素粒子の世界を求めて

 ドルトンの原子説が正しいことが分かると、今度は原子よりも微細な原子核の世界を探索することになったのは自然な流れだった。

 次に観察しようとしているのは、原子核よりも小さな素粒子だった。物理学者は原子核に粒子をぶつけることによって素粒子を調べる。原子核をその構成要素にバラバラにするエネルギーを持った粒子をぶつけるのが望ましい。そして、バラバラになった素粒子を観察する道具が必要だ。

 その道具が霧箱や泡箱と呼ばれるものだ。霧箱は、もともとは1894年ころにスコットランド人の科学者で、雲、霧、雨の物理に興味を持っていたC.T.R.ウィルソン博士によって発明された装置である。この装置の発明により電気を帯びた粒子(荷電粒子)の通過した跡(軌跡)が目に見えるようになり、反応の写真を撮ることもできるようになった。



 その原理は飛行機雲の生成と同じだ。アルコールの蒸気をたっぷり含んだ空気をドライアイスで冷やし、アルコールの蒸気が液体に戻りやすい状態を作っておく。その過飽和状態にある空気に素粒子が通過することで、空気のイオンが生じ、それにアルコールの蒸気が集まりアルコールの水滴になる。それが、キツネの尾のようなアルコールの雲として観測され、目に見えないアルファ粒子が通過していった軌跡が見える。

 しかし1950年代、原子核や素粒子の研究で加速器が活躍するようになると、霧箱による観測では対応できなくなってきた。加速器による強いビームに耐え、2秒に1回といった現象を記録できるようにならなければいかなかった。そこで発明されたのが気体の替わりに液体を使う泡箱(あわばこ)だった。

 気体の代わりに液体を使うことで、ビームと媒質との衝突の頻度が増え、反応現象をより捉えやすくなった。水滴の形成の代わりに泡の生成を利用する。

 沸点以上に加熱された液体はその液体が不純物を含んでいなければ泡は発生しない。そこに電気を帯びた粒子がやってくると,液体の原子・分子は電子をはぎ取られ、粒子の飛跡に沿ってイオンの列ができる。そのイオンにそって泡が次々と発生する。その泡の直径は1mm以下のため、軌跡の測定を精密に行えるようになった。


 液体水素による泡箱の発明

 米国のドナルド・クレーザー博士はいろいろな液体や加熱法をトライし、その完成に何年も費やした。初期の泡箱は液体プロパンや、液体ペンタンを利用し、その装置の直径も20~30cm程度。クレーザー博士は1960年に泡箱の発明によりノーベル物理学賞を受賞している。

 泡箱は加速器のビーム中に置かれ、一枚の写真にたくさんの粒子衝突の軌跡を写した。また泡箱には磁場がかけられ、泡による軌跡の曲がり具合から粒子の運動量を正確に測定した。入射粒子の数では50個程度まで入射されることもあった。粒子の入射に同期してフラッシュがたかれ、カメラが次々と粒子の反応を記録した。毎年100万枚もの写真が撮られ、原子核や素粒子の反応の詳しい性質が調べられた。

 泡箱実験は粒子を大量に生産し観測する時代を築き、1968年には液体水素を用いる水素泡箱による粒子の多重発生現象(共鳴状態)の研究により米国のルイス・アルヴァレズ博士がノーベル賞を受賞した。当時はそれらの多種多様な粒子がすべて素粒子と考えられたこともあり、「素粒子の動物園」とも表現された。


 1968年ノーベル物理学賞

 この年の授賞理由で強調されている水素泡箱。泡箱については、これを発明したドナルド・グレーザーがノーベル物理学賞を受賞(1960年)している。

 泡箱とはそれまで放射の1つである、荷電粒子の観察に使用されていた霧箱の代わりに液体を入れるようにしたもの。用途は粒子が通過した後を可視化すること。もちろん粒子自体を見ることはできないが、通過の痕跡が見えるだけでも大きな進歩だ。

 霧箱から泡箱に変えることで、加速器の力やより多くの軌跡を確認できるようになったが、アルヴァレズが内容物を初期の液体プロパンなどから、液体水素に変えたことが分岐点となった。

 さらなる精密な測定が可能になり、粒子の多重発生現象、つまり共鳴状態の研究に貢献することになったのである。これらの粒子がすべて素粒子ではないことが判明したのはその後のことだが、泡箱は素粒子の動物園という異名を得ることになった。1970年にはアメリカのアルゴンヌ国立研究所が泡箱を用いて、史上初のニュートリノ観測に成功している。

