1974年ノーベル物理学賞受賞理由
1974年のノーベル物理学賞は電波天文学に関する研究に贈られた。授賞理由は「電波天文学における先駆的研究(観測および発明、特に開口合成技術に関して)」と「電波天文学における先駆的研究(パルサーの発見に果たした決定的な役割)」である。簡単にいうと「電波望遠鏡の開発」と「パルサーの発見」である。
古来、天文学は目視による天体観察を意味していた。肉眼によって、目視での誤差測定で地球の大きさを測定したり、あるいは位置を測定するなどの技術を実用化した古代から、中世になってからはガリレオによる望遠鏡の観測などあって大きなパラダイムシフトがあってものの20世紀までの天文学は手法に大きな変化はなかったといえる。
1931年、ベル研究所で短波の研究をしていたカール・ジャンスキーはそれまで受信していた未知の電波雑音がいて座の方向、つまり銀河系の中心方向から電波であることを発見した。この発見をきっかけに電波望遠鏡が天体観測の手法として定着していくことになる。ほどなく電波望遠鏡が実用化することになる。
1946年、キャベンディシュ研究所のライルのチームが、開口合成技術を応用した電波望遠鏡をつくる。複数の受信機をひとつの受信機のようにように使う技術だちなみに開口は受信機を意味する。これにより電波望遠鏡乗り切り性能を大きく上げることに成功した。
ヒューウィッシュは1946年にケンブリッジ大学を卒業後、キャベンディシュ研究所のライルのもとで研究生活に入り、1952年に博士号を取得した。1967年電波望遠鏡を用いてジョスリン・ベルらとパルサー(CP1919)を発見した。パルサーは超新星爆発のあと中性子星とされ、現在では2000に近い発見例がある。
ヒューウィッシュらが発見したパルサーは地球から2300光年の距離から規則的な信号を送っていることから当初は宇宙からの知的生命からの信号と考えられていた。
電波望遠鏡の開口合成とは何か?
電波望遠鏡(radio telescope)は、可視光線を集光して天体を観測する光学式の天体望遠鏡に対して、電波を収束させて天体を観測する装置の総称。これを専門に用いる電波天文学という分野がある。電波望遠鏡は、光学望遠鏡では観測できない波長の電磁波を広く観測することができる。可視光を放射しない星間ガス等を観測するのに有力である。
編集電波望遠鏡は電波を受信する大型の回転放物面のアンテナ(パラボラアンテナ)と、電波を増幅・検出する受信機、データを解析・記録するコンピュータなどから構成されている。電波は可視光に比べて微弱で、また波長が長いために分解能が低いので、アンテナの口径は光学望遠鏡に比して数倍から数十倍もの巨大なものが主流である。また、小さなアンテナを多数配置し、開口合成アンテナ(干渉計)となっているタイプもある。
開口合成(gaperture synthesis)とは、複数の受信機を利用して、高分解能な情報を取得するための技術である。開口とは、電磁波を受信する素子、すなわち受信機を意味する言葉であり、複数の受信機を1つの大きな受信機に合成したような効果が得られるため、このように呼ぶ。
一般のアンテナ(電波受信機)の分解能限界は口径に比例し、観測波長に反比例する。しかし、電波の波長は可視光線の波長の一万倍以上長いものであるため、単体での分解能は光学系に比べて必然的に悪いものとなる。
この問題を解消すべく、1946年、ケンブリッジ大学の天文学者マーティン・ライルらが、電波望遠鏡の分解能を向上させる方法として考案した、複数の電波望遠鏡を干渉計として使用する仕組みが開口合成である。ライルはこの業績によりノーベル物理学賞を受賞している。
複数の受信機に同一の発信源から電磁波が到達するとき、発信源からの距離がわずかに異なる分だけ到達時間に差が生じる。
2台の受信機の間を結ぶ直線(基線)の距離が分かっていれば、この到達時間の差から発信源の存在する方向が分かる。基線の長さが長くなればなるほど、発信源の方向がわずかに変わるだけで到達時間の差が大きくなる。この性質を利用すればわずかに異なる方向にある接近した2つの発信源からの電磁波を区別、すなわち高い分解能を得ることができる。
逆に、同一発信源からの電磁波の到達時間の差から基線の長さを決定することも可能である。これにより基線の長さの変化を測定することで、高度な計測が可能となる。
基線の長さが長くなるほど分解能が上がることから、受信機の位置を出来るだけ離すことで高分解能を得ることが出来る。もちろん、同時に複数の受信機を用いることで、精度を向上させることも出来る。同一の波であれば適応できるため、いわゆる電波だけでなく音波、地震波 でも適応可能である。
パルサーとは何か?
