人工リボ核酸「フレキシザイム」
薬九層倍(くすりくそうばい)…江戸時代、「薬は原価の9倍で売れる」と言われるほどもうかる商売だったようだが、今は新薬の開発に何百億円もの投資が必要な時代だ。グローバル市場で国内外のメガファーマ(巨大製薬会社)がしのぎを削る中、2006年に東京大学発バイオベンチャーのペプチドリームは創業した。
基礎研究で得た技術からペプチド医薬品の創薬開発プラットフォームを生み出し、10年を経てビジネスはゼロからイチに前進した。持続的な成長を確かなものにしていく第二創業期にあって、製薬企業としてグローバルに戦っていけるかどうかの正念場を迎えている。
ペプチドリームの創薬技術の根幹は、触媒としてはたらく人工のリボ核酸(RNA)触媒「フレキシザイム」だ。東京大学教授の菅裕明が開発した。
生物の体内では通常、DNAの遺伝情報がmRNA(メッセンジャーRNA)に写し取られ、それに従ってtRNA(トランスファーRNA)がアミノ酸を運び、タンパク質やペプチドが生み出される。フレキシザイムを使うと、天然アミノ酸だけでなく多種多様な非天然型アミノ酸もtRNAに運ばせることができ、従来はない特殊ペプチドをつくることが可能になる。
リング状の構造をもつ環状ペプチドなど10兆種類にものぼる特殊ペプチドのライブラリーをつくり、その中から次世代医薬品とされるペプチド医薬品につながる有用なヒット化合物を見つける。そんな「ペプチド創薬」のプラットフォームを、フレキシザイムは生み出した。
ペプチドリーム起業
菅が経営者としてコンビを組んだのは、研究開発型ベンチャー立ち上げの経験がある窪田規一(現・株式会社ケイエスピー代表取締役社長)だ。窪田はフレキシザイムが生み出す環状ペプチドと創薬開発プラットフォームの可能性を見いだした。それとともに、米国での研究経験が長く、アカデミアとビジネスを独立したものとして考え、見ることのできる菅の感性や人柄にも惹かれたという。
2006年7月にオフィスを東京都千代田区に、ラボを東京大学駒場キャンパスに置いてペプチドリームを起業。10年に創薬開発プラットフォームシステムを確立した。
薬を創ることを目標とすると、達成までに10年以上はかかる世界。その間、売り上げは入らない。ペプチドリームは投資家からの資金調達を抑え、自己資金を中心とした運営を貫き、創業から7年目の2013年に東証マザーズに上場した。
2015年に東証一部に市場変更してからも基本的に黒字が続く。「当初のゴールは達成した」として窪田が17年に取締役会長を退任し、菅も一線から退いた。民間ベンチャーキャピタルの運用期間や事業継続性の観点から「スタートアップは10年一区切り」とされる。まさにその10年を迎え、社長は創業メンバーだったリード・パトリックに交代した。
同じ頃、外資系コンサルティング会社にいた金城聖文は、企業経営の腕を見込まれ、副社長としてペプチドリームに入社することになった。
良くも悪くも研究開発に偏った会社
入社した金城が見た上場から5年目の会社は、売り上げこそ年間50億円に迫っていたが、70人ほどいる社員の9割以上が研究員という構成だった。研究員以外の社員は5人いるかいないか。渉外はおろか法務や知財の専門チームも存在せず、他企業との共同研究を決めた契約書を見ると、基本的に相手方の提示した内容で、自社の主張を通せずにいる様子が見て取れた。研究条件も自社に有利な内容とは言えず、研究相手との交渉で押し切られている心配があった。
金城は「技術とビジネスの両輪がバランス良く回らず、うまくいかなくなるベンチャーが多い」ことを知っていた。ペプチドリームが持続的に成長していくには、研究開発に偏らずビジネス部門や管理機能の強化を進め、両輪のバランスをとる必要があると改めて認識した。
良くも悪くも「研究開発だけが進んでいる」会社で、いわゆるディープテック系のスタートアップの多くがそうであるように、素晴らしい技術をもっていた。
ただ、2017年、本社と研究所の竣工式パーティーに参加したとき、知人の証券アナリストらに「とんでもない時期に来ますね(入社しますね)」と言われた。
