ウイルスと遺伝子工学
今日、ウイルスというと、インフルエンザウイルスのような非常に小さな病原体をイメージするが、遺伝子工学の分野では重要な発見、発明をするのに使われてきたことはご存じだろうか?
デルブリュックはベルリン大学の歴史学教授の家に生まれる。ちなみに母親の祖父は19世紀の高名な有機化学者リービッヒだった。植物の成長には窒素・リン酸・カリウムの3要素が必要であるという「リービッヒの最小律」を提唱した。
20世紀のある時期、学者の間で物理学から生物学へ転向する例が増えた。物理学の手法を生物学へ応用しようとする狙いがあった。デルブリュックもその一人である。
ナチス政権を嫌ったデルブリュックは、アメリカへ移住。1939年カリフォルニア工科大学で、ウイルスの研究を行い。ウイルスの一つであるバクテリオファージに関する研究の中で、ウイルスの複製メカニズムについての論文を発表する。細胞は2倍2倍で増殖するが、ウイルスは細胞と違い、一段階のステップで細胞内で多量に増殖できることを発見した。
さらにノーベル賞を共同受賞するルリアと「ルリア-デルブリュックの実験」で細菌のウイルス抵抗性は適応ではなく「突然変異」であることを発見した。これはダーウィンの説く突然変異による自然淘汰説が、ウイルスレベルでも適用されることを明らかにしたもので、現在もよく話題になる「耐性菌」という抵抗力の強い細菌の存在理由としても説明されている。
イタリアのローマ大学で学んだルリアはユダヤ人であったためにムッソリーニ政権を避けてアメリカに移住する。そこでルリアはデルブリュックとハーシーに出会う。1942年に彼はデルブリュックとともに「ルリア-デルブリュックの実験」を行った。後にルリアはDNAの鎖を切断する酵素「Ⅱ型制限酵素」を発見している。これは現在でも、遺伝子工学の実験で幅広く使われている。
タバコモザイクウイルスの結晶化に成功したスタンリーは、1946年にノーベル化学賞を受賞したが、スタンリーはウイルスが自己増殖能をもつ巨大なタンパク質であると考えた。しかし、翌年に少量の「RNA」が含まれることが発見されている。当時は遺伝子の正体は未解明であり、遺伝子「タンパク質説」が「核酸説」より有力とされていた。当時は、病原体は能動的に病気を引き起こすと考えられていたので、結晶になるような分子ロボット(ノマシン)で我々が病気になるということに科学者たちは驚いた。
遺伝子の正体は何か。その問いに答えを出したのがハーシーである。ミシガン大学で学んだハーシーはルリア、デルブリュックと共同実験で1940年にウイルスの1種であるバクテリオファージどうしが、1つの細胞内で遺伝情報を交換することを発見した。
1952年に行われたハーシーとチェイスのウイルスを使った「ハーシーとチェイスの実験」ではウイルスの持つ「DNA」が遺伝子の役割を持つことを世界で初めて明らかにした。これを契機にDNA・RNAなどの遺伝子研究や、ウイルスの研究が進むようになった。
ノーベル賞が授与されたのは、共同研究を行ったルリア、デルブリュック、ハーシーの 3人でチェイスが選ばれなかったのは残念だが、ノーベル賞共同受賞者は3人までという規定があるためである。
ウイルスの複製メカニズムの解明は単に病理学見地だけでなく、遺伝の謎を解く鍵の1つである。1969年のノーベル生理学・医学賞はこうした重要な研究に対して贈られた。
マックス・デルブリュック
ノーベル賞受賞者 受賞年:1969年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:ウイルスの増殖機構と遺伝物質の役割に関する発見
マックス・ルートヴィヒ・ヘニング・デルブリュック(Max Ludwig Henning Delbrück、1906年9月4日 - 1981年3月9日)はアメリカ合衆国の生物物理学者。1969年度のノーベル生理学・医学賞受賞者。スウェーデン、カロリンスカ研究所関係者。
ドイツのベルリンで生まれた。父のハンス・デルブリュックはベルリン大学の歴史学者で、母はユストゥス・フォン・リービッヒの孫娘だった。
デルブリュックは宇宙物理学を勉強していたが、ゲッティンゲン大学で理論物理学に転向した。1930年に博士号を取得すると、彼はイングランド、デンマーク、スイスなどを旅した。この途中でヴォルフガング・パウリ、ニールス・ボーアらと出会うことによって彼は生物学に興味を持った。
1932年にベルリンに帰国し、リーゼ・マイトナーの助手になった。彼は生物学を追求するために1937年にアメリカ合衆国へ移住し、カリフォルニア工科大学でショウジョウバエの遺伝学の研究を始めた。
また彼は、細菌やウイルス(バクテリオファージ)の研究も行った。1939年、彼はE.L.エリスと共著でバクテリオファージの成長についての論文を書き、その中でウイルスは細胞でできた生物とは違って、「一段階」で複製することを示した。
彼は1941年にメアリー・ブルースと結婚し、4人の子供をもうけた。
