1972年ノーベル化学賞の受賞研究「リボヌクレアーゼ」
1972年のノーベル化学賞は「リボヌクレアーゼ」の研究者3人に贈られた。リボヌクレアーゼとは何だろう?
リボヌクレアーゼーぜは、リボ核酸(RNA)の分解酵素のこと。タンパク質を分解する酵素の一種でタンパク質をバラバラにしてアミノ酸に分解する。
アメリカの生化学者アンフィンセンは、ウシの膵臓リボヌクレアーゼの1次構造の研究を行い、タンパク質の立体構造はその1次構造によって決定されることを発見した。ノーベル賞の授賞理由は「リボヌクレアーゼのアミノ酸配列と生化学的に活性な構造の関連について」である。
アメリカの生化学者スタインとムーアは、特にリボヌクレアーゼの構造分析の方法で業績を残した。その方法は1948年、ニンヒドリン法というアミノ酸があれば紫色になる試薬と、液体クロマトグラフィーを組み合わせ、アミノ酸の分子量からアミノ酸の種類を特定する方法を開発。リボヌクレアーゼが124個のアミノ酸でできていることをつきとめた。
ノーベル賞の授賞理由は「リボヌクレアーゼの分子構造と活性中心における、活性中心における触媒作用の活性の高さを理解させるための貢献」である。
1970年代に入り、生化学の分野では、酵素分子の立体構造や働きがノーベル賞で評価されるようになった。私が大学時代に選んだ卒論(1985年頃)のテーマも「タンパク質分解酵素(パパイン)の構造に関する研究」だったので懐かしく思う。
今日でも、ニンヒドリン比色法液体クロマトグラフィーアミノ酸検出法により尿や血液検査でアミノ酸分析に利用されている。食品関係では、食品中のアミノ酸分析により栄養、味覚、機能食品に使われている。警察の科学捜査にも指紋検出でニンヒドリンは使われている。
リボヌクレアーゼ
リボヌクレアーゼ(Ribonuclease)は、一本鎖RNAを切断するエンドヌクレアーゼの1つである。RNAアーゼともいう。子牛の膵臓のRNAアーゼは、古典的なタンパク質科学のモデル系として用いられた。
子牛の膵臓由来のRNAアーゼは、アメリカ合衆国の食肉会社Armour and Companyがkg単位で精製し、興味のある科学者に10mgずつ無料で提供したことから広く使われるようになった。この入手の利便性によって、RNAアーゼはタンパク質研究のモデルとなった。
RNAアーゼは研究の素材として、吸光、円偏光二色性、旋光分散、ラマン分光法、電子スピン共鳴、核磁気共鳴分光法など様々な分光学的分析手法を生み出した。また限定分解、側鎖の化学修飾、抗原認識などいくつかの化学的構造分析法の発展にも貢献した。
1967年にはタンパク質として3番目に構造が解かれている。RNAアーゼの酸化的フォールディングの研究から、クリスチャン・アンフィンセンはタンパク質のフォールディングに関して熱動力学仮説を立て、タンパク質のフォールドは自由エネルギーが最小になるように決まるとした。
さらに、RNAアーゼAはマルチプルアライメントによる解析が初めて行われたタンパク質、進化的な特徴が比較された初めてのタンパク質でもある。 RNAアーゼAは124残基、13.7kDa以下と比較的小さいタンパク質である。2層のα+βからなり、タコスのように2つに折り畳まれて、中央の溝がRNA結合部位になる。N末端側の1番目の層は3つのαヘリックスからなり、C末端側の2番目の層は2つのβシート中に2つのβヘアピンが配置した構造からなっている。
酵素研究の歴史
酵素の研究は、1930年ロックフェラー研究所のジョンノースロップらがペプシンの単離、結晶化に成功しタンパク質であると同定したことに始まる。1952年ケンブリッジ大学のフレデリック・サンガーはアミノ酸配列の決定方法を開始。これとは別にX線結晶解析と呼ばれる手法でイギリスの分子生物学研究所のケンドリューとペルーツはタンパク質の構造解析を行った。
1960年代後半までにトリプシンやキモトリプシンなど消化酵素であるエラスターゼの立体こうぞうも解明された。こうして酵素の化学素性や分子構造がわかってきた。
同じ頃、メリーランド州にある米国立衛生研究所でアンフィンセンらは酵素のアミノ酸配列と酵素分子構造の2つを統合する手法を考えた。
タンパク質の構成要素となるアミノ酸は全部で20種類あるが、タンパク質分子には特定の折り畳み構造が見られる、これらが、アミノ酸配列に応じて1つのパターンに決まっていることをアンフィンセンは示した。酵素の立体構造や働きの探究は今日も続いている。
ニンヒドリン法
ニンヒドリン反応とは、アミノ酸の存在をニンヒドリンの呈色によって検出・定量する方法。ニンヒドリンは、アミノ酸のアミノ基と反応することで、青紫~赤紫色を呈する。
