冬将軍に敗れたナポレオンとヒトラー
ナポレオンとヒトラーは、どちらも広大なロシアの地での出兵に失敗した。両者とも、ロシアの厳しい冬(冬将軍)到来前に戦争を終わらせることを目論みたが、ロシアの広大な領土と「焦土作戦」により兵站が困難になり、退却を余儀なくされた。
これはナポレオンの1812年のロシア遠征と、ヒトラーの1941年のバルバロッサ作戦に共通する特徴だ。歴史は繰り返すというが、なぜ再び同じ過ちをヒトラーは繰り返したのだろうか。
1789年のフランス革命後に起きた、大規模な戦争「ナポレオン戦争」は、その名前の通りナポレオンという軍事的天才が主役を務めた。

ナポレオンは、従来の「横隊」密集陣形を「縦隊」陣形に変更した。訓練を受けていない大量の新兵に適応するため。この戦術的変更は大きな変化をもたらす。地形の制約を受けず、山や川など様々な地形での戦闘を可能にした。
また攻撃範囲が広い火器(銃や大砲など)が発展したことも重なり、散兵戦法が定着する。散兵戦法では兵士たちが広範囲に分散して戦闘を行い、敵の陣形を乱すことができたので、より機動的で変化に対応した戦闘スタイルが可能になった。
フランス革命後のヨーロッパ「対仏大同盟」
フランス革命後、ヨーロッパの王政の国々はフランスに対して対仏同盟を結成した。フランスの市民革命の波及を恐れたからだ。以後のフランスに対する干渉戦争をフランス革命戦争という。1792年から1802年にかけて、フランス革命を巡ってフランスとヨーロッパ諸国との間で行われることになる。
フランス革命戦争は、当初はフランス革命に対する諸外国による干渉戦争であったが、フランスは第一次対仏大同盟および第二次対仏大同盟に勝利して、革命政府の国際的承認と大幅な領土拡大を勝ち取った。
なお1799年11月9日のナポレオン・ボナパルトの第一統領就任以降は、「フランス革命戦争」ではなく「ナポレオン戦争」と呼ばれる。封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが担うるのは無理があったため、フランス産業も苦境に陥った。
1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年、ナポレオンは対ロシア開戦を決意、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。
1812年ナポレオンのロシア遠征。この背景はイギリスに対抗するための「大陸封鎖令」にロシアが従わなかったことが、出兵の主な理由だ。
6月23日にロシア領に侵攻。当初は67万5千人の兵力でモスクワを目指したが、ロシア軍は直接的な戦闘を避け、退却を続けた。9月にモスクワに入城したが、市内に食糧や宿営地はほとんどなく、ロシア軍によって火が放たれていた。
補給が困難になったため、10月19日に退却を開始した。しかし、厳しい冬とロシア軍(ゲリラ含む)の攻撃に苦しみ、兵力は激減した。フランスに無事に戻った兵士は12人中わずか2人という悲惨な戦争だった。
このロシア遠征では、凍死で亡くなった者も多かったが、実は疫病で亡くなった者の数の方が多かったという。疫病の原因はなんだろうか。
発見されたのは回帰熱、パラチフス
今回、集団墓地に埋葬された兵士たちのDNAを分析したところ、モスクワからの撤退中に死亡したナポレオン軍の兵士たちの一部は、これまで見つかっていなかった病気に苦しんでいた可能性を示す証拠が発見された。
1812年、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがロシア遠征から撤退する中、およそ30万人もの兵士が命を落とし、軍はほぼ全滅した。その多くが強制的に集められた兵で、「冬将軍」と言われるひどい寒さや疲労、飢餓、そして病気という数々の苦難が重なった末にこの世を去った。
これまでの記録によると、兵士たちの死因とされた主な病は発疹チフスと「塹壕熱」(Bartonella quintana)だった。
ところが最近、リトアニアのビリニュスにある集団墓地に埋葬されていた兵士たちのDNA分析を行ったところ、そうした病気の痕跡は見当たらない一方で、2種類の異なる細菌の痕跡が見つかった。これは撤退中のナポレオン軍が、これまで考えられてきたよりも多様な病原菌にさらされていたことを示唆している。驚きの発見は2025年10月24日付けで学術誌「Current Biology」に発表された。
今回見つかった病原体のひとつは、ボレリア菌の一種Borrelia recurrentisだった。このダニ媒介性の細菌は、シラミによって広がり、「回帰熱」と呼ばれる衰弱性の病気を引き起こす。この病は、今日のヨーロッパではほとんど見られないものだ。
もうひとつの病原体はサルモネラ菌の一種Salmonella entericaであり、「パラチフス熱」と呼ばれる症状の原因となる。発疹チフスとよく似た熱、発疹、下痢などの症状を示すが、発疹チフスのようにシラミによって広がるのではなく、主に糞便で汚染された水や食料を摂取することによって感染する。
今回の研究によって、古いDNAの解析が歴史上の疾患を調べるうえで非常に強力な手段であることが、改めて明らかになった。
分析の対象となったのが、集団墓地に埋葬された3000人以上のうちわずか13人分の歯であったことを踏まえ、ラスコバン氏は今回の発見が「発疹チフスは死因ではなかった」ことを意味するわけではない。この研究結果はむしろ、兵士たちの死や健康状態の悪化に関連したその他の疾患を探る手がかりになるという。
デ・キルヒホフの自然発生説の否定
ナポレオン軍の軍医であったヨーゼフ・ロマン・ルイス・デ・キルコフは、ロシア遠征中に自らが行った治療についての本を1836年に出版している。キルコフによると、病人やけが人が収容されていた病院は「悲惨と感染の汚水だまり」だった。
病の原因は、汚れた衣服、粗末な食事、疲労、過密な環境にあると彼は考えていた。同書の中でも特に興味深い一節には、ひどい下痢の原因は、兵士たちが周辺の民家から盗んできた発酵したビーツだとある。少なくとも兵士たち自身の衛生状態の悪さが病気を引き起こした可能性が高い。
1812年当時は、感染症が微生物によって引き起こされることはまだ知られていなかった。多くの専門家は、病気は汚物から自然に発生し、「汚れた空気」を通じて広がると信じていた。
この考えが、パスツール研究所の創設者であるルイ・パスツールによって間違いであることが示されたのは、それから数十年後のことだ。にもかかわらず、デ・キルコフは、現在のベラルーシにあるリオスナの街ではナポレオン軍の到着後、多くの市井の人々が病に倒れたことを記録している。
「1月から2月にかけて通過したあらゆる場所で、我々は混乱と死をもたらした」と、デ・キルコフは書いている。地元住民たちは「我々に宿と食事を提供することを強いられ、軍の通過によって多大な被害を被っただけでなく、殺人的な伝染病の犠牲者となった。それは我々がもたらした死の贈りものだった」
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