世界の平和は核兵器で維持されている

 日本は、8月15日76回目の終戦記念日を迎えた。戦争は経済的な格差やイデオロギーの違いで起きる。当時の日本は貧しかった。そして、天皇を中心とした日本神道のもとで戦った。

 日本は経済的には繁栄したが、世界には経済的格差やイデオロギーの違いはあり、世界平和とは言えない状況にある。現在、世界は核抑止力でかろうじて平和を保っている。

 現在ある核兵器は、広島・長崎に落とされた原爆の開発から始まり、イデオロギーの違う、米国とソ連を中心とした東西冷戦構造の中で開発が加速化された。その中で一番大きな核実験とは何だろうか?

 米ソ冷戦構造下の核兵器開発競争

 1961年7月10日、ソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記は第22回ソビエト連邦共産党大会開催中の10月下旬に世界最大の核爆弾の爆発実験を行うよう指示を出した。これが「ツァーリ・ボンバ」である。

 これに対し、当時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、これに「ドミニク作戦」の実施を承認することで応えた。ドミニク作戦は、1962年にアメリカ合衆国が行った105回にも及ぶ核実験である。

 なお実験の翌年である1963年には、モスクワで米国、ソ連、及びイギリスの間で部分的核実験禁止条約が調印され、以降の大気中での核実験が禁止された。だが、本条約の調印以降は、地下核実験が主体となって行われることになる。

 この当時、世界情勢は極めて緊迫した状態にあった。1961年4月15日、キューバで起きたピッグス湾事件(米国によるキューバクーデター計画)から間もなく、米ソ冷戦の緊張が最も高い時期だった。

 1961年8月30日、ニキータ・フルシチョフは、ソ連が3年間続けていた核実験の一時停止を終了し、9月1日から実験を再開すると宣言した。

 さらに8月にはベルリンの壁建設開始、1962年のキューバ危機に結びつくキューバへの核配備計画実施など...。そのような状況下で行われた、1961年10月30日の核実験は世界中を震撼させた。

 世界最大の核爆弾「ツァーリ・ボンバ」

 ツァーリ・ボンバ(露: Царь-бомба、英: Tsar Bomba、「爆弾の皇帝」または「爆弾の帝王」の意)は、ソビエト連邦(以後「ソ連」)が開発した人類史上最大の水素爆弾の通称である。

 正式名称はAN602であり、開発時のコードネームはイワン(Иван)であった。「ツァーリ・ボンバ」の名称は西側諸国が、クレムリンに展示されている世界最大の鐘ツァーリ・コロコル、榴弾砲史上最大の口径であるツァーリ・プーシュカになぞらえてつけたものであるが、現在はロシアでも広く用いられている。

 単一兵器としての威力は人類史上最大であり、1961年10月30日にノヴァヤゼムリャで、唯一の大気圏内核実験が行なわれて消費され、現存していない。TNT換算で約100メガトン(第二次世界大戦中に全世界で使われた総爆薬量の50倍)の威力を誇り、実験では50メガトンに制限されたものの、なお広島型原子爆弾「リトルボーイ」の約3,300倍もの威力を有し、その核爆発は2,000キロメートル離れた場所からも確認され、衝撃波は地球を3周した。

 死の灰を抑えるための設計

 ツァーリ・ボンバは本来、核分裂-核融合-核分裂という3段階の反応により100メガトンの威力を実現する多段階水爆(Staged Radiation Implosion Bomb)である。

 しかし、100メガトン級の爆発ともなればソ連領内の人口密集地へ多量の放射性降下物(死の灰)が降ってくることが予想されたため、実験にあたっては第3段階目のウラン238の核分裂を抑えるようにタンパーが鉛に変更され、出力は50メガトンに抑制された。

 この結果、放出される放射性物質の量はその出力の割にはかなり小規模なものとなった。

 設計はソ連の核開発秘密都市アルザマス16でソ連科学アカデミーのユーリ・ハリトンを中心とし、後に「ソ連水爆の父」とも呼ばれるアンドレイ・サハロフ、ヴィクトル・アダムスキー、ユーリ・ババエフ、ユーリ・スミルノフ、ユーリ・トゥルトネフなどのメンバーが参加した。

 サハロフはツァーリ・ボンバの爆発実験の後、核兵器反対を唱えるようになったという。

 決死の実験飛行

 1961年10月30日、ツァーリ・ボンバは特別な改修をうけたTu-95戦略爆撃機、Tu-95vによって運搬・投下された。この時のパイロットはアンドレイ・ドゥルノフツェフ中佐(Дурновцев, Андрей Егорович)であった。測定・撮影用にはTu-16Vが随行していた。

 当時、乗組員達が生きて帰れる確率は50%と言われていた。実際、爆発後Tu-95は1000mも急降下している。

 熱線による被害を最小限に抑えるため、この2機には特殊な白色塗料が塗られ、Tu-95では重量27トン、全長8メートル、直径2メートルと巨大なツァーリ・ボンバを搭載するために爆弾倉の扉と翼燃料タンクが取り外され、それでも収まらなかったので半埋め込み式で搭載された。

 Tu-95が当時のソ連爆撃機の中では最大級であったことからも、ツァーリ・ボンバの巨大さをうかがい知ることができる。

 ツァーリ・ボンバには投下機が爆心地から45キロメートル程にある安全圏へ退避する時間を与えるために重量800kgにも達する多段階の減速用パラシュートが取り付けられた。

 午前11時32分、ツァーリ・ボンバは北極海にあるソ連領ノヴァヤゼムリャ(73.85°N 54.50°E)上空で投下された。投下高度は10,500メートルで、内蔵された気圧計によって高度4,000メートル(海抜4,200メートル)に降下した時点で爆発した。

 一次放射線の致死域(500rem)は半径6.6キロメートル、爆風による人員殺傷範囲は23キロメートル、致命的な火傷を負う熱線の効果範囲は58キロメートルにも及んだと見られている。

 爆発による火球の下部は地表まで届き、上部は投下高度と同程度まで到達した。火球は1,000キロメートル離れた地点からも観測された。生じたキノコ雲は高さ60キロメートルの中間圏に達し、幅30-40キロメートルであった。

 上述の通り、核分裂による放射性汚染はわずかだった。この爆発による衝撃波は地球を3周してもなお空振計に記録され、日本の測候所でも衝撃波到達が観測された。

 当初、アメリカはツァーリ・ボンバの爆発力を57メガトンと推測していたが、1991年に公開されたソ連の関連資料により実際は50メガトンであったことが判明した。

 威力を半分に抑えた当爆弾ではあるが、その威力は単一の兵器として人類史上最大である。ちなみに、アメリカが開発した最大の核爆弾B41の核出力は最大で25メガトンであるとされ、核爆発実験では1954年3月1日のキャッスル作戦(ブラボー実験)の15メガトンが最大である。

 TNT換算50メガトンの爆発では2.1×1017ジュール(= 210PJ)のエネルギーが解放される。爆発中の平均仕事率は5.3×1024ワット(= 5.3YW)に相当し、太陽の光度の約1.4パーセントにあたる。

 2020年8月20日、ロスアトムは1961年の実験映像をYouTubeに公開した。


参考 Wikipedia: ツァーリ・ボンバ -