遺伝子の発見者
iPS細胞がようやく実用化される。iPS細胞の作製発表が2006年。ずいぶん前に発表された研究のように思うが、20年後の実用化はこれでも速いそうだ。
iPS細胞は「遺伝子」を操作してつくられた人工多能性幹細胞。今や遺伝子というのはあたりまえに使われる言葉になったが「遺伝子」の意味は、形質を伝えるもとになるもの。その存在を世界で最初に発見した人は誰か。
そうメンデルである。遺伝子の存在を証明したメンデルの業績は、メンデルの法則にまとめられている。19世紀の修道士だった「グレゴール・メンデル」がエンドウ豆の交配実験から発見した、形質(特徴)が親から子へ遺伝する規則性をメンデルの法則という。

メンデルの法則とは、優性の法則(顕性の法則)、分離の法則、独立の法則の3つから成り、現代遺伝学の基礎となっている法則だ。
優性の法則(顕性の法則)は、対立する形質の純系(例:丸としわ)を掛け合わせると、子には、両親のどちらか一方の特徴(優性・顕性)だけが現れることをいう。
分離の法則は、自家受粉させてできた孫の代では、隠れていた形質(劣性・潜性)が再び現れ、優性:劣性の割合が「3:1」 になること。これは、ペアになっている遺伝子が減数分裂時に分離するためである。
独立の法則は、2つ以上の異なる対立形質(例:種子の形と色)が同時に遺伝する場合、それぞれが独立して分離・組み合わさり、形質同士は混ざり合わないことをいう。
メンデルはエンドウを使った実験を通して、優性の法則や分離の法則が生じる理由を考え「遺伝子は2つペアで存在する」と予想した。
メンデルはどんな人か
オーストリア帝国の植物学者で遺伝学の父であるグレゴール・メンデル。写真は1860年ごろ撮影されたもの。1856年から1863年にかけてメンデルは修道院の菜園で3万株近いエンドウマメを育て、親から子に特徴が受け継がれる際の特定の法則を発見した。
グレゴール・ヨハン・メンデルは今日「遺伝学の父」と呼ばれている。「メンデルの発見がなければ、今の遺伝学は存在しなかったでしょう」と、米エール大学の歴史学教授ダニエル・ケブレズ氏は言う。とはいえ、メンデルの功績が認められたのは、彼が亡くなった1884年よりあとのことだった。
「メンデルの研究が関心を集めるようになるのは死後16年がたってからでした。残念なことです」と、米スタンフォード大学でフランセス&チャールズ・フィールズ教授職(スタンフォード大学が業績優秀な教員に付与する称号)にある歴史家のジェシカ・リスキン氏は言う。
メンデルの実験はなぜ生前に日の目を見ることがなかったのだろうか。そして、その後に生物学をどう変えていったのかを、偉大な実験の成果が発表された2月8日を機に振り返ってみよう。
「極端に引っ込み思案」な修道士
メンデルが遺伝学の種をまいたのは、現在のチェコ共和国ブルノの人里離れた修道院だった。
オーストリア帝国で自作農の子として生まれたメンデルは、聖アウグスチノ修道会に入会するも、修道士としては残念なスタートを切ることになる。メンデルの指導者だったキリル・ナップ修道院長が書いているように、メンデルは「極端に引っ込み思案」で小教区を任せるのにふさわしくないと判断されてしまったのだ。
父親の農園で働いた経験や、ウィーン大学で科学や数学を学んだ経験から、メンデルは修道院の菜園を任された。
有名なエンドウマメ(Pisum sativum)の実験は、ブレノの聖トマス修道院で暮らしていた1856年から1863年の間に行われた。メンデルはエンドウマメの色や形が世代から世代へと受け継がれていく仕組みを解明しようとした。
メンデルに実験を行うよう促したのは、植物の遺伝に関心を持っていたナップ修道院長だった。エンドウマメを実験材料に選んだのは人為的な交配が簡単だからだ。
メンデルは8年間で約2万8000株のエンドウマメを育てた。エンドウマメ1株につき数十のサヤがつく。さやの中の豆の数で考えれば少なくとも100粒以上になり、たやすく形質(形や性質)を観察できたはずだ。「育てるコストが安く、大量に栽培できて、成長が早い植物を見つけることが『統計的パターン』を発見する最良の方法です」と、ケブレズ氏は言う。
大発見になるとは自身も気づいていなかった
1856年から始めた実験でメンデルは条件を徹底的に管理し、注意深く観察を続けた。種子(豆)の形、アルブミン(エンドウマメの胚などに含まれるタンパク質)の色、種皮の色、サヤの形、未熟なサヤの色、花の位置、茎の長さというエンドウマメの7つの形質をつぶさに記録し、自家受粉させた場合と他家受粉させた場合とで、次世代にどのような形質が現れるかを詳しく記録した。
これがのちに科学的な大発見になるとは、メンデル自身も気づいていなかった。当時の科学では、子には両親の形質が混ざり合って受け継がれると信じられていた。
