新素粒子「J/Ψ粒子」の発見

 ノーベル物理学賞を受賞する研究は「原子」に関するものが多い。1800年代後半まで「原子」は物質をつくっている最小単位だと思われていたが、実際はそうではなく、電子、原子核、陽子、中性子、中間子、ニュートリノ、ヒッグス粒子...など、さらに細かい粒子に分かれることがわかり研究対象になっている。

 このような粒子を総称して「素粒子」と呼ぶ。ノーベル物理学賞の受賞理由には「素粒子」と言う単語が度々出てくる。2019年までの授賞理由に「素粒子」は11回出てくるが、1976年の受賞はその第6回目の授賞であった。

 アメリカの物理学者バートン・リヒターの研究チームはスタンフォード大学線形加速器センター(現在のSLAC国立加速器研究所)ローレンスバークレー国立研究所、サミュエル・ティンはブルックヘブン国立研究所マサチューセッツ工科大学でそれぞれ独自に、そしてほぼ同時に新種の重い素粒子(ジェイプサイ中間子)を発見した。

 1974年のことである。この中間子は両チームが名付けたΨ(プサイ)粒子、J(ジェイ)粒子に由来して、J/Ψ粒子と命名された。 1969年に発見された3つのクオーク(アップクオーク、ダウンクオーク、ストレンジクオーク)を踏まえて、1970年には何人かの研究者によって存在が予測されていた。

 このうちの1人が1979年にノーベル物理学賞受賞するシェルドン・グラショーである。ジェイプサイ中間子は既に発見されていたストレンジクオークと共に第二世代に分類されるクオークで、チャームクオークと反チャームクオークに分類される。

 この研究が後に2人の日本人研究者、小林誠と益川敏英に2008年にノーベル物理学賞をもたらすことになる第3世代クオークの発見へのステップとなるものだった。

 バートン・リヒター

 1976年のノーベル物理学賞受賞者。受賞理由は「ジェイプサイ中間子の発見」である。

 バートン・リヒター(Burton Richter、英語発音: [bəːrtn riktər]=バートン・リクター、1931年3月22日 - 2018年7月18日)は、アメリカ合衆国の物理学者。

 スタンフォード線形加速器センター(Stanford Linear Accelerator Center:SLAC)で陽電子-電子衝突ビーム装置(Stanford Positron-Electron Asymmetric Ring:SPEAR)の企画、建設に貢献した。1974年にジェイプサイ中間子をサミュエル・ティンのチームとほぼ同時に発見し、1976年にノーベル物理学賞を受賞した。 

 ニューヨークに生まれ、マサチューセッツ工科大学で学んだ。スタンフォード大学の教授であった時、アメリカ・原子エネルギー委員会の補助をうけて、ディビッド・リストンと陽電子-電子衝突ビーム装置SPEARを建設した。1974年のJ/ψ粒子の発見は、チャームクォークが存在することを確定させた。

 SPEARはJ/ψ粒子を発見したほか、マーティン・パールもSPEARにより1975年にτ粒子を発見した。リヒターは1984年から1999年の間、SLACの所長を務めた。

 リヒターの研究生活はMITの磁気研究室に始まる。ここでは大きな磁石を用いた古典的なポジトロニウムの実験を行っており、リヒターは電子-陽電子系への手がかりを得たと言っている。

 その後は水銀アイソトープのアイソトープ・シフトと微細構造を測定。彼自身は原子核の規定状態と励起状態の双方について効果が測定できるように短寿命の水銀197のアイソトープを作った。

 また、サイクロトンを使って金にデューテロンビームを当ててから水銀を作る実験を行った。 学位論文完成後は量子電磁力学に向かう。電磁相互作用の短距離の振る舞いを深く調べるための実験をスタンフォード大学で行う。

 オニール、W.C.バーバー、B.ギッテルマンと協力し衝突ビーム装置の作成にかかる。これにより、先の実験を20倍も高いエネルギーで調べることができる。

 6年がかりで装置は出来上がり、65年に最初の実験を行う。そして量子電磁力学は10のー14乗cm以下まで成立していることを突きとめた。

 SLACに移った後、20GCV線型加速器による高エネルギー素粒子発生の系統的実験を行う。SPERの設計建設などの責任者を務めた。この機械を用いてカリフォルニア大学ローレンス研究所と協力し、3.1GeVの質量を持つ新粒子を発見した。1974年のことである。これにより1976年ティンとともにノーベル物理学賞を受賞している。