パルサー(pulsar)とは、パルス状(規則的な信号)の可視光線、電波、X線を発生する天体の総称である。1967年にジョスリン・ベルによって発見された(指導教官アントニー・ヒューイッシュ)。
超新星爆発後に残った中性子星がパルサーの正体であると考えられており、現在は約1600個確認されている。 パルスの間隔は数ミリ秒から数秒が多いが、まれに5秒を超えるパルスを発するパルサーも存在する。その周期は極めて安定している。極めて安定した発光間隔を持っているため、灯台に準え宇宙の灯台などの異名がある。NASAのパイオニア惑星探査機に積まれていた金属板には、銀河系内での地球の位置を表すために、地球から見た14個のパルサーの方向とパルスの周期が書かれている。
ベルが発見した当初、電波の周期が自然由来のものとは思えないほど規則的だったため、ヒューイッシュは、地球外知的生命体による人為的な信号ではないかとも考え、電波源には「緑の小人 (Little Green Man)」を意味する LGM-1 の名を与えた。後にこのパルサーは CP 1919 と名づけられ、現在では PSR B1919+21 と命名されている。ヒューイッシュはベルの指導教官という立場によって1974年のノーベル物理学賞を受賞した。発見者であるベルがノーベル賞を受賞していないことには異論がある。
彼女がノーベル賞の選から漏れたことに対して、フレッド・ホイルを含む多くの天文学者が異議を唱えた。フレッド・ホイル自身も「恒星内部での元素合成」の主要な概念を、1946年に初めて明確に確立したが、ノーベル賞を受賞できていない。
CP 1919 は電波を放射しているが、X線やガンマ線を放射するパルサーも見つかっている。現在では、放射のエネルギー源によっておよそ3種類のパルサーに分類されている。
1.自転のエネルギーによるパルサー。星が回転のエネルギーを失うことで放射のエネルギーをまかなっている。
2.X線パルサー。多くは近接連星系をなしており、片方の星からもう片方のコンパクトな星に向かってガスが降着することで、ガスの重力エネルギーが解放されてX線を放射する。
3.マグネター。極端に強い磁場を持ち、そのエネルギーが放射の源となっている。
上記の3種類全てで、パルサーの本体は中性子星であるが、観測される現象や現象の元にある物理過程は大きく異なっている。
しかしこれらの間には相互につながりがある。例えば、X線パルサーはかつては自転エネルギーで駆動するパルサーだったものが、その回転エネルギーをほとんど失った後、連星系の相手の星が膨張して物質の降着が始まり、再び観測されるようになったものであると考えられている。
また、このような中性子星への物質の降着が起こると、それに伴って角運動量が中性子星に与えられるため、再び自転エネルギーを得てミリ秒パルサーとして復活するという過程も考えられる。
アントニー・ヒューイッシュ
アントニー・ヒューイッシュ(Antony Hewish, 1924年5月11日 - )はイギリスの電波天文学者。パルサーを発見した功績によって1974年に同僚のマーティン・ライルとともにノーベル物理学賞を受賞した。1969年には英国王立天文学会のエディントン・メダルも受賞している。
ヒューイッシュはイングランド南西部のコーンウォール州フォイに生まれた。
ケンブリッジ大学の学部生時代に兵役のためにロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント (RAE) に配属され、学業を一時中断した。後にレーダーの空軍への応用を研究していた通信研究所 (Telecommunications Research Establishment) に移り、そこでマーティン・ライルとともに働いた。
1946年にケンブリッジに戻ると、ヒューイッシュは卒業単位を取得して直ちにキャベンディッシュ研究所のライルの研究チームに加わり、1952年に博士号を取得した。
ヒューイッシュは電波源から放射された電波がプラズマに影響を与えることで生じるシンチレーションを観測し活用する手法を理論と実用の両面で進歩させた。
これをきっかけにして彼は、星間シンチレーションを高い時間分解能で電波サーベイ観測するために、ケンブリッジのマラード電波天文台 (MRAO) に惑星間シンチレーションアレイ (Interplanetary Scintillation Array) と呼ばれる大規模な電波望遠鏡アレイを建設する提案を行い、そのための補助金を得た。
この計画の途中の1967年、彼の元で観測に携わっていた当時大学院生のジョスリン・ベルが、後に最初のパルサーと判明する電波源を初めて発見した。
パルサーの発見を報告した論文は5人の共著で、ヒューイッシュの名前が筆頭でベルが2番目だった。この業績に対するノーベル賞はライルとヒューイッシュが受賞し、ベルは共同受賞者とはならなかった。このことは議論を巻き起こし、特にヒューイッシュの同僚の天文学者フレッド・ホイルは強く非難した。
ヒューイッシュは1968年には王立協会フェローとなった。また1971年から1989年までキャベンディッシュ研究所の電波天文学の教授を、1982年から1988年までマラード電波天文台の所長を務めた。
マーティン・ライル
サー・マーティン・ライル(英: Sir Martin Ryle、1918年9月27日 - 1984年10月14日)はイギリスの天文学者。1974年に「電波天文学における先駆的研究」により、アントニー・ヒューイッシュとともに天文学分野の研究者として最初のノーベル物理学賞受賞者となった。
ブライトン生まれ。オックスフォード大学で物理学の学位を得た。第2次世界大戦中はレーダーの開発グループに加わった。戦後はキャベンディッシュ研究所で、初め太陽からの電波の研究を行った。電波天文学の分野で観測機械の改良を進め、1946年に初の開口合成技術を用いた電波望遠鏡を建設した。
1952年に王立協会のフェローに選出され、1957年にはマラード電波天文台の初代所長になった。1972年からリチャード・ウーリーの後を継いで、王室天文官(Astronomer Royal)となった。論争は余り好きではなかったが、論客として知られ、フレッド・ホイルと定常宇宙論に関して有名な論争をおこなった。晩年は、後進の育成に努め、ライル奨学金を設けている(ケンブリッジ大学内における天文学分野での奨学金)。
1946年、ライルとボンバーグは多数のアンテナからの観測データを使って大口径アンテナ同様の電波天体の空間分解能を得る開口合成技術を開発した。ケンブリッジ大学の最初の電波天文学の教授、マラード電波天文台長、王室天文官などを務めた。
参考 Wikipedia: アントニー・ヒューイッシュ マーティン・ライル
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