ノーベル物理学賞に最も多いテーマは何?
歴代のノーベル物理学賞で受賞する最も多い研究対象は何だろうか? 正解は「原子」。ノーベル物理学賞の受賞理由の半数以上は、原子の構造や性質に関係している。
例えば、第1回ノーベル物理学賞がX線の発見であり、それ以降のものを鳥瞰すると、電子、陽子、中性子、中間子、原子核、クオーク、レプトンなどの発見や放射線、核磁気共鳴、核分裂、BCS理論などの理論・法則などが色鮮やかにちりばめられている。
日本人にも1949年湯川秀樹氏の中間子理論、2008年小林・益川理論、朝永振一郎氏、小柴昌俊氏、梶田隆章氏など...数多くの受賞者がいる。それ以前まで考えられていた「原子は不変なもの」(ドルトンの原子説)とされたのが信じられないくらい原子は多様で複雑で活動的なものであった。(普通の化学反応では不変と考えてよい)
1975年のノーベル賞もその1つである。授賞理由「核子の集団運動と独立粒子運動との関係の発見、 およびこの関係に基づく原子核構造に関する理論の開発」は分かりにくいが、簡単にいうと「核子」とは陽子や中性子のことで、原子核の形に関する研究である。
原子核の形はどうなっているだろう? 「〇」と思っていたら実は違っていた。これまでの研究では、原子核では時間とともに表面が変形してブヨブヨと振動したり、楕円体に変形してクルクルと回転運動を起こしたりする。これらは原子核を構成する多数の核子(陽子と中性子)が参加するため集団運動と呼ばれ、個々の核子の間に働く核力の複雑さからは想像もつかない単純で美しい規則性を生じることが分かっている。
特に、原子核が安定的に楕円体として変形することは1950年頃に レインウォーター(J. Rainwater), ボーア(A. Bohr) 及び モッテルソン(B.R. Mottelson) が提唱し、1975年にノーベル物理学賞が授与された。このような変形の結果、南部氏が提唱した対称性の自発的破れの一例として、回転運動が起こり、回転スペクトルとして多くの原子核に観測されている。
原子核の最も基本的な形は、図に示されているように、 球、 ラグビーボールのような扁長な回転楕円体(プロレート変形)、 みかんのような扁平な回転楕円体(オブレート変形)、 そしてそのどれでもない「歪な」形 に場合分けされるという。
1949年レインウオーターはそれまでの常識を覆し、核子は必ずしもすべてが球ではないという理論を展開し始めた。この考えは後にオーゲ・ボーアとモッテルソンによって深化させられた。レインウオーターはまたエックス線の化学的解析についても貢献し、原子力委員会や海軍の研究プロジェクトにも関与した。
1975年ノーベル物理学賞 受賞理由「集団運動模型」とは何か?
陽子と中性子によって構成される原子核に関する研究がこの年の受賞研究である。原子核の形状は球体だけではなくラグビーボールのような形に変化したり、表面が振動して波打つことがあると言う当時の常識を覆す指摘が1949年にレインウォーターによって展開された。これが原子核を構成する素粒子が揃って動くと言う集団運動模型の提唱だ。
ボーアとモッテルソンはコペンハーゲン大学のニールスボーア研究所の同僚。彼らはレインメーカーの唱えた集団運動模型の研究に着手し、集団運動の理論的な証明と多くの実験データに基づき核子の集団運動を統一的に理論構築して1953年に発表した。
2人の理論はレインウォーターの理論を補完するもので、原子核を構成する素粒子の運動と集団運動との関係を解明、原子核に関する研究を一気に押し進めるとともに、核構造物理学の礎となった。
この研究も含め、ボーアとモッテルソンの共同研究は2人の共同著書として1969年と1975年に出版、各構造物理学の基本理論となっている。 ボーアは物理学の巨人の1人であるニールスボーアの(1922年ノーベル物理学賞)の四男。親子でノーベル物理学賞受賞である。モッテルソンはノーベル賞受賞に先立つ1973年にアメリカからデンマークに帰化している。
アーゲ・ニールス・ボーア
アーゲ・ニールス・ボーア(Aage Niels Bohr、1922年6月19日-2009年9月8日)はデンマークの物理学者。物理学者ニールス・ボーアの四番目の息子として生まれ、父および父と親交を持っていた物理学者たちに囲まれて育ち、彼自身も物理学の道に進んだ。1975年ノーベル物理学賞を受賞。
