重螺旋構造を示したこの論文は、古くから知られていた遺伝という現象を、具体的な物質的基盤をもった科学的現象である、と決定づけた。その意味で、科学史上の記念碑的論文となる。この功績により、論文投稿から9年後の1962年、クリックはジェームズ・ワトソン、モーリス・ウィルキンスとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
2004年7月28日、大腸癌のためアメリカ合衆国、カリフォルニア州サンディエゴの病院で死去。88歳没。
モーリス・ウィルキンス
モーリス・ヒュー・フレデリック・ウィルキンス (Maurice Hugh Frederick Wilkins, 1916年12月15日 - 2004年10月5日) はイギリスの生物物理学者。X線構造回折の分野で多くの業績を残した。
ウィルキンスはニュージーランドのパンガロアで生まれ、6歳のときに家族とともにイギリスに引っ越す。ケンブリッジのセントジョンズ大学で物理学を専攻し、1940年にバーミンガム大学で博士号を得る。第二次世界大戦中にはカリフォルニア大学バークレー校でマンハッタン計画に参加する。
戦後、核物理学から離れ、ロンドンのキングス・カレッジ・ロンドンで同僚のロザリンド・フランクリンらとともにX線回折によるDNAの構造研究を始めた。ケンブリッジ大学のキャベンディッシュにいたフランシス・クリックとジェームズ・ワトソンは、ウィルキンスらのX線回折の写真を参考にして、DNAの二重螺旋構造を推定し、フランクリンを除き、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞することになる。X線回折写真の業績はフランクリンによるものが大きいが、彼女は1958年に死去している。
2004年に87歳で死去するまで、キングス・カレッジ・ロンドンの生物物理学教授をつとめ、染色体のDNAの存在様式を研究していた。
参考 Wikipedia: ジェームズ・ワトソン フランシス・クリック
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ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実 |
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二重らせん (講談社文庫) |
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