沖縄県中部・南部が除かれた理由
2021年7月26日、奄美大島から沖縄本島北部、西表島まで世界自然遺産に登録された。豊かな自然がそこには広がっており、日本人としても大変誇らしい。だが、これらの島々どれも琉球諸島に属するにもかかわらず、なぜ沖縄本島「北部」とされたのだろうか?
2021年は太平洋戦争終結後76年。その悲惨な戦闘の中でも有名なのが沖縄戦だ。その中で戦場となったのが中部と南部。戦争により自然環境も徹底的に破壊されてしまったことが「北部」だけが世界遺産になった真の理由といえるかもしれない。
沖縄戦は1945年の3月下旬から8月までの戦いをいう。1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。 この空襲で旧那覇市街の90%が焼失する。
米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。
沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、当初は沖縄守備軍の司令官も、沖縄の住民も思っていた。それで首里以南の南部地域には多くの住民が避難していた。
ところが本土防衛、国体護持の時間稼ぎのため5月22日に南部撤退が決定される。多くの住民が避難していた所にただ戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用したため住民は砲弾のなかに追い出される事となった。
沖縄戦では、県民の4分の1にあたる約15万人前後が犠牲者となった。沖縄県民に重くのしかかる過去の歴史、沖縄戦・南部戦線は同じ日本人として共有すべき事実だと思う。
ひめゆりの悲劇もこの南部地域で起きた。 ひめゆり学徒は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている ことが多い。しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。沖縄守備軍は この間10万人の内7万4千人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。日本兵の死者は1日あたり千人以上にもなる、太平洋戦争でもっとも激しい戦いといわれるゆえんである。
沖縄戦終焉の地「沖縄戦跡国定公園」
日本で唯一、住民を巻き込んでの地上戦が繰り広げられた沖縄。日本軍による組織的な戦闘が終焉を迎えたのは、糸満の地だった。
激戦地となった摩文仁の丘を含む南部の海岸線は、戦後、我が国で唯一の戦跡国定公園に指定されている。今では豊かな緑をたたえる鎮魂の森となり、120を越える慰霊塔や平和祈念資料館などが建立されている。
沖縄戦跡国定公園の指定区域の面積は5,059ha(陸域3,127ha、海域1,932ha)。戦跡としては唯一の国定公園である。
1960年代にアメリカ統治下の沖縄への渡航が容易となったことから、折からの観光ブームのひとつとして日本本土から多数の慰霊団が訪れるようになり、モニュメントの建設を求める声が上がるようになった。
1961年11月に日本国和歌山県が「紀乃國之塔」を建設したことを皮切りとして、沖縄本島南部に日本本土の府県が競い合うように慰霊塔を建てる慰霊塔ブームとも呼べる現象が起きた。
1965年(昭和40年)、琉球政府立公園に指定され、1972年(昭和47年)の沖縄返還に伴い、国定公園に指定された。 公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。
1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻するアメリカ軍、避難してきた一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥った。
結果、狭隘な地形に敵味方が入り乱れる大混戦となり、6月18日にはアメリカ軍沖縄方面最高司令官サイモン・B・バックナー中将も戦線視察中の真栄里で日本軍の砲撃を受けて致命傷を負い、戦死している。
日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したが、アメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けた。
沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」としている。例年この日には、摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。
参考 八重山毎日新聞 西表島 世界遺産登録
��潟�<�潟��