コペンハーゲン生まれ。両親に物理学者ニールスとマルグレーテ(Margrethe)を持ち、幼少の頃からヴォルフガング・パウリやヴェルナー・ハイゼンベルクら著名な物理の巨人たちの影響を受けた。
成長後彼自身も物理学の道を志した。第二次世界大戦中はナチスの侵攻を懸念した父とともにアメリカに渡った時期もあったが後に帰国。1946年、ニールスはコペンハーゲン大学の理論物理学ニールス・ボーア研究所に加わり、1963年から1970年にかけては所長職も務めた。
1948年に同僚のベン・ロイ・モッテルソンと共に原子核に関する諸理論をモノグラフに整理する研究に着手し、これを著作『Nuclear Structure』(第1巻『Single-Particle Motion』(1969年)、第2巻『Nuclear Deformations』(1975年)発表)として纏め上げた。また、この2人は1953年には共同で「集団運動模型(統一模型)」を提唱し、レオ・ジェームス・レインウォーターの理論を補完した。
1960年ハイネマン賞数理物理学部門、1972年ラザフォードメダル賞を受賞。1975年に核物理学分野で挙げた業績が評価され、ノーベル物理学賞を授与された。1985年11月、北京大学より名誉博士号が授与されている。
ベン・ロイ・モッテルソン
1975年のノーベル賞受賞者。受賞理由は「原子核における集団運動と独立粒子運動の統一的記述及びそれに基づいた原子核構造理論の構築」
ベン・ロイ・モッテルソン(Ben Roy Mottelson、1926年7月9日 -)は、アメリカ出身の理論物理学者。1971年にデンマークに帰化した。
アメリカ合衆国、イリノイ州・シカゴに生まれる。1950年、ハーバード大学にてシュウィンガーに師事しPh.D.を得る。学位取得後、ニールス・ボーア研究所にてポスドクとしてオーゲ・ニールス・ボーアと原子核の集団運動の研究を始める。
殻模型によって記述される核子の独立粒子運動と液滴模型によって記述される核子の集団運動を統一的に記述する集団運動模型を1953年に構築し、1975年オーゲ・ニールス・ボーア、レオ・ジェームス・レインウォーターと共にノーベル物理学賞を受賞。
集団運動模型構築の後も、原子核における集団運動の微視的理論の分野において数々の偉大な業績を残している。例えば、1957年にBCS理論が提案されるやいなや、1958年原子核における超流動状態の発現を指摘した。また、高スピン状態での超流動状態から常流動状態への相転移の可能性を示唆するなど、「有限量子多体系としての原子核」という概念を生んだ。
また、オーゲ・ニールス・ボーアとの著書「Nuclear Structure」Vol.1&2 (1969&1975、Benjamin)は、核構造物理学におけるバイブル的な教科書として読まれている。
レオ・ジェームス・レインウォーター
レオ・ジェームス・レインウォーター(Leo James Rainwater、1917年12月9日 - 1986年5月31日)は、アメリカ合衆国の物理学者。1975年には特定の核子における非対称性の測定実績が評価され、ノーベル物理学賞を受賞した。
アイダホ州カウンシルで生まれ、父が1918年に大流行したスペインかぜのため病死すると、一家はカリフォルニア州ハンフォードに移り住んだ。
1939年にカリフォルニア工科大学で物理学の学位を得ると、次いでカリフォルニア大学に進学した。在籍中はマンハッタン計画に加わり原子爆弾開発にも携わった。1939年にコロンビア大学大学院に入学し、1946年にはPh.D.(博士)の学位を修めた。
1949年、それまでの常識を覆し、核子は必ずしもすべてが球ではないという理論を展開し始めた。この考えは後にオーゲ・ボーアとモッテルソンによって深化させられた。ジェームスはまたエックス線の化学的解析についても貢献し、原子力委員会や海軍の研究プロジェクトにも関与した。1952年には教授職に就き、1963年にはその業績を称えアーネスト・ローレンス賞を受賞。
1975年にはオーゲ・ニールス・ボーアとベン・ロイ・モッテルソンと共にノーベル物理学賞を受賞した。
1982年にはPupin Professor of Physicsに就任した。
参考 Wikipedia: レオ・ジェームス・レインウォーター ベン・ロイ・モッテルソン オーゲ・ニールス・ボーア
��潟�<�潟��