植物状態の人間とは何か?

 植物状態とは、呼吸や体温調節、血液循環などの生命維持に必要な脳幹は機能しているが、頭部の外傷や脳への血流の停止などが原因で、大脳の働きが失われて意識が戻らない状態のことをいう。遷延性意識障害(せんえんせいいしきしょうがい)ともいう。

 植物状態の患者は、脳全体の機能が失われて元に戻らない脳死状態と混同されることが多いが、脳幹が機能しているので、生命維持機能がある点で脳死状態とは異なる。20年ほど前、私のいとこも過労のため脳溢血を起こし、一時植物状態に置かれたことがあった。このときは、脳幹だけは機能していたが、脳のほとんどの機能が失われたため親族の意思で生命維持装置が外された。

 日本脳神経外科学会では植物状態を、自力で動けず、食べられず、失禁状態で、意味のある言葉をしゃべれず、意思の疎通ができず、目でものを認識できない、という状態が3ヶ月以上続く場合と定義している。しかし、患者の認知の程度についての判断に、さまざまな解釈があるため、世界的な基準はいまだ確立されていない。

 植物状態からの回復については、頭部の外傷が原因の場合は12ヶ月、脳への血流の停止が原因の場合は3ヶ月以内に意識が戻らないときには、植物状態が永続することが多いといわれる。しかし、きめのこまかい患者の観察と患者へのよびかけによって、症状が緩和された例も報告されている。

 有名人の事例として、F1レーサーであったミハエル・シューマッハは2013年12月29日に、スキー中の事故で脳を損傷し、意識が回復せず遷延性意識障害状態になったが、事故から5か月と18日(169日)後の2014年6月9日に意識を回復してリハビリ病院に転院してリハビリを開始し、事故から8か月と11日(254日)後の2014年9月9日に退院して自宅に戻り在宅療養・リハビリに移っており、現在も自宅療養中である。

 15年間植物状態の男性の意識が回復 

 シューマッハの場合は植物状態が続いたのは5ヶ月。だが植物状態が1年以上続いた場合、回復の見込みはないとこれまで考えられてきた。

 だからこそ、自動車事故後に15年間植物状態だった男性が意識を取り戻したというニュースは驚きを持って受け止められた。脳は、そのように機能するはずがないのだ。

 フランスの研究者が、ある装置を35歳の患者の胸部に埋め込み、首を通り腹部まで伸びる脳神経「迷走神経」に電気を流し刺激した(VNS)。この刺激療法を毎日1カ月間続けた結果、あらゆる望みが断ち切られていた男性は、驚くべき回復を見せた。この研究は学術誌「Current Biology」に発表された。2017年のことだった。

 この治療法に関してわかっていることや、植物状態の患者にとってどのような意味を持つかなどを紹介しよう。

 植物状態にある人間は自力での呼吸が可能で、目を覚ましたりすることもある。だが、周囲の状況を認識できず、意思疎通もなく、外界からの刺激に反応する意識もない。フランスのリヨンにあるマルク・ジャンヌロー認知科学研究所所属で、今回の研究を率いたアンジェラ・シリグ氏は、「意識がこの世に存在しない状態」と説明する。覚醒と意識が完全に切り離されている状態とも言える。

 対して、意識がなく、覚醒もしていないのが「昏睡」状態で、この場合は回復して完全に意識を取り戻せることがある。また、意識がしっかりあるのに、意思疎通を取る能力が失われた状態は「閉じ込め症候群」と呼ばれる。

 定説覆した迷走神経への電気刺激

 男性は15年経って突然意識を回復したのだろうか?

 そうではない。テレビドラマのように劇的なものではなかったが、その回復には目を見張るものがあった。1カ月にわたって迷走神経を刺激した後、男性は首を右から左へ動かすというような、簡単な指示に反応するまでになった。専門的には、ごくわずかだが確実に意識が認められる「最小意識状態」に移行したといえる。

 セラピストが本を朗読しているのを聞けば、以前よりもずっと長い時間目覚めていることができる。また、脅威を察知して反応もする。誰かが突然目の前に顔を近づけた時に、目を大きく見開いたという。植物状態の患者は、そのように個人のスペースが侵されても、何の反応も示さない。男性の回復は、脳の画像でも確認された。

 迷走神経を刺激してみようと思ったのはなぜだろうか?