第二次世界大戦中、デルブリュックの兄(弟?)ユストゥス・デルブリュック、姉(妹?)エミー・ボンヘッファー、その夫クラウス・ボンヘッファー(神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの兄(弟?))はナチスに対する抵抗運動に参加し、クラウスとディートリヒはヒトラー政権末期に処刑された。
デルブリュック自身は大戦中もアメリカ合衆国に留まり、ナッシュビルのヴァンダービルト大学で物理学を教えながら研究を続けた。1942年、彼はインディアナ大学のサルバドール・エドワード・ルリアとともに、細菌のウイルス抵抗性は適応の結果によるものではなく、突然変異によるものであることを示した。
ルリア-デルブリュックの実験と呼ばれるこの研究によって、彼らはアルフレッド・ハーシーとともに1969年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。同年、サルバドール・エドワード・ルリアと共にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を受賞した。
1950年代より、彼は生物物理学の手法を使って感覚生理学の研究を始めた。また彼はケルン大学に分子遺伝学の研究所を立ち上げた。
デルブリュックは、20世紀に流行った物理学から生物学へ転向する潮流の中で、最も人々に影響を与えた人物の一人である。物理学をベースとした生物学の考え方は、エルヴィン・シュレーディンガーの著書「What Is Life?」から影響を受けている。
この本はフランシス・クリック、ジェームズ・ワトソン、モーリス・ウィルキンスにも大きな影響を与えた。1940年代に彼は、コールド・スプリング・ハーバー研究所にバクテリオファージ遺伝学の研究所を作った。デルブリュックの推進した「ファージ・グループ」は、初期の分子生物学の発展に大きな役割を果たした。
1967年には王立協会外国人会員に選出。またアメリカ物理学会によって「マックス・デルブリュック賞」が設けられている。
アルフレッド・ハーシー
ノーベル賞受賞者 受賞年:1969年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:ウイルスの複製機構と遺伝的構造に関する発見
アルフレッド・デイ・ハーシー(Alfred Day Hershey、1908年12月4日 - 1997年5月22日)はアメリカ合衆国の微生物学者で遺伝学者。1969年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
ミシガン州のオーウォソーで生まれ、ミシガン州立大学で1930年に化学の学士号を、1934年に博士号を取得した。博士号取得後、短期間セントルイス・ワシントン大学で微生物学の研究を行った。
彼は1940年にイタリア系アメリカ人のサルバドール・エドワード・ルリアと、ドイツ人のマックス・デルブリュックとともにバクテリオファージの実験を行い、2つの異なった株のバクテリオファージが1つの細菌に感染すると、2つのウイルスは遺伝情報を交換することを発見した。
彼は1950年にニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所に移り、ワシントン・カーネギー協会の遺伝学分野の研究に加わった。そこで1952年に、彼はマーサ・チェイスとともに非常に有名なハーシーとチェイスの実験を行った。
この実験によって、遺伝情報を保持する本体がタンパク質ではなくDNAであるとする、新たな証拠が加わった。 彼は1962年にワシントン・カーネギー協会の責任者となり、1969年にはウイルスの複製と遺伝機構の解明により、ルリア、デルブリュックとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
ハーシーには、妻ハリエットとの間に、一人息子のピーターがいる。 ハーシーの死後、ファージ研究者のフランク・ストールは次のように語っている。「我々がしばしば呼ぶファージ教会には、デルブリュック、ルリア、ハーシーの3人が三位一体で祀られている。権威的なデルブリュックは法王、勤勉なルリアは司祭、そしてハーシーは聖人である。」
サルバドール・エドワード・ルリア
ノーベル賞受賞者 受賞年:1969年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:ウイルスの増殖機構と遺伝物質の役割に関する発見
サルバドール・エドワード・ルリア(伊: Salvador Edward Luria、1912年8月13日 - 1991年2月6日)は、イタリアの微生物学者。ファージの研究の草分けであり、分子生物学を創始した一人でもある。マックス・デルブリュック、アルフレッド・ハーシーとともに1969年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