 また、地質学者である息子とともに、恐竜絶滅の原因を隕石衝突に見出したことでも知られる。地殻にはほとんど存在しないはずのイリジウムが、白亜紀第三紀境界層において数十倍の濃度を示していることが根拠となっている。

 1980年に唱えたこの説は、1991年に再認識されたメキシコ・ユカタン半島の巨大クレーターが裏付けとなり、現在では強く支持されている学説の一つとなっている。


 ルイス・ウォルター・アルヴァレズ

 ルイス・ウォルター・アルヴァレズ(Luis Walter Alvarez, 1911年6月13日・サンフランシスコ~1988年9月1日)はアメリカの物理学者、ノーベル物理学賞受賞者である。専門分野以外で恐竜の隕石衝突による絶滅説を提出したことでも有名である。線形加速器の形式の一つ「アルバレ型リニアック」にも名前を残している。祖父はスペイン出身の医学者、ルイス・フェルナンデス・アルバレス(英語版)。

 サンフランシスコ出身。1936年にシカゴ大学でPh.D.を取得したのち、アーネスト・ローレンスのもとで放射線研究所(現在のローレンス・バークレー国立研究所)に勤務。電子捕獲の研究を行う。

 1943年から1944年にはマンハッタン計画に参加し、シカゴ大学とロスアラモス研究所で原子爆弾の爆縮レンズに使用する起爆電橋線型雷管を開発した。

 1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下の際には観測機B-29グレート・アーティストに搭乗し、人類初の実戦での核兵器使用を目撃している。また、続く8月9日の長崎市への原子爆弾投下の際にも、観測機B-29グレート・アーティストに搭乗している。

 長崎市上空で観測のために投下したラジオゾンデに、カリフォルニア大学の放射線研究所において同僚であり、当時の東京帝国大学教授嵯峨根遼吉に宛て、核兵器の威力についてよく理解する物理学者である嵯峨根が、日本国政府に降伏の働きかけをするように勧める手紙を同封していた。

 1968年、水素泡箱の利用による共鳴状態の発見など、素粒子物理学への貢献によりノーベル物理学賞を受賞した。受賞理由は「水素泡箱による素粒子の共鳴状態に関する研究」

 1980年、地質学者である息子のウォルターと白亜紀から第三紀の境界の粘土層に含まれるイリジウムの濃度が高いことを見出し、隕石衝突による大量絶滅の説を発表した。1987年、エンリコ・フェルミ賞受賞。

 その他宇宙線と放電箱によるピラミッドの透視や、ジョン・F・ケネディ暗殺事件についての見解など、広い範囲の分野に好奇心を示した。

 1988年に癌のためバークレーで死去し、遺灰はモントレー湾に散骨された。


 広島・長崎の原獏投下を観察した物理学者

 アルヴァレズの初期の研究は、主に光学と宇宙線に関するものである。宇宙線の東西効果の共同発見者である。その後数年間原子核物理学を研究。1937年原子核によるK電子捕獲の現象が存在することを初めて実験的に示す。また、非常に遅い中性子のビームを開発。この方法を使い、ピッツァーとともにオルソとパラ水素中の中性散乱についての研究をする。

 そして、F.ブロッホと共同で中性子の磁気モーメントを測定。ヴィーンズとともに最初の198Hgランプをつくる。これは標準局により長さの普遍的な標準として現在の形に開発された。

 戦争直前にコルキーとともにトリチウムの放射能を発見。戦争中はマサチューセッツ工科大学に在籍、ここで、マイクロ波初期警報システム、イーグル高空爆発システム、民間用の盲目着陸システムの3つの重要なレーダーシステムをつくる。

 第二次世界大戦中はマンハッタン計画にも参加した。ロス・アラモス研究所で、プルトニウム爆弾を爆発させる雷管を開発した。広島・長崎に原爆を投下した空爆チームの観測機に搭乗している。

 1947年に完成したバークレーの40フィート陽子線形加速器の設計と建設を行う。

 1951年に荷電交換加速器を最初に提案。これによりタンデム・パンデグラーフ加速器の開発が始まる。それ以後カリフォルニア大学において高エネルギー物理学の研究に従事。多数の素粒子が彼の研究グループによって発見されている。

 1967年以降は気球と超伝導電磁石を使った宇宙線の研究を行う。1968年素粒子物理学に対する貢献によりノーベル物理学賞を授与されている。


参考 Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ウォルター・アルヴァレズ


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