サグラダ・ファミリア 世界一高い教会に
スペイン・バルセロナで、建築の巨匠ガウディが設計した教会サグラダ・ファミリアが、完成に向けて大きな節目を迎える。
まるで生き物のような曲線と目もくらむような装飾に彩られたサグラダ・ファミリアは、20世紀初頭の天才建築家アントニ・ガウディの未完の代表作。ガウディの死後も建設が続けられてきたが、没後100年にあたる6月10日に合わせて、ついにメインタワーの「イエスの塔」が完成した。
敬けんなカトリック教徒だったガウディは、「人間の創造物は神が造った自然を越えてはならない」として、塔の高さはバルセロナの街を見下ろす丘よりわずかに低い172メートルあまりにとどめられたが、それでもドイツのウルム大聖堂を抜いて世界で最も高い教会建築になる。

「未完の大建築」がまさに完成に大きく近づく
ガウディ亡き後、後世の建築家たちは初期に造られた部分の修復を重ねながら、手探りで気の遠くなるような建設を続け、当初は完成までに300年以上かかるとされていた。
しかし、さまざまな新しい建築技術が取り入れられ、世界から訪れる観光客の入場料収入も投じられた結果、工事は想定よりはるかに速く進み、あと10年ほどで全工程が完了する見通しになった。
中でも「イエスの塔」の完成は最大の節目となり、10日には教会の地下にあるガウディの墓に献花が行われ、ローマ教皇レオ14世みずからが記念のミサを執り行うことになっている。
高さではウルム大聖堂(161.53メートル)やケルン大聖堂(157メートル)を超えて、世界で最も高い教会となった。ただし、これで全ての建設工事が完了するわけではなく、その後に本来の正門にあたる栄光のファサードと4基の塔、及び大階段などの建設にとりかかり、全体の完成は2035年頃になる見込みである。
2035年に完成とすれば、1980年代に見込まれた約300年という建築期間はその後の30年で半減し、約153年の工期で完成することになる。 なお、建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して既存部の修復も行われている。
完成しない姿に永遠の美しさ
一方で、急ピッチで建設が進む様子を少し複雑な思いで見つめている人たちもいる。
大階段建設のためには敷地を大幅に拡張する必要があり、建設委員会が土地の一部を取得し階段設置工事を開始した2019年以降、立退きを強いられる地元住民による反対運動が度々報道されている。
バルセロナでは近年オーバーツーリズムが深刻な問題になっていて、最大の観光スポットのサグラダ・ファミリアが完成に近づけばさらに多くの観光客が押し寄せるのではないかと、住民たちは眉をひそめている。
また文化人などからは、「サグラダ・ファミリアはいつまでも完成しない姿に永遠の美しさがある」とか、「神と対話しながら永遠に造り続ける営みに意味がある」といった意見も根強く聞かれる。
サグラダ・ファミリアに人類救済の願いを込めたというガウディ。世界に戦争や混乱が広がる時代に迎えるこの日の様子を、天からどんな思いで見守っているのか。
アントニ・ガウディ
19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した建築家。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)、グエル公園(1900 - 1914年)、カサ・ミラ(1906 - 1910年)をはじめとしたその作品は、アントニ・ガウディの作品群として1984年ユネスコの世界遺産に登録されている。
1852年6月25日、カタルーニャ地方のタラゴナ県に、父フランセスク・ガウディ・イ・セラと母アントニア・クルネット・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。一家の次女マリアと長男のフランセスクはそれぞれ幼くして亡くなったため、三男アントニは長女のローザ、次男のフランセスクとの3人姉弟の弟として成長した。
ガウディの出生地とされる場所には、レウスとその近郊の村リウドムス(Riudoms)の2箇所がある。レウス説は、洗礼を受けた聖ペラ教会の台帳や学校に提出された書類に基づくものである。その一方で、ガウディはリウドムスのマス・デ・ラ・カルデレラ(Mas de la Calderera)で生まれ、洗礼をレウスで行なったとも伝えられている。
ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランス、オーヴェルニュ地方からリウドムスへやってきた。リウドムス出身の父フランセスクは、銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師であり、「銅細工師の家」の意味をもつマス・デ・ラ・カルデレラは彼の仕事場であった。ガウディは父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた。
ガウディは6歳になるまでにリウマチにかかり、痛みのひどい時にはロバに乗って移動することもあった。病弱だったため、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家を作っていたという逸話がある。
また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っている、と反論したという話は、幼いガウディが自らの周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られる。後年、ガウディは自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である」と語っている。
1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナ建築高等技術学校で建築を学んだ。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられる。また、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園の装飾やモンセラートの修道院の装飾にもかかわった。
ガウディの処女作は未完のものも含めると1867年ごろの産業コロニアだといわれている。この仕事でマタロ協同組合の教師ペピタと知り合った。これが初恋であった。しかし、成婚に至らず、その後一生独身であった。
1878年4月に建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築高等技術学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、Elies Rogent)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる。
同年、ガウディはパリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザインした。この作品を通じてガウディの才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエル(エウゼビ・グエイ)侯爵であった。
グエル侯は、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した。1883年、ガウディは、サグラダ・ファミリア教会の専任建築家に推薦され、就任する。
ガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過ごした。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンのエウゼビ・グエイが死去した。またガウディ自身も1911年(当時59歳)にマルタ熱病に罹り、プッチセルダーで療養を余儀なくする。
女性に対して奥手だったガウディは生涯を通じて3人の女性に恋をした。一人目は20代後半の時で、ペピータ・モレウという奔放で男性人気の高い女性に恋をした。一回目の離婚手続き中だった彼女に恋をしたガウディは、毎週彼女の実家に食事に行って自分の好意を表していた。当時、スペインでは離婚を届け出てから離婚するまで、5年間が必要だった。 そして5年後に彼女の離婚が完了したところで告白するも、モレウは他の男性からもらった結婚指輪を見せて、ガウディを振った。その後、2人目に惚れた女性との恋も実らず、3人目に惚れた女性には「地中海を表現した建築を作る」と約束し、カサ・ミラを作った。しかし、この恋も実ることは無かった。彼女は出来ず、生涯を閉じた。
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