ルリアは「サルヴァトーレ・エドアルド・ルリア(Salvatore Edoardo Luria)」として、イタリアのトリノでユダヤ人の家庭に生まれた。1935年にトリノ大学医学部を卒業し、1936年から37年にかけては衛生兵としてイタリア陸軍に従軍した。その後、ローマ大学で放射線医学の授業を受け持った。ここでマックス・デルブリュックの遺伝子に関する理論を知り、細菌に感染するウイルスであるバクテリオファージを使ってその理論を検証する実験方法を考え始めた。
1938年にルリアはアメリカでフェローとして実験できることになった。しかしすぐにベニート・ムッソリーニのファシズム政権は、ユダヤ人がフェローとして研究に従事することを禁止した。ルリアはアメリカでもイタリアでも研究を続ける財政的基盤を失い、1938年にフランスのパリに移住した。1940年にナチスがフランスに侵攻してくると、ルリアは自転車でマルセイユまで走り、アメリカ合衆国への移民ビザを手に入れることができた。
ファージの研究
1940年9月12日にニューヨークに到着すると、ルリアもすぐにファーストネームとミドルネームを改名した。ルリアのローマ大学時代からの知人であったエンリコ・フェルミの助けもあって、ルリアもロックフェラー財団のフェローとしてコロンビア大学で研究を続けることができた。ルリアはすぐにデルブリュックとハーシーに会い、彼らは共同してコールド・スプリング・ハーバー研究所やデルブリュックの研究室があるヴァンダービルト大学で実験を行った。
ルリアとデルブリュックが1943年に行った、有名なルリア-デルブリュックの実験は、細菌の遺伝もジャン=バティスト・ラマルクではなくチャールズ・ダーウィンの説に基づくことを示し、突然変異を起こした細菌はウイルスが存在しなくてもウイルス耐性を持ちうることを示した。細菌にも自然選択説が作用するという考えは、例えば細菌の抗生物質耐性も説明しうる、深い結論だった。
1943年から50年にかけて、ルリアはインディアナ大学で働いた。ルリアの研究室の第一期生には、DNAの構造を解明したジェームズ・ワトソンがいる。ルリアは1947年にアメリカに帰化した。
1950年、ルリアはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に移った。ここで大腸菌の培地がどのようにファージの増殖を防いでいるかを観察している際、ルリアもある種の細菌がDNAを特定の配列で切断する酵素を造っていることを発見した。これらの酵素は制限酵素として知られるようになり、分子生物学には欠かせないツールとなっている。
晩年の研究
1959年、マサチューセッツ工科大学(MIT)の微生物学部門の長となった。ここでは、ルリアは研究の中心をファージから細胞膜やバクテリオシンの研究に移した。1963年にサバティカルとしてパリのパスツール研究所で働いている時、ルリアはバクテリオシンが細胞膜の機能を破壊することを発見した。
MITに戻ると、ルリアの研究室ではバクテリオシンは細胞膜に穴を開けてイオンを通し、細胞の電気化学勾配をなくすことによって細胞膜の機能を破壊していることを発見した。1972年に、ルリアはMITのガン研究センターの長となった。この研究センターで、ルリアはデビッド・ボルティモア、利根川進、フィリップ・シャープ、ロバート・ホロビッツら、後にノーベル賞を受賞する多数の科学者を育てた。
ノーベル賞の他にも、ルリアは多数の賞を受けている。1960年には全米科学アカデミーの会員に選出され、1968年から69年にかけてはアメリカ微生物学会の会長を務めた。1969年にはマックス・デルブリュックと共にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を受賞。
1974年には人気を呼んだ科学の啓蒙書『分子から人間へ ― 生命:この限りなき前進』で全米図書賞を受賞している。生涯を通じて、ルリアは政治的な発言も積極的に行ってきた。1957年にはライナス・ポーリングとともに核実験への抗議集会を開催した。
またベトナム戦争には反対、労働組合の結成には賛成の立場を取ってきた。1970年代、ルリアは遺伝子工学の論争に巻き込まれ、ほどよい見通しに立って妥協の立場を取り、極端な禁止や全面的な自由よりはある程度の規制があるべきとした。数々の政治的な発言のせいでルリアは1969年の一時期、アメリカ国立衛生研究所の助成金対象から外されていた。
1991年2月6日、マサチューセッツ州のレキシントンで心臓発作のため没した。
参考 Wikipedia: アルフレッド・ハーシー サルバドール・エドワード・ルリア マックス・デルブリュック
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