ニンヒドリン反応では、アミノ酸の濃度が大きいほど濃く発色するため、これを用いてアミノ酸の定量に利用することができる。定量時の注意点としては、反応の途中で生成するニンヒドリンの還元体は空気で酸化されやすいため、反応時にSnCl2などの還元剤を加える必要がある。
ニンヒドリン反応は、アミノ酸のアミノ基1つに対し、ニンヒドリン2分子が結合することで、長い共役鎖を持った分子が生成する(ルーヘマン紫)。この分子が、紫色を呈することで、アミノ酸を検出できる。
1948年、ニューヨークのロックフェラー大学医学研究所のスタンホード・ムーアとウイリアム・ステイン両博士によってニンヒドリン比色法による液体クロマトグラフィーアミノ酸検出方法の論文が発表された。
そして、124のアミノ酸とリボヌクレアーゼの構造が解析され、また、世界ではじめて酵素の解析に成功した功績により、1972年に両博士はノーベル化学賞を受賞した。
この研究発表成果によって、アミノ酸自動分析機が全世界で製品化され世界中で販売された。
今日にいたってもニンヒドリン比色法による優れた定量精度は、臨床分野、特に小児患者の先天性代謝異常のアミノ酸分画、食品・製薬分野の品質管理等には欠かせない測定方法となっている。米国のFDAもこの分野の検査は、ニンヒドリン比色法でなければならないと勧告している。
1980年代に突入すると、分離カラム固定相の細微粒化が一挙に進み、高速、高感度、高分解能の液体クロマトグラフィーが主流になった。HPLC(High Performance Liquid Chromatography)の誕生である。専用アミノ酸自動分析装置も、ガラスカラムを用いたものから、内径が細いSUSカラムを使った高圧、高速の全自動アミノ酸分析機へと発展した。
クリスチャン・アンフィンセン
クリスチャン・アンフィンセン(Christian Boehmer Anfinsen, Jr.、1916年3月26日 – 1995年5月14日)は、アメリカ合衆国の生化学者。「リボヌクレアーゼの研究、特にアミノ酸配列と生物学的な活性構造の関係に関する研究」によって(アンフィセンのドグマを参照)、1972年にノーベル化学賞を受賞した。
ペンシルベニア州のモネソンでノルウェー系アメリカ人の家庭に生まれた。1937年にスワースモア大学を卒業し、1939年にペンシルベニア大学で修士号、1943年にハーバード・メディカルスクールで生化学のPh.D.を取得した。
1950年までハーバードで助教授として過ごしたのち、1981年までアメリカ国立衛生研究所で研究を続けた。1982年から死まではジョンズ・ホプキンス大学の生物学教授であった。
1961年アンフィンセンは、リボヌクレアーゼが変性を受けたあとに酵素の活性を保ったまま再度フォールディングされることを示し、タンパク質が最終的な構造を取るのに必要な情報がその一次構造にコーディングされていることを示唆した。 アンフィンセンはユダヤ教正統派に改宗している。
スタンフォード・ムーア
スタンフォード・ムーア(Stanford Moore、1913年9月4日 - 1982年8月23日)は、アメリカ人の生化学者。リボヌクレアーゼの研究を行い、その化学構造と触媒活性のついて理解を深めた業績に対し、1972年のノーベル化学賞が贈られた。
イリノイ州シカゴ生まれ。彼はナッシュビル大学に入学し、ヴァンダービルト大学を首席で卒業した。ここでは1935年に男性社交クラブであるΦΚΣ(ファイ・カッパ・シグマ)のメンバーとなり、1938年にウィスコンシン大学から有機化学の博士号を授与された。その後、ロックフェラー研究所(後のロックフェラー大学)の研究者となり、1952年に生化学の教授となった。
ウィリアム・ハワード・スタイン
ウィリアム・ハワード・スタイン(William Howard Stein、1911年6月25日 - 1980年2月2日)は、アメリカ人の生化学者。ニューヨーク市生まれ。 1929年、 フィリップス・エクセター・アカデミー卒業後、1933年、 ハーヴァード大学を卒業する。
1934年コロンビア大学に、転入し、 1938年、コロンビア大学医科大学院で博士号取得。後に、ニューヨークのロックフェラー研究所(現ロックフェラー大学)の教授務めた。
リボヌクレアーゼの構造と機能に関する研究に対して、クリスチャン・アンフィンセン、スタンフォード・ムーアとともに1972年度のノーベル化学賞を受賞した。
参考 Wikipedia: ウィリアム・スタイン スタンフォード・ムーア クリスチャン・アンフィンセン
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