受賞歴
1976年 ノーベル物理学賞
2010年 エンリコ・フェルミ賞
2014年 アメリカ国家科学賞

 サミュエル・ティン

 1976年のノーベル物理学賞受賞者。受賞理由は「ジェイプサイ中間子の発見」である。

 サミュエル・ティン(Samuel C. C. Ting、中国名:丁肇中、1936年1月27日 - )は中国系アメリカ人の研究者。バートン・リヒターと共にジェイプサイ中間子の発見により1976年にノーベル物理学賞を受賞した。 

 ティンの祖籍は山東省日照県の華僑で、父クァンハイ・ティン(丁觀海)と母ツァンイン・ジーン・ワン(王財英)はミシガン州で学生時に出会い、アナーバーで生まれた息子が2ヶ月のときに中国へ帰国した。

 日中戦争の混乱で教育体制が途絶したため、ティンはそれぞれ光华大学(華東師範大学)と交通大学とミシガン大学で教育を受け科学と物理学の大学教授であった父と母から家庭教育を授けられる。

 中国の内戦に続く国の分割の折、一家は工業化した民主主義の台湾に逃れ、両親はやがてそれぞれ国立台湾大学(NTU)で工学を教え始める。

 サミュエル・ティンは1948年にチン・クオ中等学校から台湾工科大学(現国立成功大学)に進学、20歳の時にアメリカへ戻り、ミシガン大学で1959年に数学と物理学で学位を得る。1962年に物理学で博士号を受け、1963年に原子核の研究を欧州原子核研究機構(CERN)で行なうと、1965年よりコロンビア大学で教鞭をとり、同校在籍中にドイツ電子シンクロトロン研究所でも研究した。

 1969年からはマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授。宇宙空間から高エネルギーの宇宙線を観測してダークマターの存在などを研究するアルファ磁気分光器を提唱し、1998年にスペースシャトルに搭載されたAMS-01、2011年に国際宇宙ステーションに搭載されたAMS-02による国際観測プロジェクトの指揮を執っている。

 ノーベル賞

 1976年、ティン(MIT)はSLAC国立加速器研究所(スタンフォード大学)のバートン・リヒターと共同でジェイプサイ中間子(J/ψ中間子)の発見でノーベル物理学賞を受賞。ノーベル委員会の発表によると授賞理由は「新種の重い小粒子の発見における先駆的な研究」だという。

 この発見は1974年にティンがMITの研究チームと高エネルギー粒子物理学の新しい領域の検索を目指していたときに実現した。

 1976年12月10日の受賞パーティーのスピーチで、ティンは実験的研究の重要性を強調した。

 「現実には、自然科学の理論には実験的な基礎が不可欠で、物理学は特に実験的な仕事に裏打ちされる学問である。私にノーベル賞を授けてくださったことから途上国出身の学生が実験的研究に関心を示し、その重要性が認識されることを願ってやまない。」

 アルファ磁気分光器

 超伝導超大型加速器計画の中断により地上の高エネルギー実験物理学の先行きが危ぶまれた1995年、ティンはアルファ磁気分光器計画により宇宙空間における宇宙線検知を提案する。

 計画が承諾されるとティンは自ら主な出資者として関わり、国際観測プロジェクトの指揮を執っている。プロトタイプ機AMS-01は1998年にスペースシャトルのミッションSTS-91に搭載して実験を行い、続いて後継器AMS-02をシャトルで国際宇宙ステーションに運ぶ計画が実行される。

 1.5億アメリカドルの予算と16カ国56研究機関から研究者500人を集めたプロジェクトであったが、NASAは2003年のコロンビア号空中分解事故を受け、シャトル計画を2010年までに終息すること、以降の飛行計画マニフェストにAMS-02の搭載は載せないと発表する。

 ティンは議会にロビー活動を展開しさらに広くアメリカ社会に訴えて、宇宙実験を再度、シャトル上で行うことが決定する。同時期、検出器の非常に繊細で調整の難しい大型モジュールの製作は、数多くの技術的問題に突き当たっていた。分光器は2011年5月16日にシャトル・ミッションSTS-134で打ち上げに成功、同月19日に国際宇宙ステーションに設置される。

 1960年にケイ・キューネ(Kay Kuhne)と結婚しジーンとエイミーの2女をもうけるが、1985年にはスーザン・キャロル・マークス(Susan Carol Marks)博士と結婚して息子クリストファーが生まれた。

 栄誉、栄典

 1976年、ノーベル物理学賞。受賞スピーチは中国語(官話)で行なった。サミュエル・ティン以前にも中国人受賞者として李政道と楊振寧の2人がいたが、中国語によるスピーチはサミュエル・ティンが初めてであった。このスピーチでは実験が理論と同じくらい重要であることを強調した。

 1992年、中国科学技術大学より名誉博士号が授与される。
米国国立科学アカデミー、中国科学院の会員。中央研究院の外国人会員。

 ジェイプサイ中間子とは何か?

