「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産に登録

 ユネスコの世界遺産委員会は、北海道と青森県、岩手県、それに秋田県に点在する「北海道・北東北の縄文遺跡群」を世界文化遺産に登録した。国内では20番目の世界文化遺産であり、日本人として嬉しい限りである。

 7月26日に世界自然遺産に登録された、「奄美大島と徳之島 沖縄本島北部・西表島」というのは、貴重な生態系が存在するので自然遺産に登録された理由はよくわかる。

 しかし、縄文遺跡というのは、全国約9万箇所に縄文遺跡が分布するにもかかわらず、「なぜこの4道県の17遺跡なのか」と思ってしまう。今回の「北海道・北東北の縄文遺跡群」が登録されたのはどのような理由があるのだろうか?

 縄文時代は日本特有の安定した時代

 縄文時代を調べると、これは日本独特の時代で、今から1万7000年前から3000年前の1万年以上続く長く安定した時代を指す。その後は稲作農耕文化である弥生時代となる。世界史では中石器時代~新石器時代にあたる。

 日本には全国的に遺跡があるが、世界遺産として「津軽海峡を挟んだ二つの地域に同一の文化圏が形成され、そこに草創期から晩期までの各時代の遺跡が揃っており、特に最古級の土器や漆器が出土している遺跡が含まれている」

 「世界遺産に求められる完全性として構成資産の全てが文化財保護法での史跡・特別史跡に指定されており、真正性の証明として追加の発掘調査の実施と『総括報告書』が刊行されていてよく研究されている」

 「集落跡のみならず、貝塚や墓、信仰や精神世界を表現する環状列石、さらに海岸・湖沼・河川など自然地形の古環境も網羅している事例は全国的にも稀有」...ということが登録された主な理由だ。

 海外の評価

 総体的に海外における縄文文化のイメージと評価は、造形美溢れる土器や独創的な土偶、1万年にもわたり争いがなかった平和な社会、気候変動にも対応した自然と人間の共生などが上げられ、「浮世絵が西洋絵画へ与えた影響が評価され富士山が富士山-信仰の対象と芸術の源泉として世界遺産に登録されたように、縄文土器や土偶が造形作家へ与えた影響も評価されるべき」とする。

 また、「争いを避けようとする現代の日本人にもみられる協調性という気質の根源は縄文にある」、「国土の6割強を占める森林面積や清浄な河川・海洋において今なお生物多様性が保たれていることは縄文の原風景を伝えている」とする。その上で、世界遺産候補に選定された北海道・北東北の縄文遺跡は、これらの評価を全て網羅しており、その証拠としての遺跡や出土品から縄文の世界を体感できるとした。

 また、後期~晩期にみられるストーンサークルは諸説あるが、縄文人の深い精神性や天文学的な知性を感じられ、単なる考古遺跡ではなくスピリチュアルなものを感じることができる文化的空間であり場所の精神を伝承しているとも評価された。

 それでは「北海道・北東北の縄文遺跡群」の主な遺跡を紹介しよう。

 世界的にも不思議な「遮光器土偶」が出土

 亀ヶ岡石器時代遺跡は、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡である。単に亀ヶ岡遺跡とも称される。遮光器土偶が出土した遺跡として知られ、1944年(昭和19年)6月26日に国の史跡に指定された。

 亀ヶ岡石器時代遺跡は、津軽平野西南部の丘陵先端部に位置している。現在、現地には遮光器土偶をかたどったモニュメントが建てられているが、その背後にある谷間の湿地帯から数多くの遺物が出土している。

 遺跡は、1622年に津軽藩2代目藩主の津軽信枚がこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際、土偶や土器が出土したことから発見された。なお、亀ヶ岡城の築城は一国一城令が出たために中断されている。

 地名の亀ヶ岡は、「甕が出土する丘」に由来するとも言われる。また、この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになった。

 江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ 、遠くオランダまで売られたものもある。1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという。

 1889年(明治22年)学術調査が行われ、1895年(明治28年)と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われ、1980年(昭和55年)丘陵上や谷の部分の調査が行われた結果、遮光器土偶をはじめ土器、石器、木製品、漆器などとともに土壙跡26基が発掘された。