投資家やアナリストは、バイオベンチャーというのは上場時に時価総額が最大となり、その後ピークアウトして業績も株価も下がってしまうのが大半だと見ている。私のことも「火中の栗を拾いにきた」ぐらいに思われていたのだろう。
海外へグローバル展開
「とんでもない時期に来たのかなぁ」とのんびり構えていましたが、入社してビジネスの実情を目の当たりにすると、「自転車操業でいつ赤字になってもおかしくない。世の中の言うことにも一理あるな」と妙に納得する一方で、日本の産業界がよく揶揄されるように「技術で勝ってビジネスで負ける」という結果にならないよう、ビジネス・管理面の強化のために自分が果たせる役割がありそうだと前を向いたことを思い出す。
売り上げは、2013年に東証マザーズに上場するときは6億円、東証一部に市場変更をする15年には24億円まで伸びていた。スイスのノバルティスファーマや英国のアストラゼネカといった海外メガファーマとパートナーとなり、創薬の共同研究をするプログラムが立ち上がっていた。
診断薬や治療薬開発の初期における共同研究開発の契約一時金や、開発の進捗に応じて支払われるマイルストーン収入などの実績を重ねたことで、本社・研究所を川崎市に移転した17年には売り上げが48億円となり、ビジネス的にも「ゼロからイチを生み出した」と胸を張れるところまで成長していた。
バイオベンチャーでは、日本国内での取引に終始してしまう会社が多い。ビジネスがうまく回るようになり始めてから海外市場に出ていくのは、一般的なセオリーとしては理解できる。だが、ヘルスケア市場の9割以上が海外に広がるのに、国内にとどまって「井の中の蛙」でいるのは機会損失のデメリットが大きい。
ペプチドリームが創業当初からグローバル展開をして、海外の大手製薬会社に臆することなく技術の説明を積み重ねてきた努力は尊敬に値する。技術そのものの素晴らしさを礎に、パートナープログラムの拡大による着実な成長により、ペプチド創薬のグローバルハブとしてのポジションを確立する足場固めができた。
また、当初から早期の黒字化を目指していたことも、ゼロからイチを生み出した理由。ただ、ゼロをイチにするために必要な努力とイチを10にするのは別もので、第二創業期を担うには「別の筋肉」が必要。ゼロからイチの延長線上で10まで成長するのはまれで、ギアチェンジが必要なのだ。
プロジェクト増による成長は実現不可能
バイオベンチャー界隈では、株式の時価総額がせいぜい100億円前後にとどまる「百均問題」が指摘されている。入社当時、金城はペプチドリームの成長の参考にできるようなバイオベンチャーを国内に見つけることができなかった。その中で、まずは売り上げ100億円の壁を目標として、次に300億円の壁に向けたチャレンジをスタートしようと考えた。
金城は「実現可能なステップを一つずつ踏んでいくこと、そしてゴールから逆算して必要なことを戦略に落とし込んでいくことが、あらゆるベンチャーに通ずる重要な考え方だ」という。当時はプロジェクトの契約一時金は概ね数億円。ひとつのプロジェクトの契約と交渉に半年はかかる中で、プロジェクトを増やして持続的に売り上げを伸ばすのは実現可能性がないと判断した。
創業時から続けていた創薬開発プラットフォーム事業は、共同研究プロジェクトにおいて創薬ヒットのタネを売って、プラスアルファでライセンス収入も得るビジネスモデルだ。社員数には限りがあるため、年間のプロジェクト数を激増させることはできない。増やしたとしても、利益はある時期にプラトー(停滞・安定期)に達する一方、積み重なるコストが徐々に増えて損益分岐点を超え、黒字から赤字に転落してしまうのは目に見えていた。
プロジェクト数を年間5つぐらいから大幅に増やすことが難しいとすると、最終的に500億円の売り上げを目指すならば、プロジェクト単価を100億円にするしかないという単純な結論。ヒット化合物の同定が初期のビジネスモデルで、見つけたヒット化合物を共同研究先に譲り渡し、その後の創薬工程の後半は完全に任せてしまっていた。
ヒット化合物の同定だけではバリューチェーン(価値創造のプロセス)が狭く、契約一時金は数億円程度にとどまる。目星をつけた化合物を磨いていき、細胞や動物を用いた試験や臨床試験まで取り組むよう研究開発機能を広げていくことで薬の完成に近づければ、プログラムの付加価値が上がる。
