硫黄島で噴火
硫黄島というと1945年2月19日から3月26日において日本軍とアメリカ軍が40日間にわたる死闘の末、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し玉砕した硫黄島の戦いを思い出す。今年は戦後80年だ。
その小笠原諸島の硫黄島で昨日9月1日(月)に噴火が発生し、今日2日(火)も継続している。硫黄島で噴火が確認されるのは今年2月以来。噴煙は高さ1000m以上まで上がった。その後、勢いは弱まっているものの、噴火は継続している。また、8月30日頃からは地震活動の活発化とともに、通常より大きな隆起が観測されている。
硫黄島は西之島の南方250kmの火山島。西之島も火山活動が活発であり、特に1973年5月から翌年の1974年5月にかけての噴火と、2013年11月以降の噴火などではいずれも、噴出物が堆積して新たな陸地が生じるほどの激しい活動となり、新しい陸地は従来の西之島と一体となって陸域面積が拡大した。このあたりは火山活動により、新しい大陸ができていく過程を私たちは目撃しているのかもしれない。
硫黄島
硫黄島は、日本の小笠原諸島南部にある火山列島(硫黄列島)に属する島。南西端にある摺鉢山から北東へ8.3キロメートルの長さで扇形に広がっている。
行政区分上は東京都小笠原村で、東京都区部(東京23区)からは南に約1250キロメートル、村役場などがある父島から南に約280キロメートル離れている。
太平洋戦争末期までは一般島民が暮らしていたが、1944年(昭和19年)に疎開させられた後、翌年の硫黄島の戦いでアメリカ軍(米軍)に占領された。日本国政府へ施政権が返還された後は自衛隊が駐屯して硫黄島航空基地を運用しているほか、自衛隊単独およびアメリカ軍との日米共同訓練を実施している。
民間人は旧島民による慰霊、戦死者の遺骨収集などで来訪するのみである。小笠原諸島を対象とした小笠原国立公園や世界自然遺産の指定・登録エリアからも除外されている。
大航海時代以降、西太平洋に来航したヨーロッパ諸国の船が近海を航過しており、16世紀半ばにはスペイン船がヴルカーノ(火山島)、18世紀後半には英国船がサルファー・アイラント(硫黄の島)として記録している。
大日本帝国政府は1891年(明治24年)9月に勅令で硫黄列島を東京府小笠原島庁所轄の領土として編入し、サルファー島を「硫黄島」、その北にあるサン・アレッサドロ島を「北硫黄島」、南に離れたサン・アグスティン島を「南硫黄島」と命名した。
硫黄島の戦い
作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。
上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。
しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続いた。最初アメリカ軍は5日間の戦闘期間を想定していたが、40日間にわたる死闘の末、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。
アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなった。
いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち95%の19,900名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。
太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944年-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。

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