 しかし生活跡や遺構の調査は未発掘である。現在無断で発掘することは禁止されている。

 津軽信枚は亀ヶ岡城の廃城後、そこに「大溜池」を造ったが、その近くに縄文館という施設があり、現在当遺跡から出土した遺物の多くが展示されている。大溜池は、亀ヶ岡城の堀として予定されたものであり、縄文館は亀ヶ岡城予定地であった。出土遺物中、最も著名で、この遺跡のモニュメントのモデルとなっている遮光器土偶は、個人の所蔵を経て、1957年に重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。

 縄文時代晩期には、この亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行する。これを亀ヶ岡文化とも言う。

 日本にもあったストーンサークル「大湯環状列石」

 ストーンサークルというと、イギリスのストーンヘンジ(Stonehenge)が有名だ。ストーンヘンジはロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと 。

 世界文化遺産として1986年に登録されたが、今回は日本にあるストーンサークルが世界遺産になった。

 大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルと呼ばれる。

 遺跡は1931年(昭和6年)に発見され、約130メートルの距離をおいて東西に対峙する野中堂と万座の環状列石で構成されている。この遺跡を全国的に有名にしたのは、太平洋戦争終戦直後の1946年(昭和21年)の発掘を、『科学朝日』が紹介したことである。

 そして、1951年(昭和26年)と1952年(昭和27年)には、文化財保護委員会と秋田県教育委員会が主体となって、本格的な学術調査が実施されている。

 この遺跡は、山岳丘陵の末端にのびる舌状台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が外帯と内帯の二重の同心円状(環状)に配置されている配石遺構である。

 その外輪と内輪の中間帯には、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいる。その形から「日時計」といわれており、万座と野中の両方の遺跡にある。

 大きい方の万座遺跡の環状直径は46メートルもあり現在発見されている中で日本で最大のストーンサークルである。組石は大きいほうの万座では48基、野中堂のほうは44基ある。中央の立石は大湯の東方約7 - 8キロメートルにある安久谷(あくや)川から運んだと推定されており、労働力の集中が見られる。

 遺跡の使用目的に関しては諸説あるが、近くには構造が似ている一本木後ロ遺跡があり、これは墓であることが調査によって明らかになっており、またそれぞれの配石遺構の下から副葬品をともなう土坑が検出されたため大規模な共同墓地と考えられている。

 さらに1948年(昭和23年)から始まった万座の周辺調査から掘立柱建物跡群が巡らされていたことが明らかになり、これらは墓地に附属した葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されている。

 大湯環状列石には日時計状組石があり、この環状列石中心部から日時計中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は北秋田市の伊勢堂岱遺跡にもある。

 大湯環状列石の北東には黒又山があり、大湯環状列石からはきれいな三角形に見える。黒又山にも何らかの人工的配石遺構などがあるのではないかとする推測もあり、大湯環状列石との関連の可能性が一部より指摘されている。

 2021年(令和3年)7月27日に大湯環状列石を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産登録される。

 周囲には掘立柱建物跡が巡らされており、その外側にもいろいろな配石遺構、竪穴式住居跡、貯蔵穴、捨て場などがある。

 土器・石器、その他土偶・鐸形(たくがた)土製品・石製品、動物形付土器、三角形岩板など祭祀的遺物が出土している。

 北海道・北東北の縄文遺跡群の17遺跡

 今回の世界遺産は、北海道6遺跡、青森県8遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の合計17遺跡で構成されている。また、関連する遺跡(関連資産)が北海道と青森県に1遺跡ずつある。

 北海道では、垣ノ島遺跡 、北黄金貝塚、大船遺跡、入江貝塚、キウス周堤墓群、高砂貝塚の6か所。

 青森県では、大平山元遺跡、田小屋野貝塚、二ツ森貝塚、三内丸山遺跡、小牧野遺跡、大森勝山遺跡、亀ヶ岡石器時代遺跡、是川石器時代遺跡の8か所。

 岩手県では、御所野遺跡。秋田県では、伊勢堂岱遺跡、大湯環状列石である。関連資産として、長七谷地貝塚、鷲ノ木遺跡がある。

 縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然環境が保全されている遺跡が数多くあり、縄文時代の人々の暮らしに思いを馳せるとともに、四季折々の表情やイベントが楽しめる。

参考 縄文日本 北海道・北東北の縄文遺跡群 – 世界遺産登録をめざして (jomon-japan.jp)