 一般に迷走神経は、覚醒や注意に関係している。この神経を活性化させると、覚醒や注意、闘争・逃走反応に深く関わっている「ノルアドレナリン作動性」の神経経路に信号が発生する。迷走神経刺激は、てんかん患者に一般的に施されている療法で、うつ病や神経障害の治療に使われることもある。また、外傷性脳損傷を受けたばかりの患者に試験的に使用されたこともある。

 米ミネソタ大学神経外科学部の准教授で、軽い外傷性脳損傷患者に迷走神経刺激療法を施しているアズマ・サマダニ氏は、「このような研究を、強く支持します」とメールに書いた。「外傷が関係する意識障害のメカニズムは完全には理解されていませんが、この症例の場合、迷走神経への刺激は効果を約束しているようです」

 閉じ込め症候群から最小意識状態に移る

 この研究の成果は目覚ましいものではあるが、ほんの一例に過ぎない。迷走神経刺激がもたらす可能性をより深く理解するため、研究者はさらに多くの植物状態にある患者を対象に効果を確かめる必要がある。

 より多くの患者で効果が実証されれば、限定的に意識のある患者に、わずかでも自由な意志と意思疎通能力を与えられるようになるだろう。損傷を負った直後の方が治療効果は高いようだと、シリグ氏は付け加えた。

「刺激を与えるのが早ければ早いほど、身体機能に影響を与え、生理的平衡をある程度回復させることができるでしょう」

 意識が戻り、自分の状況を多少なりとも理解した男性にとって、今の状態は本当に好ましいと言えるのだろうか?

 それに答えるのは難しい。男性の家族は、男性の病状について公にコメントすることを避けている。だが、シリグ氏は前向きだ。「他人が自分に何をしているのか、何を語りかけているのか、全く気付かないよりは理解できた方が良いです。私だったら、意識があった方が良いと思うでしょう」

 脊髄への電気刺激では下半身まひの患者が歩けるように

 2018年には、電気刺激によって、下半身まひの患者3人が再び歩けるようになったことが、学術誌「ネイチャー」に発表された。3人は4年以上前に重い脊髄損傷を負い、脚がほとんど動かなくなっていた。

 スイス連邦工科大学の神経科医グレゴワール・クルティーヌ氏らの研究チームは、3人の体内に電気パルスを発生する無線装置を埋め込み、脊髄を刺激した。それから1週間もしないうちに、彼らは立ち上がり、支えを使った歩行にも成功。5カ月間の理学療法と訓練の後、3人は自分の意思で脚の筋肉をコントロールし、1時間も歩けるようになったという。

 同じ時期、同様の治療法による成果が他にも報告されていたが、「ネイチャー」に発表された研究の特徴は、タブレットを使ってリアルタイムに刺激をコントロールできるようなモバイルアプリを開発した点だ。この装置により、患者自身が研究に参加していないときにも自宅で治療をコントロールできた。

 リハビリテーション医学の専門家で、米ワシントン大学のチェット・モリッツ准教授は、こうした数例の結果は「この治療法が現実的なものであり、完全にまひした人でも再び運動ができるようになるという確信を与えてくれるものです」と解説する。

 驚いたことに、刺激装置のスイッチを切ったときにも、3人の参加者のうち2人は脚の筋肉を自分でコントロールできた。これは、刺激により脳と脊髄の接続が書き換えられたことを示唆しているとモリッツ氏は言う。さらに接続が回復すれば、いつか刺激を与える必要がなくなるかもしれない。

「刺激装置は、補聴器のように脊髄への信号を増幅しているのだと思います」とモリッツ氏は言う。「補聴器が音量を上げるように、刺激装置は損傷部位より下の脊髄回路の興奮性を高めているのです」

 すべての機能が正常化するわけではない

 モリッツ氏は、今回の結果はすばらしいが、まひ患者が歩行以上に望んでいることがあることを忘れてはならないと言う。米ケース・ウエスタン・リザーブ大学のキム・アンダーソン氏が2004年に実施した調査の結果によると、重い脊髄損傷を負った人が最も重視しているのは歩行ではなかった。歩行は第4位で、性機能、排泄機能、姿勢制御機能の方が上位だった。まだ完全に全機能が回復するのは困難である。

 幸い、新しいタイプの神経刺激装置は、そうした機能の回復にも役立つ兆候を見せている。けれども、刺激装置は研究に参加している一部の患者にしか使われていない。クルティーヌ氏は、将来的には、損傷後できるだけ早い時期に刺激装置を使用することで、筋肉の運動を効果的に回復させられるようになるかもしれないと考えている。

参考 National Geographic news: https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/092700365/

  

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