 ジェイプサイ中間子(J/Ψ)は、チャームクォークと反チャームクォークからなる中間子である。また、クォークとその反クォークの組み合わせからなる中間子を -オニウムと呼ぶことから、チャーモニウムとも呼ばれる。

 1974年11月に、リヒター(Burton Richter)率いるスタンフォード線形加速器センター(Stanford Linear Accelerator Center, SLAC)-ローレンス・バークリー研究所(LBL)のグループと、ティン(Samuel Chao Chung Ting, 丁肇中)が率いるブルックヘブン国立研究所(Brookhaven National Laboratory, BNL)-マサチューセッツ工科大学(MIT)のグループがほぼ同時に発見の報告を行った。

 この二つの独立したグループによる新粒子の発見は、11月革命(a November revolution)と呼ばれている。リヒターとティンはこの発見によって1976年にノーベル賞を受賞している。

 リヒターのグループは新粒子をΨ粒子と呼び、ティンのグループは J粒子と呼んだ。 Ψ の由来は2つの理由によるとされる。リヒターらが実験に用いた加速器SPEARにちなみギリシャ文字Ψなら発音の中にSもPも含まれていること、スパークチェンバーで発見されたときの粒子の軌跡がギリシャ文字Ψの形をしていることからである。

 J の由来については記録があるわけではない。K中間子のひとつ前のアルファベットであるJを採用したと言われるが、ティンの名字の漢字表記「丁」に似たアルファベット J が選ばれたから、とも言われている。 現在は二つの呼び名を合わせて、J/Ψと呼ばれている。

 チャームクォークとは何か?

 チャームクォーク(charm quark、記号:c)は、物質を構成する主要な素粒子の一つで、第二世代のクォークである。 

 チャームクォークは、+2/3e の電荷を持ち、クォークの中で3番目に質量が大きく、約 1.3 GeVである(これは核子の質量の約 1.5 倍である)。 

 チャームクォークは、1970年にシェルドン・グラショウ、ジョン・イリオポロス、ルチャーノ・マイアーニにより存在が予測された。

 当時、クォークは、アップクォーク、ダウンクォーク、ストレンジクォークのみが知られていた。予測は複数の事象を統一的に説明できるようにされたのであるが、ごく簡単に言えば、ミューオン、ミューニュートリノ、ストレンジクォークの組みの関係は、電子、電子ニュートリノ、ダウンクォーク、アップクォークの組の最初の3つの粒子と類似性があり、最初の組にも後の組のアップクォークに相当するものがあるのではないかと考えたのである。そこで実際に存在すれば魅力的だと「チャーム」と名付けられた。 

 この予測は、1974年にサミュエル・ティン率いる米国の ブルックヘブン国立研究所(BNL)のチームとバートン・リヒター率いる スタンフォード線形加速器センター(SLAC)のチームによって、それぞれ独自にチャームクォークと反チャームクォークからなるジェイプサイ中間子(J/ψ)が発見されたことにより確認された。

 BNL のチームは新しい粒子を J 中間子と命名し、SLAC のチームは ψ 中間子と命名したが、名前を一本化する協議が失敗し、妥協案として J/ψ中間子が採用された。サミュエル・ティンとバートン・リヒターは、ジェイプサイ中間子の発見により1976年のノーベル物理学賞を受賞している。

 チャームクォークを含むハドロン

 D 中間子はチャームクォーク(または反チャームクォーク)とアップクォークもしくはダウンクォークからなっている。
Ds 中間子はチャームクォークとストレンジクォークからなっている。

 J/ψ中間子のようにチャーム-反チャーム対をもつ中間子はチャーモニウムと呼ばれる。チャームをもつバリオンはストレンジネスをもつバリオンにならって命名される。例:Λc粒子

参考 Wikipedia: バートン・リヒター サミュエル・ティン

  

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