創薬工程の後半にも手を広げるために、新たな人材を採用して組織も変えた。創業当初は、バイオ系出身の研究員が多かったが、化合物の特性に関する知識や経験を実務にいかせる化学系の研究員を増やした。
薬効を確かめる細胞実験や動物実験の段階を見越し、薬理を学んだ薬学系の人材や獣医学部で動物の扱いを学んだ人も積極的に集めるようになった。製薬会社の開発担当者を引き抜くことさえあった。臨床試験を進めるためには、医師をはじめとした医学系の人材も確保した。
工程ごとに部門・チームを作り、業務に応じた人材を採用する組織作りをビジネスとの両輪として進め、創薬工程全体をコントロールできるようになった現在、組織作りにM&Aを組み合わせて300億円の売り上げを達成した。次は500億円の壁に向けたチャレンジをする段階になっている。
売り上げ500億円へ、放射性医薬品を新たな柱に
創薬工程の後半まで自社で取り組むことでプロジェクトの単価は上がった。それに伴い、売り上げは2017年6月期の48億円から24年12月期の466億円と10倍ほどまで増加した。だが、創薬工程全体をコントロールする取り組みだけでは目標の500億円には届かない。そこで18年ごろから、新たな領域への挑戦を始めた。放射性医薬品だ。
ペプチドと放射性物質を結合させ、がん細胞などの標的に放射性物質をデリバリーするアプローチが海外で注目を集め始めていた。放射性物質を病巣まで運ぶ際に、抗体や低分子に比べ、環状ペプチドの相性がとりわけ高いこともわかってきた。
ペプチドリーム社の創薬開発プラットフォームは、欲しい機能を持つペプチドを探す汎用性の高いプラットフォームであることは確かなのだが、汎用性が高いということは、うまく扱わないと、必ずしも薬には向かない化合物ばかり探索してしまう面もある。
失敗も想定外なら、成功も想定外に起きる。理屈で四の五の考え過ぎず、実際に実験を繰り返すことで試行錯誤を重ね、事業の柱になるとの確信を深めた。まさに今、放射性医薬品の開発は大詰めを迎えている。
放射性医薬品の開発を進めるに当たっては、富士フイルム富山化学の放射性医薬品事業を継承したPDRファーマ(東京都中央区)を2022年に買収して子会社にした。今年7月、前立腺がん向け放射性医薬品2種類の有効性を調べる臨床試験(治験)の計画を医薬品医療機器総合機構(PMDA)へ届け出た。実際に患者へ投与する治験を年内にも始め、早期の承認取得を目指す。一方、スタートアップのリンクメッドとは23年に戦略的パートナーシップを結び、悪性脳腫瘍治療薬の開発を始めた。治験は最終段階の臨床試験第3相に進んでいる。
放射性医薬品の開発という新しい領域でのストーリーは、多くの人にとってなじみのないもの。潜在的なポテンシャルを理解してくれる人もいたが、私たちが説明する優位性について、あまり胸に響かない人もいた。その後しばらくして、大手製薬会社が同じ領域に大型投資をしたというニュースが次々と報じられ、雲行きが変わった。
PDRファーマを子会社にしてから放射性医薬品開発のプロジェクトが一気に加速し、臨床段階まで進むものが年1、2個のペースで増えた。子会社化の決断時に金城の頭にあったのは「創薬工程の後半を他者に託すとコントロールできず、創薬が期待通りに進まないことが起きるようになる」という考えだ。
ベンチャーは、既存のビジネスに安住せず、成長し続けなければならない。成長のためにはトライ・アンド・エラーを積み重ねていく必要があり、失敗はどの段階でもつきもの。コンサルでは、いろいろなステージにおける数多くの失敗例と数少ない成功例を見て、失敗しても大コケしないことが重要だと学んだ。
企業ごとの成長段階での落とし穴を想像しながら、新しいチャレンジを続けていきたい。ペプチドリームの成長ステージは、まさにこれからが本番。放射性医薬品は一本目の柱になりつつあるが、さらに新しい柱が増えていく見通しで、楽しみしかない。
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