だが、メンデルの観察結果はこの考え方に反していた。メンデルは偶然にも、のちに遺伝子と呼ばれるようになる「粒子」が、次世代に形質を伝えることを発見したのだ。
メンデルは実験を始めたとき、必ずしも植物の遺伝の謎について答えを見つけようとしていたわけではないと、ケブレズ氏は言う。
「メンデルは花を咲かせる植物の育種家で、さまざまな色の花を生み出すために異なる種類を掛け合わせていたことで知られています。当初、彼の関心はその辺りにあったと思います」。メンデルは、植物を交配させたとき、どのような子孫が生まれるかに特定の法則があるのかどうかを見極めようとしていたのだ。
メンデルは1865年2月8日と3月8日にブリュン(今日のブルノ)の自然科学協会で約40人の出席者を前に発見の概要を発表した。その翌年に発表した論文では、今日「メンデルの法則」として知られる遺伝に関する3つの原理について記述しているが、当時はほとんど注目されなかった。
メンデルの第1の原理は「顕性の法則」だ。形質を決める独立した要素には顕性(例えば、そばかす)と潜性があり、顕性の形質だけが一様に表れる。
第2の原理は「分離の法則」。生物は形質について父親由来と母親由来の2つの遺伝子を1対持っており、子に受け渡すときには対になっている遺伝子が分離して1つずつ子に受け継がれる。
第3の原理である「独立の法則」は、ある形質の遺伝子が分離する際、別の形質の遺伝子の分かれ方に影響しない。つまり母親の青い目が子に遺伝したとしても、赤い髪も遺伝するとは限らないということだ。
1900年に再発見され「遺伝学」の土台に
遺伝子の研究に大きな進歩をもたらす発見だったにもかかわらず、メンデルが科学界と密接なつながりを持っていなかったせいで、存命中は注目されなかった。「メンデルは誰とも知り合いではありませんでした。ダーウィンなどと情報交換をすることもありませんでした」と、リスキン氏は言う。
メンデルが科学者としてあまり知られていなかったことに加え、19世紀半ばの科学者の関心事は主として進化であり、遺伝は特に関心の高い分野ではなかったと、ケブレズ氏は説明する。
メンデルは1884年に亡くなるが、その後、進化生物学者は、農業を活用して種に起こる変化を調べるようになる。また植物学者は大量の植物を育て、形質がどう世代から世代へと伝わるかを理解し、品質改良につなげようと試みた。
1900年、カール・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマク、ユーゴ―・ド・フリースという互いに面識のない3人の科学者がそれぞれ別々にメンデルの研究を再発見し、遺伝学と呼ばれる学問の鍵を見つけだす。
遺伝学という分野が誕生したのは20世紀になってからだ。「メンデルは遺伝子とか遺伝学などという言葉は使っていませんでした」と、米ジョンズ・ホプキンス大学の科学技術史教授であるシャロン・キングスランド氏は言う。「1900年以降、生物学者たちがメンデルの研究に触発され、今日遺伝学と呼ばれる分野を新たに作ろうと主張したのです」
「遺伝学(genetics)」という言葉が使われるようになったのはメンデルの死から21年後のことだ。1905年に生物学者のウィリアム・ベイトソンが同僚のアダム・セジウィックに宛てた手紙の中で、遺伝に関する研究を、ギリシャ語で「誕生」を意味する言葉を使ってgeneticsと呼んではどうかと提案したのが最初だった。
翌1906年、この言葉は英ロンドンで開かれた植物の交雑に関する国際会議でも採用された。そして「遺伝子」という言葉が植物学者であったウィルヘルム・ヨハンセンよって造られ、40年以上前にメンデルが「粒子」と呼んだものにようやく名前が与えられた。
遺伝学の基礎を築いたメンデルの遺産
「メンデルが発見せずとも、いずれ誰かが同じ発見をしたでしょう」と、ケブレズ氏は言う。「しかしメンデルは自分が何をしているかを理解した上で、最初に発見をしたのです」
メンデルの研究は今も遺伝学の基礎であり、人間を含め多くの種で形質がどう次の世代に伝わっていくかを理解する礎となっている。メンデルの遺伝の法則はまた、子が親からどのように形質を受け継ぐかというダーウィンが解き明かせなかった疑問にも答え、現代の進化生物学を発展させた。
メンデルは自分の才能がいつか世に認められると信じていた。死の数カ月前、彼は別の修道士に「研究は私に大きな喜びと満足を与えてくれました。その成果と意義を世界が理解するまでそう時間はかからないでしょう」と語っている。

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